山妖譚〜S'ai〜 蛍煌の章


淡い緑の葉や草は日に日に色が濃くなり、ひと雨ごとに勢いを増していくように見えた。
土が剥き出しになり、枯れ木が立ち並んで荒涼とした景色が広がっていた山の風景は、年の瀬に湧き水が湧いて春の嵐が過ぎていってから一変した。
ザックスとアンジールが寝泊まりに使っている岩屋の岩にも、いつの間にか鮮やかな緑の苔が生えていた。
足元には短いがしっかりと根を張った草が生え、ところどころ小さな花を咲かせている。枯れていると思っていた木々にも少しずつ緑の葉が戻ってきた。
まだ隙間は多いが、風が通るたびに気持ちの良い葉擦れの音が響く。

去年の夏に龍神からもらった毛玉は春の訪れとともにもこもこと急激に増え、ある風の強い日、一斉に空に舞い上がると木々の梢にくっついて消えた。
ザックスは少し残念に思ったが、それは山がゆっくりと確実に回復してきていることの証明でもあった。
毛玉は生き物では無いと聞いていたが、飛び立つ時に頬をその柔毛で撫でるようにして行ったのは、またね、とそっと挨拶していったのではないかとザックスは思っている。
山に力が戻り、実りが多くなったらまた自然と沸いて出てくるものだから何も惜しむことはない。
そして山の回復に合わせるようにザックスの不安定だった心もようやく落ち着いてきていた。
雨が続いてもふさぎ込むことなく過ごせている。
冬の間の重苦しい身体が嘘のようだった。
アンジールの身体から離れなかった剣も、やはり春先から徐々に刀身が大きく厚く重くなり、柄に相応しい大きさになりつつあった。
何よりアンジールから離して置いておくことが出来る。
最近では鞘を抜くと研いだように美しい刃も現れ、調子の良い時はまるで剣から鼓動が聞こえるような気がした。ただ、ザックスが触れるとすうっと輝きが曇ってしまう。
ザックスはまだこの剣の持ち主としては相応しくないのだろう。
少々むくれた顔になるザックスに、アンジールが何気なく言う。
「背が伸びたな」
「俺?」
「ああ。顔も少し大人びた気がする。ガイがぶつかる前はお前も一人前だったんだろうな」
「よくわかんね。つーかもともと自分の姿がどんなんか、あんま気にしたことなかった気がする」
「お前、山にずっと一人だったのか?」
「ん?じいちゃんはいたよ。先代って言うの?でも昔に死んじゃって、残ってんのはこの牙だけ」
ザックスは胸に下げた勾玉状の飾りを持ち上げて見せる。
「なんでも出来たし、すっげえかっこいいじいちゃんだったんだ」
「そうか、会ってみたかったな」
「ちょっとだけアンジールに似てるかも」
「俺に?」
「顔とかじゃなくて雰囲気とか?じいちゃんのがかっこいいけど!」
きっぱり言い切るザックスに、アンジールは苦笑する。
「そうか。まあお前に本来の力が戻れば、この剣も元に戻るだろう。いい目安になる」
「そりゃそうだけど、持てないのなーんか悔しいんだよな」
ザックスが肩を落とした時、バサバサと羽音がした。

