真っ暗な夜をモニターの明かりだけが照らす。遠くに見える大舞台の中は、ほんの数秒前とは打って変わって静かだ。
目論見通り、そこに残りそのトリックを暴いた男が仰け反る姿が見える。
「……よし、殺すなよ。周辺を整理するからその間時間だけ稼いでくれ」
通信機に向かって話しかければトントン、と二回指先で小突くような音が聞こえた。
役者に余計なアドリブを入れさせないために考えた合図だ。NOなら一回、YESなら二回マイクを叩く。
東雲は寒い風が吹き抜ける中、立ち上がって周りを見渡した。あのトリックの為に使った道具や配線をリュックに詰めて、此処からもう少し遠いところへ行こう。そうしたら逃げる準備も完璧のまま、目的を遂行できる。
思って乱雑にリュックの中に散らばったものを詰め込んでいく。食べ終わったお菓子から、コーラのペットボトルから、パソコンから携帯から何から何まで。
詰め終わった後、リュックを背負ってもう一度大舞台を見る。攻防を繰り広げている男と、己の相棒のしっちゃかめっちゃかな動きは正にコメディだ。相棒―――明乃の身体能力に勝てる人間なんて見たことがない。仮に体力や知力や腕力で勝てたとしても、明乃のそれは常軌を逸している。
明乃は最小限の動きを取る方法を知っていた。
生い立ちの所為で足りない知力の分、明乃は己の勘と本能で他人を読み取ることができた。
比較的小さく腕力が少ない分、明乃は他人を捕らえる技を覚えていた。
それも、全部勘で。明乃という人間は、そんな化け物じみた奴である。少なくとも道具や小細工ナシで真正面から闘っていい相手ではない。明乃は東雲にとって、とんだ儲け物だったと言える。
にやつく口を抑えながら、東雲は舞台に背を向けた。己の安全を確保することは、犯罪を犯している以上何よりも重要なことだ。
もう此処には用が無い。
そうして急に冷めたような表情をして、一歩踏み出した。
「待って!!」
それとほとんど同時に煩い声が空に響く。それが夜の闇に吸い込まれ、消えたのを確認してから東一は振り返らずにまた足を進めた。
「まっ……待って待って!本当に待って!!もう無理走れない……本当に走れない……!!インドア派!アタシインドア派なのに!!」
ぜえぜえと息を切らしながら女がそれでも走って、東雲の近くにやって来た。先程、目当ての男と一緒にいた女だ。ちらりと確認しながら、東雲は振り返ってしまわないように気を付けながら口を開く。
「なんだ、お前」
「はー!? なんだって何!アンタが予告状寄越したんでしょう!? 私の名前付きで!!」
「いいえ? 僕は通りすがりの一般人で〜す」
「だったら今すぐこっちを向いて、リュックの中身を全部見せなさい」
はあ、と重い溜息が吐かれる。東雲はその言葉を聞き、素直にリュックを地面に落とした。
「本当に知らないですって。僕、此処で夜風に当たってただけですよ」
「こっち側も三階から上は封鎖されていたはずだけど?」
「此処のスタッフなんで。なんなら社員証見せますよ、リュックの中に入ってるから」
「……………………」
地面に落ちたリュックに手を伸ばす。少し警戒の解けた女―――確か名前は水守綾って言ったーーが肩の力を抜いたのが見えた。
その瞬間を逃さない。リュックの中からありもしない社員証を掴むふりをして、スタンガンのストラップを引っ張る。
リュックの口から飛び出たそれの胴体を掴み、勢い良く相手に叩き付けた。
「っていう嘘なんだけど」
水守が怯む。同時に踵を翻して逃げる。しかし彼女は怯みながらも態勢を立て直そうとしているのが目に入る。
嘘だろ、と思いながら東雲は全速力で走った。正直、東雲自身体力は人並み……いや人並み以下である。切れる息が煩わしい、肩が痛いし、冷たい空気は喉を突き刺す。しかし走った。こんなところで捕まっては意味がない、ましてや"部外者"に茶々を入れられるなど言語道断だ。
庭園の端まで来て、東雲は一度止まった。後ろから女の待て!と騒ぐ声が聞こえる。しかし東雲は一度舞台のほうを見てから呟く。
