柔らかな口実




面積のある校庭に広がる景色は静雄君の目にどう映っているのだろう。折原君に巻き込まれたどこかのクラスメイトが破滅へと転がされていくのを看取っているのか、それともフェンスのそばで携帯を眺めながら怪しげな笑みを浮かべている新羅君を見ているのか。あと少しで始まる文化祭への浮遊感が私たちの足並みを不安定にさせていく。

「大丈夫か?」

よそ見をしながら歩くのはよくないことだ。障害物に衝突することもあれば、こうやって門田君にぶつかってしまうこともある。昔から気をつけるよう言われてきたのに守れないのは何かと集中力が回らない私の性格が原因だろう。持っていた教室の装飾に使う道具一式が詰まったダンボールが思い切り門田君にぶつかってしまった。

「ごめんなさい、平気?」

「俺は平気だけどよ、お前…」

正面からぶつかってしまった門田君に怪我がないか確かめたが、少し青ざめた門田君の表情と私を指す手が震えているのに気付いて自分の体を見る。飾り付けとして教室に運ぶはずだった針金の束がほつれ、剥き出しの先端が私の腕に刺さっていた。あからさまな血が滲んでいる。

「あ、えっと、い、痛!めっちゃくちゃ痛い!」

「おい…」

「保健室行かないとやばいよねこれは。門田君、悪いんだけどこの道具たち教室に持ってっといてくれるかな!」

「わ、分かった」

刺さった針金もそのままに私は逃げるように、この場を走り去っていった。門田君の呆然とした顔が忘れらず、自分の配慮の足らなさに呆れて物も言えない。隅で談笑したり、壁に出し物の飾りを貼り付けていたり、廊下はいつもじゃ考えられないくらいに賑やかだ。そんな賑やかな道を、血が流れ出ないよう腕を必死に押さえて懸命に走る私は季節に置いてけぼりにされている。

保健室は生徒が二、三人たむろしているだけで先生はいなかった。腕に注目されないように保健室へ入り、絆創膏とガーゼを取ってカーテンで仕切られた一番奥のベッドへ座るとため息を吐いて天井を仰ぎ見る。

「ついてないなあ」

ちょっとした不注意がアクシデントを呼び寄せる。きっと教室のみんなには準備をサボってると噂されているんだと思うと、だんだん気が重くなってきた。どうせなら本当にサボって帰ってやりたいと思ったが、鞄は教室にあるし必要なものは全て置きっ放しだ。物事はうまくいかない。

「のだめ、いるか」

カーテンの向こうから声がして、背の高い金髪が姿を現せばすぐに静雄君だと分かった。適当に手を振ると、すぐに静雄君は針金の刺さった私の腕を掴んで体を起こさせた。

「いくら痛み感じねえからって放っとくなよ。さっさと治療とかしろ」

「もうめんどくさかったんだもん」

嫌な顔をしながら深々と刺さった針金を抜くと傷口に赤チンをかけて腕を盛大に汚した。その治療法があってるのか私には分からないけれど静雄君が手当をしてくれているのに横槍はいれられない。ガーゼで強く拭いた後、最後に絆創膏を貼ったが場所が悪かったのか血は思った以上出てきて絆創膏の役目をなさなかった。静雄君はますます嫌な顔になった。

「怒ってるの?」

「イライラしてんだよ」

「でも、これで十分だよ」

「十分じゃねえだろうが」

静雄君は何にも悪くないし、言ってしまえば関係もないのに。血の量に負けて剥がれてしまった絆創膏を捨てて、傷口を自分の口で押さえることにした。皮膚のしょっぱさと、どくどくと流れる鉄の味とで口の中が大変なことになってしまうことに、私はもう少し早く気が付けば良かった。

「やめろよ。病気になるぞ」

目だけを静雄君に持って行き視界に捉えた情けない表情は私の胸の中を疼かせた。私の体は痛みを感じることは出来ないけど、感情からくる痛みだけは敏感に感じるのだ。

「おい…!」

無理やりに腕を引き剥がすもんだから私は意地悪な気持ちになって、さっきまで自分が口をつけていた傷口を静雄君に差し出して同じことをするように強要した。私の涎とか血が混じった汚い傷口。最初はギョッとした顔を見せたが数秒もすれば静雄君は私の腕を掴み、ゆっくりと口に含んだ。それは何かを食べるように、パンにでも齧り付くように。赤い色と青い色を交互に浮かべながら目だけで私に訴えてくる。

「歯立てたって、私分かんないからね」

こんなこと滅多にないだろうな。いつも怒ってばかりの静雄君がこんな風にして大人しくしている。これも文化祭の魔法が届けてくれたなけなしの夢だろうか。鼻で笑っていると、耳元に感触がやってきた。伸ばされた静雄君の手が耳たぶを一周して、頬をなぞった後、胸をまさぐりだした。驚いて私はカーテンの向こうを見たが生徒は相変わらずたむろしている。出来るだけの小さな声で今度は私が静雄君に訴えかけた。

「人がいるんだよ」

首だけを横に振りながら静雄君の手は制服の上から胸の膨らみを楽しんでるようだった。こんなこと、身も蓋もないし私の顔が無駄に熱くなるばかりだ。空いてる方の手で静雄君を止めようとしても当然ダメで、もっともっと小さな声をしぼり出して私は浮かれた言葉を放り出す。

「…触るだけならいいよ」

そう言うと、真っ先にブラウスの中に手を突っ込んできた静雄君はこんな時ばかり正直者だ。全てが終わった夕方のあと、私の腕にはくっきりと歯形の傷が残っていた。