見上げると、白いカラスが重そうな風呂敷包みをくわえて降りて来るのが見えた。
なにやらヨロヨロと危なっかしい飛び方だ。アンジールの頭上まで来ると、力尽きたように風呂敷包みを落とす。
アンジールは胸前で包みを受け取り、肩にへろへろと降りてきた白カラスをねぎらった。
「ご苦労だったな」
「本当カラス使いが荒いったらねえよ……あーヤダヤダ。こーいう重い荷物運ぶのは猛禽の仕事だろうが」
白カラスは肩でも凝ったように首を交互に横に倒している。
「布だぞ?そんなに疲れ果てる重さか?」
「何持ってきたの?」
「夏物の薄衣だ。去年のはずいぶん傷んでいたから取り寄せた」
風呂敷包みの中から出てきた真新しい薄衣を見ながら、あれからもう一年経ったんだな、とザックスは思う。
去年この山はまだ土がむき出しで、雨が降ったら土が流れてしまった。龍神に雨を降らせないよう頼んで、それから毎日毎日、海に溢れていた魚や貝の死骸を山に埋めた。
その時着ていた衣服は泥だらけで魚臭くもなり、洗ってもすっかり綺麗にはならなかった。アンジールが御山から戻ってきた時に新しいものを持ってきてくれたので、冬の間はその着物で過ごし、春先まではそれでちょうどよかったが、さすがに暑くなってくるとつらい。
「こっちはお前のだ。去年みたいに汚れることは無いだろうが、引っ掛けて破いたりするなよ」
「ありがと!大事に着る」
「あとこれは新しい下帯だ。さすがにそのナリだと下帯くらい締めたほうがいい」
「え」
「何?お前ふんどしも締めてないガキだったのか?」
白カラスにバカにされたように言われて、ザックスはムッとする。
「前は締めてたよ!……たぶん」
「たぶんって何だよそれ」
「俺にもわかんないの!」
「お前らケンカするな」
ぷいっ、とザックスと白カラスは同時にそっぽを向いた。アンジールは苦笑した。
おそらく両者は似ているのだろうが、顔を合わせるとほぼ間違いなく、売り言葉に買い言葉でケンカになる。
高くなった陽射しが隙間の多い葉の間からもれてきて、じりじりとザックスの目や肌を射る。
「あっちー……俺海入ってくる!」
そう言い放って踵を返したザックスを、アンジールは間髪入れずに捕まえた。
「海に入るならなおさら下帯を締めろ!海の女神に失礼だろうが!」

アンジールに下帯を巻かれたザックスは冷たい海水を楽しんでいた。
海の中の様子も確認してこいとアンジールに言われたので、潜ったり泳いだり浮いて休んだりしながら島の周りを周る。
山の中ではきつい陽射しも、海の中にいると心地よく感じられた。
砂と砂利の多い遠浅の海岸沿いは大きな魚の影は少ない。
ところどころ生えた海藻の周りに小魚やカニ、小エビなどが見える。群れて泳いでいるのは何かの稚魚だろうか。ザックスが側を泳ぐと、鮮やかに身を翻してひとかたまりで逃げて行く。
ゴツゴツした岩場のほうには貝類が張り付いていたり、ウニが転がっていたりした。
山の様子と比べると、海の方が少しマシなように思える。ガイの直撃を受けなかったぶん、回復が速いのかもしれなかった。
岸壁の穴から滝のように水が落ち込んでいる場所があることにザックスは気づいた。小川とは反対側だが、湧き水が土の中を通ってきたのだろう。
泳いだりのんびり浮かんだりしながら2回ほど島の周りを回って、ザックスは砂浜に上がった。午後の日はまだ高く、暑い。濡れた体を乾かしながら山を登っていくと、岩屋の近くまで来たところでアンジールの声がした。