「撤退だ、この通信機だけそこに置いて全速力で逃げろ」
水守が追いかけて来る。よろよろと頼りのない動きでは最早東雲を捕まえる事など不可能だろう。思って東雲は笑った。
「アンタに予告状? 確かに出したな、理由が知りたいか?」
「…………知りたいから此処に来たんだけど。怪盗に恨まれるようなこと、アタシは何も…」
「気になるならあの男に聞け」
東雲は舞台を指差す。水守はその指先の視線を追うと共に、東雲の次の行動にぎょっとして口を開いた。
「待っ……!!」
「じゃあな、探偵もどき」
ふっ、と。東雲は一瞬で姿を消した。
屋上にある庭園の柵を乗り越え、落ちたのだと理解するよりも先に身体が動く。まだ電流が走っているような気がする身体を無理矢理動かして、柵に手をかけ下を覗いた。
「嘘…………」
見たくないものがあるような気がして、おそるおそる目を開く。しかしそこに思っているようなものはなかった。
―――思っているようなものどころか、何も。
東雲は跡形もなく姿を消し、困惑だけを残した。最後に彼が残した言葉を思い出す。
―――気になるならあの男に聞け。
指差していた方を見る。天球儀が飾られていた場所を。明かりのついたその場所で、まだ"あの男"は見知らぬ誰かと闘っている。
***
「俺、こういうの得意じゃないんだよね」
言いながら焦りの見えない表情を浮かべて、男―――壱川はナイフを片手に動き回る影から逃げていた。
天井から降ってきた誰か……元バニーガールもまた、涼しい顔をしてナイフを振るっている。
その動きは的確だ。一寸の狂いもなく、"避けられる程度の攻撃"を永遠に繰り返している。まるで糸を引いた操り人形のように。まるでまだ芝居を続けているかのように。
少女にも少年にも見えるその影は、ひたすら壱川が逃げ惑う様を目で追っていた。決して部屋からは出さず、しかし殺さず。それがわざとであると早々に気付いたものの、語りかけてもなんの反応もしない。
誰かに、指示を出されている。もう一人、あの庭園の方にいるであろう誰かにそうしろと言われているのだ。
一体何のために?
考えながらもまたナイフの衝撃を躱す。元から当たらないのだと知ってしまえばなんの恐怖もありはしない。淡々と避けながら、壱川は影本人とのコンタクトを試みる。
「君のご主人様が狙ってるのは彼女かな? それとも俺?」
「…………」
「そろそろ返事して欲しいなあ、何の為にこんな回りくどい真似をしたのか」
「……………………」
「態々天球儀を昔の姿にしたのは何かを伝える為? 彼女が天球儀を取り返した事件に、何か不都合でもあったワケか」
「……………………………………………」
返事は一向に帰ってこない。影はひたすらに、同じ動きを繰り返している。
「なあ本当に、これが足止めならそろそろ………」
言いかけて、影の動きがピタリと止まる。思わず身構えるが、影はそのままほんの1ミリも顔を動かさずに一歩後ずさった。
何かと思い、此方も動きを止める。すると影はその場にしゃがみ込み、そしてまた立ち上がって踵を翻した。
「……?何を……」
影は失くなった窓の方へと向かう。窓から半分身を乗り出して、それから壱川の方へと少し振り返った。
「……ばいばい」
「……は!?おい、ちょっと待っ……」
言い切るよりも早く、細い身体が夜空へ放たれる。急いでそちらへ向かうが、影は闇夜に溶け込んで輪郭すら残さずに消えた。
唖然としつつも、すぐに頭が動き出す。何の為の時間稼ぎだったのか。まさか、この間に向こうに行かせた水守が……
と、思ったところで。ふと、あの影がしゃがみ込んだ場所に目をやった。
小さなイヤホンのようなものが落ちている。耳に入れれば殆ど見えないようなものだ。不信に思いながらも、それを手に取る。イヤホンから小さな風のような音が流れているのを確認してから、壱川は耳にそれを入れた。
「……こんばんは?」
掛けてみた無難な挨拶に、ふとイヤホンから笑い声が漏れる。どうやらこれは通信機か何かのようだ。慎重に音を拾いながら、庭園に目を向ける。
