せめて家に帰ろう | ナノ



音楽の女教師が歌っている。本人は美しいソプラノのつもりだろうが、甲高いその声は俺のイライラを掻き立てた。

「……土方さん土方さん、」

隣でぼーっと立つ同級生を小突くと、うるせぇなという目で見られた。

「なんだ。」

「あれを、俺らが歌うんですよね。」

「そうだな。」

そう、この甲高いソプラノが追う旋律を、あと数十分で俺は歌うことになる。
歌のテストだ。どうやら今までにもこの歌を練習していたらしいが、俺にはその記憶がない。やべぇ、どうしよう、歌えるわけねぇじゃん。

「適当に歌ったら点数つきますかねィ。」

「0点ではないかもな……つーか今更焦ってもしょうがねぇよ、大人しく欠点とれ。」

「えー、じゃあ、土方さんが分かりやすく歌って、見本見せてくだせェよ。並び方的にあんたが先でしょう。」

「なんでだ、あの女の聞いとけばいいだろ。」

「高すぎて音程分かんねぇ。」

「……一応分かりやすくしてやるよ。」

とりあえず雰囲気だけ掴もう。俺が決心してすぐに、テストが始まった。



先着に並んだその列の先頭はチャイナ。案外音痴ではなかった。でもやっぱり声が高いから見本にはならない。これは志村姉らもそうだった。
そして男陣の一番目は志村弟。まぁ音痴だった。途中で止められていた。桂は……何故かラップだった。オリジナリティがなんだと叫んでいた。
桂の次は、土方さん。次は俺。

「はーい、土方くん、前に出てね。」

女教師は、やっとまともそうな生徒が回ってきて安心している。
ピアノが始まって、俺は耳を澄ませる。補習だけは避けたい。

「……うま、」

どこからか声が聞こえてくる。
土方さんが歌いはじめてすぐだ。まじで、上手い。なんだこいつ、なんでこんな上手いんだ。
俺は、雰囲気を掴むことを忘れ、それでもじっと聞いていた。
歴史ある賛美歌だというその曲は、英語なのかフランス語なのかはたまたもっと別な言葉なのか分からないが、外国語であることは確かだ。
それを土方さんは、下手な発音でもなく、わざとらしい発音でもなく、さりげなく滑らかに歌っていく。
軽やかなピアノに乗せて(カセットテープだけど)、土方さんの深い声は流れる。しかも深いだけじゃなくて、なんか甘い。甘いというか…エロい。
ピアノが最後の音を鳴らし、カセットがガチャッと終わりを告げる。教室がシーンとしているのに、やっと気付いた土方さんは冷や汗を流している。

(おい総悟、なんだこの感じ)

目で伝えられてくるのが分かった。どうやら自覚はないらしい。

「せんせーい、お腹が痛いので保健室行ってきやーす。」

急に大声をあげた俺に視線が集まった。土方さんも不思議そうに俺を見る。

「そう…?それならいってらっしゃい。」

「土方くんも昨夜の暴飲暴食で下痢が酷いそうでーす。なので一緒に連れていきやーす。」

「は?総悟てめー、なに言って、」

無理矢理巻き込んだ土方さんの腕をつかんで、教室を飛び出す。あまりの話の速さに、誰も追いかけようとは思わないようだ。
少しひんやりした廊下を、土方さんの腕をつかんだまま歩く。

「総悟! なんのつもりだ、多分とんずらしても欠点は免れないぞ。」

「んなこたァどうでもいいんでィ。どう思います?保険医が出張とかありますかね?」

「……知らねーよ。」

「まぁ出張じゃなかったら多目的室でもいいか。あそこあんま人来ないし…」

「そ、総悟?」

「あ、屋上にします?トイレでもいいですよ。個室での密着感がなかなか…」

「おおおお俺の勘違いだよな。うんそうだよな。まさかまさかまさか学校でそんな…!」

勘づきはじめた土方さんを横目に、俺はふっと笑った。



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