!「
世界は理不尽でできている」の続きもの
!ほんのりゆまこと
教室の窓から外を眺めながら大きな欠伸を溢した。朝から数分置きに走り去るモノレール、授業が始まる度に騒がしくなる校庭。何度も同じ光景を見るのも飽き飽きしてくる。この世界に侵入した際にバリアンの力で快く頂いたDパッドを指先で突きながらベクターはつまらなそうに足を揺らした。昼も終えたし後は二時間で帰れるとは謂えど、午後の授業が一番厄介だ。優等生を演じるのは止めてはいるが眠るのは遊馬の二の舞になってしまうという事で、あんなのと同じになるのはベクターにとっては真っ平御免なわけである。
暇潰しにメールを確認してみたけれど新着は無し。つっまんねー、とぼやいてはみたものの大体このDゲイザーに登録してあるのは片桐大介と九十九遊馬、それから裏の保護者にもあたるドルべぐらいなのだからそれも仕方がないだろう。
「…サボるか」
これなら同じにはならない筈だとチャイムが鳴る五分前で席を立つ。予鈴の後ではあるがこれならトイレとでも言えば誤魔化せた。
出て行く前に遊馬達を盗み見みたがベクターに気づく事なく談笑をしていて、その中に混じる小鳥にふと口元を緩めてから扉を閉めた。
「あら」
「げっ」
サボるのならやはり屋上に限る。登り階段に足をかけたところで嫌な奴に見つかった。左手の勲章は生徒会の印。笛を片手に擦れ違う形で下の階段から顔を覗かせたメラグが目敏くベクターに声をかける。
「何をしてたのかしら? …なんて、貴方の考えてる事はすぐにわかるから答えなくていいわ。さしずめ授業をサボろうとしていたのね。駄目よ、今すぐ教室へ戻りなさい」
一年フロアを指差しながら仁王立ちする彼女にたまらず顰めっ面をしてしまう。ちょっとトイレになんて言い訳をしてもどうせすぐに見破られて首根っこを掴まれながら戻されるのだ。この世界を破滅に導いてしまった事に対しての今できる罪滅ぼしかは知らないが、元より厳格であったメラグが生徒会に入ってからそれに拍車をかけたものだから煩わしい。こんな場所に人事を尽くしてもどうせあと二年もしない内に卒業してしまうのに。
「お前の方こそ、俺なんかに油売ってないで早く行かないと授業間に合わねえぞ」
「私だって行きたいのは山々だけれど、サボろうとしている人を放っておく方が問題だわ。さあ、行くわよ」
「なっ、おい! メラグ!」
無理やり腕を引かれよろけてしまいながら先程通ったばかりの廊下を足早に歩く。女のわりには力が強いので運動神経はあってもその差によって、結局は教室の前に戻されてしまった。ゴリラ女、と本当に小さな声で言ったつもりが世にも恐ろしい形相で睨まれたので思わず身が縮こまる。よくぞこんな女を三度も死に追い詰めたものだと自画自賛した。
「…ねえ」
開始のチャイムに紛れてメラグは話しかけた。それを聞き取ってはいたが、怠かったので返事はしない。そんな態度のベクターにまあいいとばかりに腕を放される。
「学校以外で貴方が何をしていようがそれが悪事でなければ私は良いと思うわ。誰かに操られた人生やバリアン世界の為じゃなく、自分の為に自由に生きなさい」
メラグは後ろを振り向かなかった。だけどいつもと変わらない淡々とした話し方で怒ってはいないと思ったので「ああ…」と今度は短くも言葉を返した。本題に入る前に長い前振りを入れるのは女の癖なのか。先日の小鳥とのやり取りを思い出しつつ、逃げ道を確保して片足を後退させる。
「逃がしはしないわよ」
しかしベクターの考える事などお見通しらしく見てもいないのにそんな事を言ってのけた。ついでに肩を鷲掴みにしてギリギリと骨を軋ませてくるのだから、体中から汗が噴き出し青ざめる。
ここで初めてメラグは振り返った。そして悟る。浮かべられたその綺麗な笑顔は見る者によっては骨抜きにされるだろう。だが彼女の本性を知る者は違う。
「話の続きをさせて頂くけど、もし人様に迷惑を掛けて凌牙やドルべの心配の種をこれ以上増やしたりしたら……凍らすよ」
「す、すみませんでした…」
力無くしてカオスの神よりも逆らってはいけない存在、それがメラグだ。彼女と付き合えば尻に敷かれる事はまず間違いなし。静まった廊下が余計にこの空気を冷たく感じさせていた。
漸くして解放されたベクターに逃げる気は遠に消え失せ、メラグはそんな様子のベクターを冷酷に見下ろす。ただその目もすぐにふっと和らぎ、赤が細まった。
「今度私達の家に来なさい。ああは言ったけど、これでも私だって心配しているのよ」
それと、と付け足し。
「せめて学校でぐらい神代璃緒として意識してくれないかしら。ね、零」
ちょっと、反則じゃないか。優しくされる事になれていないベクターにとって、その不意打ちは心に突き刺さった。むず痒い気持ちを押し込めてメラグを抜かす。生温い視線を受けながらベクターは扉を押し開いた。その耳が後ろからでも分かるぐらい朱に染まっていた事を知るのはメラグ、否、璃緒のみであった。