『こんばんは。いきなりで申し訳ないんだけど、アンタの相棒なら今頃痛みに唸ってるところだぜ』
「何?」
『怒んなよ、スタンガンぶちかましてやっただけだ。死なないさ』
不穏な気持ちになる。今すぐにでも安否を確認したい。この声が言っていることが本当である証拠なんて、何処にもない。
思って非常口の扉に手を掛けた。同時に声が続ける。
『アンタはなんでそんな格好で、そんなところで、あの女と一緒にいるんだ?』
声もまた、穏やかではなかった。そしてその問いかけに壱川は一つのことを察する。
この声は、俺の正体を知っている。
だからこその質問だ。そして真に怪盗がしたかったことがようやく明らかになった。
最初からこの質問が目当てだったのだ。これまでの全ては前座に過ぎない。この声は、壱川と二人で話せる機会を伺っていただけ。水守に予告状を渡したのは、本当に壱川と水守に繋がりがあるのかどうか観察したかったのかもしれない。
怪盗側の制裁行為だろうか。
「そんなこと聞く為にこんな回りくどいやり方を?」
『中々面白かっただろ?まあ見抜かれるだろうとは思ってたけど』
「プロジェクションマッピング……かなり出来がいいな、一瞬見ただけじゃ本当にケースごと消えたみたいだ、実にお見事」
『褒められたくてやったわけじゃねーよ』
一度振り返って、ケースがあった場所を見る。そこにはやはり何もないが―――そう見えるだけである、と壱川は確信していた。
プロジェクションマッピングというのは、対象に映像を投影し映し出す技術のことだ。天球儀と、ケース全体にその焦点を絞り、天球儀には二年前の姿を、ケースには後ろの背景を投影したのだろう。
天球儀が入ったケースを照らし出す為に置かれたライトが三つあるうち、真ん中のものだけ形が他と異なる事も確認した。先程闘った影が宙に浮いているように見えたのも、ただ本来あるケースの上に乗っていただけ、である。
つまり天球儀は無事……のはずだ。それよりも今は、水守がどうしているのかを見に行かねばならない。
『それで質問には答えてくれないのか? なんでそんな格好で探偵と連んでる』
「それを聞いてどうするっていうんだ。同業者の裏切り行為は許せない口か? だったら安心してくれ、俺は身も心も怪盗のままだ」
『よく言うぜ、信じられるかそんなの』
連絡橋に繋がる扉を開ける。冷たい風が流れ込んで頬を刺した。
『俺はアンタに憧れてたんだ』
悲痛な声。同時に連絡橋の向こう側から、水守が気怠そうに此方に向かってきているのが見えて安堵する。
『チェス人形……覚えてるか?』
「…………」
『あの日俺は、確かにアンタがいなきゃ捕まってた。いや、もしかしたらあの爺さんに殺されてたかもな。チェスができるただのガラクタなんて欲しいわけじゃなかったが、腕試しのつもりだったんだ』
壱川は思い出す。それは遠い昔の話。
自動でチェスの相手ができるという人形を盗みに入った時のこと。まだ幼い怪盗が捕まるどころか殺されかけていた為に、壱川はその怪盗と手を組んで脱走を手助けした。
それだけの話。
『自分がいかに未熟か思い知らされたよ。あの時のアンタは最高にクールだった!端から端まで無駄なく動いて、まさに怪盗と呼ぶに相応しかった』
「……買い被りだ。"アレ"はそんなんじゃない」
『……事実がどうであれ、俺が憧れてたそのアンタが、今は刑事で、しかもあんなしょうもない探偵と遊んでるなんて誰が信じる? 一体なんの為にそこにいるんだ、納得する答えが欲しい』
壱川は、何か文句を言いながら此方に怒鳴っている水守を一瞥して、壁にもたれかかった。ひとつ溜息を吐けば、なんだか今日という日が思ったよりもしょうもない日だったと思える。
「……俺が嫌いなものは二つあって」
『あ?』
「一つ目はこの博物館の前にある喫茶店のポテトサラダ。あれだけはどうしても食えない。他のメニューは美味いのに、何頼んでも付いてくるのが残念だ」
『おい、ふざけてんのか』
「二つ目は……」
強い風が吹く。風の音に紛れて館内を捜索している警備員の足音が聞こえた。