「上と話はつけてきている。今更お前が首を突っ込むところじゃない」
聞いたザックスが思わず首をすくめてしまうような、アンジールの硬い声。白カラスにはこんなふうに話さない。誰か居るんだろうか、とザックスはそっと岩の陰から覗いてみる。
そして確かにそこには誰か居た。
ザックスの目に一番最初に飛び込んで来たのは、真っ赤な衣だった。
土の茶色や木々の緑の間にある鮮やかな赤は、それだけでも大輪の花のように目を引くのに、更に金色の刺繍が入ってキラキラと陽の光を映している。腰に巻いている帯も金色や銀色できらきらしい。足元も草履とは違って、何か光沢のある動物の革で包まれている。
昔じいちゃんに聞いた「なんばんじん」というのはこんな感じなのかなと頭をよぎったが、鮮やかな赤色の衣の背にある黒い翼は色こそ違うがアンジールと同じもので、ザックスはアンジールの知り合いなのだと理解した。背丈はアンジールと同じくらいあるが、体は細身で華奢だ。
「上の話はしてない。俺が戻って来たらお前が山に居なかったから、戻れと言いに来ただけだ」
細いがはっきりした声で来訪者はアンジールに言う。ザックスの場所から見えるのは横顔から背中だけだ。表情は窺えない。だが傲慢な印象を受ける物言いだ。
「だから俺は今ここの山の護りをしている。戻るつもりはない」
「こんなちっぽけな山にお前ほどの烏天狗が居座る必要があるのか?」
理解できない、という口調と大袈裟に肩を落とす仕草。その胸元で何かが揺れて、陽光を反射してキラリと光る。
なんだかあちこち光ってる、とザックスはぼんやりと思った。アンジールの知り合いは初めて見るが、みんなああなのだろうか。
「必要があるから居るんだ。いくら言い合いしても無駄だ、帰れ」
アンジールは話を切り上げるように首を振り、背を向ける。
ザックスはまたそっと隠れた。
言い合いをしているアンジールは初めて見た。
ザックスと白カラスが言い合いをすると止めに入るのはアンジールで、アンジールとザックスは言い合いにならないし、白カラスとアンジールも言い合いにならない。
それはおそらく、対等ではないからだ。
ザックスにとってアンジールは恩人で、白カラスにとってアンジールは主人だ。
だがあの赤色の異人とアンジールは対等なのだろう。だからああして言い合いをするのだ。
それが、ザックスには少し悔しかった。
冷えてきた体に、もらったばかりの薄衣を着る。少し風向きが変わったのか、ザックスはぶるっと体を震わせた。

夕焼けが夜の色に染まり始める頃、湧き水を水源とした小川の周りをちらほらとホタルが飛び始めていた。
秋に埋めた落ち葉に卵が混じっていたのか、もともと山に居たものかはわからない。
淡い緑の光を明滅させながら薄暮の空中を行き交う様子は幻想的で、見るともなくザックスはその光景を見ていた。
どうにもモヤモヤしていた。
アンジールはいつか帰ってしまう。たまたま今は一緒にいるだけなのだ。
そんなことは前からわかっている。
なのに、アンジールが御山へ戻り、白カラスだけがこの山に残った時にも寂しく思ったし、アンジールが戻って来た時には飛び上がるほど嬉しかった。
あの時と同じような寂しさが、またザックスの胸にある。
先代の形見だけが残った時もこんなふうになることはなかったのに。
生まれ育ち、そして次の世代へ命を繋いだ後に朽ちていくのは自然の摂理だ。
アンジールが役目を終えれば戻っていくこともなんの不思議もないことのに、どうしてこんなにモヤモヤと心が痛むのか、ザックスには分からなかった。
顎を埋めた膝を抱え、飛び交う光点を目に映す。

