時間は平和に過ぎていた。 涙を流したことは既に思い出であり、そういえば高校の卒業式では大して思い入れもなかったのに泣けたなあ…くらいに感情は冷めていた。 『でもこれ、まだ未完成なんで。俺の本気を安く見ちゃ駄目ですよ。』安く見たことなどなかった。おまえはどう考えても普通とは違った。 確かに俺は、沖田総悟という名前しか知らなかったのだ。例えば沖田に似合いそうな服を見付けたとしても、絵の具で汚れたパーカーとジーンズ姿しか見たことがなかったし、それを沖田自身が気に入るのかどうかなんて皆目見当がつかない。目玉焼きには何の調味料を使うのかも冬に厚着をすることを嫌う性質なのかも、つまりは何も知らなかったのだ。 ただ、彼の作る青色がやけに鮮やかなのは知っていた。 キャンバスだらけの部屋を片付けることもできず、かといって忘れることもできなかった。約1年間通っていたようなものだから、落ち着く場所になってしまっていたのだ。感情が冷めていても、習慣は体に染み付いている。 沖田のように埃だらけの床に転がるのは気が引けるので、少し(本当に、少し)だけ空いた机のスペースに仰向けで寝そべり、持ってきた文庫本を広げる。 『おれ、あんたの名前も知らないや。』俺はおまえのフルネームを言えるのに、おまえは俺の苗字すら言えない。 そもそも俺は、本を読むことが好きではない。映画はかなり観るし、特に洋画は詳しい方だと思う。しかし活字になってしまえば、途端に眠くなってしまうのだ(そのせいか、字幕の映画は苦手だ)。眠気だけはどうしようもない。 案の定、瞼が徐々に閉じ始めた。話の筋書きが頭に入ってこないので、同じ文章を繰返し読む。特に心が踊らない、なんだか地味なサスペンスだ。 突如、バァンと音がした。 「……は?」 本の中のいきなりの発砲に驚く。なんだよ、地味サスペンスのくせに。 …それよりも、だ。本とまったく同じタイミングで、実際に音が鳴った。もちろん銃声ではない。俺の生きる世界は、きちんと地味な日常を保っているところだ。 体を起こす。ドアの方を振り返った。 「あ。」 「沖田、」 沖田総悟は、そこにいた。大きな目を更に大きく丸めている。 「あんた、まだこんなとこ来てたんですかィ。」 「おまえも、またこんなとこ来たのかよ。」 そう言ってやれば、いつもの、そう、いつものさぞかし面白いといったような声をたてて沖田は笑った。 「ここ以外じゃ、どうにも絵が完成しなくて。」 ここで完成した絵も、ひとつしかないくせに。……そんな言葉は飲み込んでおく。 「土方十四郎。」 「え、なにがですかィ?」 「俺が。」 「……ひじかた、とーしろー。」 確かめるように口にした沖田の両方の瞳から、ぽろりと水滴が落ちたのは、どうでもよかった。 彼はいつものパーカーの下に、目が醒めるような青のTシャツを着ていた。 君の作る青が好きだ
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