「ルールを守らない奴だ」
『…………』
「知ってると思うが、この世界には幾つもの暗黙の了解がある。金目のものは盗んでも金は盗むな。人は殺すな。同業者を売るな。……とかね。ルールや掟っていうよりは心得だが、それでも俺は大切に思うよ。人としての尊厳って奴を」
わかっている。怪盗なんて世間から見ればただの泥棒だ。それでも美しくいる為に守るべきルールが、昔からずっとある。
それを守らない輩なんて、それこそ沢山いた。いい事をしろ、善良であれ、なんて言うつもりはない。しかし、同じ怪盗という身分であるからこそ許せないことが多々あった。
怪盗とは何か。果たして盗むだけなのか。どうしてそんなルールが出来たのか。
考えなければいけない。この時代だからこそ、考えて施行することで、不安定な地盤を今こそ固めていかなければならない。
自分が間違えてきた道を、正す事も含めて。
「つまりはそういうこと。そういう輩を止めるのが俺の役目だと思って今は此処にいる。刑事って立場を利用して、ルールを守らない輩を裁く。……にしてはまだまだ権力が足りないからなあ、彼女はその代弁者ってわけだ」
『……マジで言ってるなら、かなりつまらねえ』
「結構。俺は俺なりに考えて此処に辿り着いたよ。それから」
展示室に数人の警察官と警備員が帰ってくる。同時に水守も連絡橋を渡りきって、壱川の元へと駆け寄った。
「今日の出来は60点ってとこだな。正直、お前の部下がナイフで攻撃してきた時点でお前もグレーゾーンだ。次はないぞ」
『……次なんてなくて構わねえよ!』
ブチ、と通信が切れる音がする。耳から通信機を取り出しポケットに入れて、壱川は水守に変わらぬ笑みを見せた。
怪盗でありながら、怪盗を裁く。その立場がどれ程危ういかなんて、わかっているつもりだ。
チェス人形を思い出す。あの日の事を思えば、なんとなく胃が痛くなった。
自分が一番道を踏み外してきた。だからこそ、此処で挽回したいと思う。あの日のことを、まだ間違えていたと言い切れない自分に煮え立ちながら―――
壱川は天球儀のことを、笑いながら警備員に伝えた。
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「だから!!大丈夫だってば!!」
「大丈夫じゃないよ、今すぐ病院に行こう」
「ちょっとチリッとしただけだって!そのくらいで病院なんて行ってたらキリがないじゃない!!」
「念の為念の為。何事もほら、慎重になるに越したことはないよ」
無謀な言い合いを博物館の前で繰り広げている男女を見ながら、探偵・宮山は肩を竦めた。どうやら話はあらかた片付いてしまったらしい。これでは救いようのない程の馬鹿が学習する機会もないようだ。
騒いでいる救いようのない馬鹿は、博物館の前にある喫茶店のショーケースに張り付いている。ポテトサラダ食べたい!と全身を使って喚き出したが、今は無視だ。
「木野宮」
「きのちゃん!」
「きのちゃん」
「はい!なんだね助手のみやまくん!」
「事件もう終わっちゃったみたい」
「えー!? じゃあ私の出番は!?」
「大丈夫、多分最初からいたとしてもそれはなかったよ」
「私の出番はーー!?」
「取り敢えず、話だけでも聴きに行こうね。ほら、聴き込みの練習だと思って」
「聴き込み!任せてみやまくん!!小学校の時から聴き込みだけは得意なんだ!!」
「小学校の時の聴き込みは多分役に立たない奴だと思う」
そそのかせばすぐに動くところだけは、この馬鹿な自称探偵のいいところである。
思いながら三歩ほど下がって見守る。木野宮は堂々とキープアウト、と書かれたテープを乗り越えて、未だに言い合いを続ける男女の元へと駆けた。
「たのもーーーう!」
「は?」
「ん?」
「…………」
「我こそは、探偵木野宮事務所二代目、木野宮です!」
うーん。まあ悪くはないかな。
顎に手を添えながら考える。できるだけ口出しはしないようにしよう。
「木野宮? って……」
女がちらりと隣の男を見る。なんの目配せだろうか。