草を踏む音がして、はっとザックスは顔を上げる。
「こんなとこにいたのか」
「……アンジール」
「ホタル、見てたのか」
「あー……うん」
アンジールはザックスの隣に座って顔を覗き込む。
「元気がない」
「……知り合い、来てたんじゃないの」
「知ってたのか」
驚いた様子のアンジールから、ザックスは目をそらす。
「なんか言い合いしてたから、ちょっと声かけらんなくて」
「ああ……なんだ、みっともないとこ見られたな」
「つーか……やっぱ、その」
ザックスはちらりとアンジールを見た。アンジールの視線は空を舞うホタルに注がれている。
「その件は話がついてるんだ。お前は回復することに集中してればいい」
「うん……」
「何か気がかりがあるのか?」
アンジールと目が合いかけて、ザックスはまた膝に顔を埋めた。
「ん……俺さ、アンジールが帰るって思うとすっげ寂しくなっちゃってさ。変だよな……役目が終われば元の場所に戻るのは当たり前なのに」
目を伏せる。弱い自分など見せたくないのに、弱音ばかりが口からこぼれる。
「そうだな。だが別れを寂しく思うのは当然のことだ。どんな形にせよ誰かと関われば情が移るものだからな」
「でもじいちゃんが消えた時はこんなふうにならなかった」
「それはお前が先代を誇りに思っているからだろう。お前の気持ちの中で、先代はまだ生きているんだ。姿は消えても、お前が共に在ると感じているから、寂しく思わなかったんじゃないか」
ザックスは顔を上げた。アンジールと目が合う。
静かに紺色の夜が降りてくる。
淡い光が残像を残しながら不規則に舞い踊る。
ザックスは形見の牙を握りしめた。
「……そっか、ずっとそばに居たんだ、じいちゃん。この山だって、じいちゃんから貰ったものだもんな」
自分が一人ではなかったことに、ザックスは気づく。それでも残るかすかな胸の痛み。
「だけどやっぱり俺は喋れる相手がいた方がいいな。アンジールが帰る前に俺の跡継ぎが出来ればいいけど」
「跡継ぎが現れるまで居ても良いが」
「ホント?……ありがと。きっとその頃には俺も大丈夫になってると思うけど……嬉しい」
ようやくザックスの顔に笑みが浮かんだのを見て、アンジールは安堵する。
山の回復とともにめまぐるしく変化していく環境、それはザックスの心身にも影響を与えているのだろう。ただ子どものように無邪気に回復を願い、懸命に努力していた時期が終わり、少しだけ先を見ては見えない不安や憂いを感じる時期になったように見える。
「元はと言えば、御山からガイを逃した俺たちのせいでこの山が枯れて、お前が育ち直しする羽目になったんだ。もう一度お前が一人前の狗賓になるまで責任は取る。それが俺に出来る唯一の償いだ」
「アンジール」
「だから俺が帰るまでは、お前は俺を頼っていい。放って帰ったりなどしないから、お前は安心して回復につとめて、困ったことがあれば俺を頼れ。そうして解決方法を覚えて、お前自身の糧にすればいい」
「うん……うん!」
泣き笑いのような顔でザックスが笑う。ひと山越えたようだ。
微かに羽音が聞こえた。
大きな翼が空を切る音。
やっと帰ったかとアンジールが息をつく。
姿を隠して話を聞いていることには気づいていた。いつ乱入してくるかとヒヤヒヤしていたが、強引で傲慢な幼馴染も諦めて帰ったようだ。
「……アンジール?」
「うん?」
「そういえばさっきの知り合い、ほっといていいの?」
「もう帰ったから気にするな。また来るかもしれないが、来たら追い返すから俺を呼べよ」
「……仲わるいの?」
「そういうわけじゃない。ただ俺を所有物だと思っているきらいがあるから厄介なだけだ」
「ふうん?でもアンジールを独り占めしたい気持ちはちょっとわかるかも。わかるけど、今はもうちょっと俺にアンジール貸しといて欲しいな」
「……お前まで変なことを言うな」
アンジールは天を仰ぐ。
空はもうすっかり夜になっている。頭上をふわりとホタルが飛んだ。
「別に変じゃないよ。アンジールが優しいし頼りになるから、独り占めしたがるんだと思うよ?」
ザックスの言葉に他意や嘘が無いのはアンジールにもわかる。それだけにくすぐったく聞こえる。
「……そろそろ戻るぞ」
アンジールが立ち上がると、草に留まっていたホタルがいちどきに飛び立った。
炎とは違う光は夜を明るく照らすことはないが、アンジールがザックスに差し出した手を浮かび上がらせるには十分な光量があった。
ザックスがその手を取って立ち上がるとまたホタルが飛び、一瞬だけ二人の姿を夜に映し出した。



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