とても最悪な気分だ。
ベクターは靴を乱暴に脱ぎ捨てるとリビングのソファーに身を投げる。遊馬の馬鹿っぷりは今に始まった事ではないし、真月零に執着するよう仕組んだのはベクター自身だったのにあれでは構って欲しいだけの子供ではないか。だけど、と横を向いて頭に腕を敷く。あれは本心だった。少なからずベクターだけじゃない、彼の周りに居る者の殆どがああ思っている筈だ。きっと遊馬が傷つくからと口にはしないだけで、特にナッシュは同じ事を考えてる。
「真月ねぇ…」
架空の人物の名前を呟いて自嘲する。やり直そうと言ったのも、俺がお前を守ってやると言ったのもベクターにでなく、親友の真月零に向けていたのだ。今の遊馬を見ているとそうとしか思えない。もしかしたらこれは何でも持っている彼に対しての嫉妬から、歪んで捉えてしまってるせいだという考えも出来たが、阿呆らしくなった。あんな奴に嫉妬だなんて認めたくもない。握った左手は生きてるかさえあやふやになるぐらい、自分では冷たく感じた。
「……い、…零」
遠くからにも聞こえる呼び声。真っ暗な視界から徐々に映り出したカラフルな世界の中心はベクターのよく知る人間の姿をしていた。
「…なんでいんの」
「君の方こそ何時だと思って…。そんな所で寝てると風邪引くよ」
寝ぼけ目を擦って時計を見ればとっくに深夜を回っている。制服もくしゃくしゃで、いつの間に寝てしまったのか。呆れている片桐に「ごめん」と謝れば鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をされて、すぐに眉間に皺を寄せられた。
「まさか本当に風邪?」
なんて失礼な奴。化けの皮を剥がしてからは確かに謝罪なんて滅多にしなくなったし、しても余程の事でないと反省の色など見せはしなかったがこんな反応はあんまりだ。けれどこれがベクターに然るべき態度で、遊馬の事でむしゃくしゃしていた心が少しだけましになる。額に触れてくる手に己の手を重ねながら再び目を閉じた。片桐の指がぴく、と微かに動く。
「どうしたの。今日の零、おかしいよ。何かあった?」
心配の色を滲ませた声に頷く代わりに怠かった身体を支え片桐の首に腕を回す。突拍子もない行動には戸惑いよりも驚きの方が大きかったのだろう、わりとすぐに抱きかかえられた。ベクターを脚に跨らせる状態で片桐がソファーに座ると首筋に顔を埋める。
「大介」
「ん?」
「お前は俺の事、零って呼ぶけどやっぱりさ、猫被ってたままの真月零の方が良かったか? 良かれと思って、って素直ないい子で天真爛漫って感じのやつ」
「んー」
ベクターの頭を猫の耳を擦るように撫でながら片桐は頬を緩ませた。その焦らす態度に生意気とじと目で睨んでも効果は勿論なかったのだが。
「逆に聞くけど、零は優しいだけの俺で満足出来るかい? 僕とエンジョイデュエルしようってやつ」
「…無理…」
「うん、つまりそういう事。前の零は礼儀正しくて健気で守ってあげたくなる子だったけど、本当の零を知ってからだとちょっとだけ物足りなく感じちゃうんだ。人というのはね、子供は手のかかる方が可愛く感じてしまうんだよ」
不思議だよねえ、と呑気に話す片桐の目は慈愛に満ちていて、ぐっと息を呑んだ。餓鬼扱いするなと怒りたかったのにそんな顔をされたら言うにも言えないじゃないか。ベクターが俯いている隙に片桐はぐずる子をあやすように頬や鼻筋に唇を落としてくる。気づけば右手も結ばれていて思わず強く握り返した。
本当の姿を受け入れてくれる人が居るだけでこんなにも嬉しい。今の自分が独りではなくなって、それに気づいてから初めて呪いが解けたような、軽くなった心にベクターは口元が勝手ににやけるのを抑えきれずにいた。そんな自分を我ながら気色悪りぃと罵りながら。
あれだけ寝ていたというのに零はまた眠りに落ちてしまった。それも気絶するように。薄いトレーナーと長ズボンのジャージに着替えさせてから小さな体をベッドまで運んで、その寝顔を暫しの間観察する。寝相が良いのは猫被っていた時と変わらず、なんだか微笑ましい。ベッドの淵に座り半開きになった唇をなぞっても起きないのを良い事に続けざまに額へと口付けた。
朝はいつも通りだった彼が夜になったらやけに大人しくて思い詰めていた様子だったから、片桐だって内心は焦っていたのだ。普段通りの零ならきっとその事を嘲笑うだろうに、そうするどころか片桐の言葉で安心していた。彼の身に何が起きたかなんて側に居る時間も少ない上に自分の事は中々話そうとしない子だから、知ることは難しいだろう。分かった事と言えば零が真月零という存在に固執している事のみである。何が彼をあそこまで縛り付けているのか検討もつかない。
嘘だ。薄っすらとならついている。零は決まって左手に触れると僅かに動揺を見せた。持ち前の演技力でカバーしているつもりだろうがプロデュエリストとして様々な業界を行き来している片桐ならば特にそれが大切な人であるならば、敏感にとはいかなくとも多少は分かる。それから本人は無意識だろうが左手を見つめる零は柔らかい表情を浮かべて時折「馬鹿だな」と呟くこともあった。何に対してかは一度尋ねてみた事もあったけれど零は頑なに答えようとはしてくれない。
「妬いてくれたんですか?」
逆にそう尋ねられてすぐさま否定出来なかった片桐に嬉しいと頬染されて抱きついてきたまま話を逸らされた記憶がまだ新しい。あれも結局は演技だったのだろうか。
そして数ヶ月経ってやっと帰って来た時には話題に上がる事を避けるようにしていた九十九遊馬という少年。数ヶ月出て行ったきりになる以前の彼が口癖のように遊馬君が遊馬君と遊馬君にと話してくれていたのに戻ってきた途端零はぴたりと止めた。あんなに楽しげに語っていた親友の話を何故だろうと疑問に思っていたのだ。零が言うには片桐には記憶がないがこの世界は滅びそうになった、らしい時に喧嘩でもしたのかと頭を捻るもじゃあ何故彼は左手をあんなにも優しく見つめていたのかという問題になる。
とにかく、真月零への執着はその二つがキーワードになるだろう。落ち込んでいた理由は零自身が話そうと思うその時まで待ってやるのが大人としての対応だ。
「君はこれからも沢山傷つくだろうけど、人は傷ついてこそ強くなれるんだ。だから今が零にとっての正念場なんだな。もし自分を見失う事があったなら、ここにおいで」
前髪を梳くように撫でながら片桐は微笑む。聞いていなくても良いから、せめて彼の小さな味方でいれるように。鬱陶しげに寝返りを打って背を向けられると撫でる行為を止め、代わりに右手を取ってその甲におまじないをかけるように何度もさする。
「大丈夫、神様はその人が乗り越えられる試練しか出さないんだよ。零なら絶対できる」
じんわりと温かさを持ちだした右手に額を当てた。その手の主が神妙な面持ちで起きていた事にも気づかずに、片桐は闇夜に祈る。