「……あの有名な木野宮さんの娘さんだろ? 噂は聞いてるよ」
「良ければ事件の現場をのぞかせてください!」
率直。簡潔。しかしちゃんと敬語。木野宮にしては満点だ。
「……部外者は入れられないんだ。ごめんよ。それに、もう事件は終わったから、見たっていいことないさ」
「そうね。入ったってもうやる事ないわよ」
「み、みやまくーーん!!」
「はいはい」
二人に挟まれた木野宮は、まるで小動物のようだ。勢いよく振り返って半泣きになりながら此方を見るので、仕方なく助けに入る事にする。
「すいません。実は僕、助手になったばかりで。先生は僕に現場の空気だけでも吸っておけ、とその深きご慈悲でおっしゃっているのですが……事の顛末だけでも聞かせていただけませんか?」
木野宮は隣で何故か、そーだそーだ!と偉そうに威張っている。何がそーだそーだなのか。
「……まあ、構わないけど」
「はあ!? いいの!? 部外者はって言ったのアンタでしょ!」
「いいんだよ、どうせ明日には新聞に載るさ」
言って、壱川は最初から最後までの説明を簡潔にした。天球儀が昔の姿に変わった後、ケースごと消えた事。それがライトに細工をしていて、プロジェクションマッピングという技術で投影されていただけだったこと。だから天球儀は無事で、今は警備員たちによって保護されているということ。
宮山は聞いてから首を傾げた。聞いた話の細かい部分まで想像して、ちらりと木野宮を見る。すごいねー!すごいねー!と騒いでいる自称探偵は、何故か満足げだ。
「……引っかかるんですが」
「……なんだい?」
「ライトに細工がされていたということは、今日までの間に犯人がここに侵入したということですよね?」
木野宮はハッとした顔をする。
だけど多分、何もわかっていないと思う。
「だったらその時にもう盗めませんか? 態々予告状まで出しておいて、結局盗まずに置いておくなんてしますかね。犯人は劇場型犯罪者……だとしても、結果こうなることが見えていたなら」
言い終わるより前に、男が思い当たったように驚いた顔をした。どうして見逃していたんだろうか、とでも言うように。
男が女の手を掴んで一目散に走る。この際だ、便乗してしまおうと宮山も木野宮を担いでその後を追った。
辿り着いた天球儀の為の展示室は、今も警備員や警察がウジャウジャしている。元通りの姿となり、綺麗な銀色を発している天球儀の前に二人は立った。
「綾ちゃん、これよく見て」
「はぁ? 何いきなり」
「君は記憶力がいいだろう。前に見た時と何か違いは?」
言われて水守と呼ばれた女が天球儀の入ったケースを観察する。うーん、と唸りながら360度、全方面からそれを見る。
「……あ!」
そして数分経ってから、彼女は声を上げた。
「この……右端のところ。前のはボロボロの状態に殆ど塗装しただけだったから、ここが少し凹んだままだったんだけど」
そんなことを覚えているということは、彼の言う通り本当に記憶力がいいのだろう。
その1%でも、木野宮にわけてくれないだろうか。
「凹んでない。これ偽物だわ」
彼女はそれなりに大きな声で言った。勿論周りにいた警備員や警察にも聞こえる声で。
展示室が騒めきに包まれる。男は目頭を押さえて唸っている。女はあーあ、と肩を竦めて溜息をついた。木野宮は構わず天球儀を見てすごいすごい!と感動している。
宮山はそんな木野宮を見て、彼女と同じく肩を竦めた。
後に天球儀は鑑定に出され、本当に偽物だということが明らかになる。それが二ヶ月程前からすり替えられていたという事実を探偵たちが知ることはない。
「……やっぱ80点……」
「?」
夜風に打たれながら、二人組みの怪盗が悪戯に成功した子供のように笑っていることも。
展示室に仕掛けられている盗聴器が拾った男の台詞を怪盗が聞いていることも。
天球儀が怪盗たちの住むアパートのキッチンで、置物として埃を被っていくことも―――
何も知らぬまま、探偵たちは敗北を迎えた。
そして物語は、小さく小さく動き出す。