放課後になれば今日もまた遊馬が誘いにやって来る。前と違うのはそう、小鳥も居る事だった。他のメンバーは相変わらず自分は関わりたくないとばかりにそそくさ居なくなってしまうが、あの一件から小鳥も遊馬と共にお節介をかけてくるようになったのだ。けして嫌というわけではない。ただ、お尻の辺りがむずむずする。ベクターは小鳥が傍にいるから誘いを受けるのだが、遊馬はついにベクターが心を開いたと勘違いしてははしゃぎ出す。阿呆丸出しだ。だけどベクターも他人の事はとやかく言えなかった。たった一度のやり取りでやっと本当の自分を見てくれる人が出来たからと言って、懐いてしまったのは不覚だ。本人には絶対に口が裂けても言ってはやらないがかつての母と重ね合わせたのが間違いだったのか。募る反省に目頭を押さえる。あれを無かった事にしたいという訳ではないが、二人の人間に無様な姿を晒してしまったのは一生の恥。すぐ隣で聞こえる明るい声の主に一発顔面にお見舞いしてやりたいと拳を握るだけにして、止めた。そういえばメラグに釘を刺されたばかりだったのだ。
「女ってのはおっかねえよなぁ…」
「え、妹シャークに何かしたのかよ?」
「ばぁーか、俺がされたんだよ。あとそこのちんちくりんにも」
「ち…っ! こ、これから成長するのよ!」
「あっれー? 胸なんて押さえて小鳥さんってば、どこの事だと思ったんでしょうねぇ。安心して下さい! きっと遊馬くぅんが大事に育ててくれるからよぉ! ひゃはははは!!」
「いやー! 真月君のセクハラー!」
「あ、おい! 小鳥!?」
渾身の力を鞄に込めて殴られる。なあ、これは良いんですか璃緒センパイ、と前のめりになったままたんこぶになりそうな箇所を一撫でした。妹が出来たみたいで嬉しいとか言って、なんやかんやで小鳥には少し甘い彼女の事だ。必ずベクターが悪いと言って終わるのだろう。ベクターも否定はしない。
隣には拗ねる小鳥とどうしたんだよと宥める遊馬が居て、それだけなのに面白くなって噴き出した。
「てめえらってホント、くひひっ…! 呆れるぐれえ成長しねーな!」
天真爛漫で一途な転校生の真月零を演じてた頃も二人は毎日飽きもせず漫才紛いを披露してくれた。内容も薄いし代わり映えのないものばかりだというのに、今回ばかりはひぃひぃ腹を抱えて笑ってしまうのは何故なのか。遊馬と小鳥はお互いに顔を見合わせ恥ずかしさからか頬を染める。それを鏡みたいに同じタイミングでしたものだから目尻に涙が浮かんだ。本当、これのどこが面白いんだか自分のセンスを疑う。だけど釣られて笑った二人を見たら悪い気はしなかった。
一頻り笑い終え、呼吸が整うのを三人で待つ。ベクターの中で後に残ったのは激しい疲労感と羞恥心だった。人通りが少ない道とは謂えど、ど真ん中に揃って爆笑とは周りの目にはどう映ったろう。仲の良い同級生とかなら全力で首を横に振ってやりたい。ベクターはげんなりと顔を覆い、項垂れた。そんな様子のベクターを他所に二人は今一度笑う。
「あー、楽しかったな」
「そうね。こんなに笑ったのは久しぶりかも」
言葉通り楽しげに肩を並べ歩く姿はやはりお似合いだと思った。そうやって複雑な心境を何処か遠くへ投げやりたい一心で別の事を考えながら数歩後ろで眺めていれば、くるりと遊馬は此方に体を向ける。え、とベクターの脚は思わず立ち止まってしまった。
「やっぱ真月のお陰だな」
「…え、ああ……おう」
お前の言うその真月って、誰の事だ。一拍遅れて返事をしたベクターに小鳥の不安げな視線が突き刺さる。その純粋な瞳の奥で遊馬が誰を見ているのか、恐ろしくなってひゅっと息を呑んだ。
「真月?」
居もしない人物の名を呼んで不思議そうに首を傾げる仕草が思い出と重なる。ベクターを通して虚像を追っているなんて、多分彼自身も分かっていないのだろう。ベクターだってあの出来事から幾分か冷静になって遊馬の気持ちを考えた事はあった。一番大切だと言うアストラルを失って胸に大きな穴が空いてしまったまま、それが埋まる事なく日々を過ごしているのだろうと。彼の父母が亡くなったと言い聞かされた時はまだとても幼く、上手く理解出来ないままそれは年数と共にゆっくりと受け入れられた。だが齢十三の子供は自分で物事を判断できれば、色々な葛藤も生まれてくる。それも消失してからの期間があまり経っていない事から、心に根強く残った傷は癒えてなどなかった。
冗談じゃない、このベクター様を誰かの代わりに使おうだなんて。確かにその傷には、アストラル以外にサルガッソでの事件が含まれているのかもしれない。けれどそれらを乗り越えた上でのデュエルに自分達は敗北したのではないか。そうでなければアストラルも浮かばれないだろう。
究竟、遊馬が嫌いだ。笑い合えて信頼も出来る仲間を、家族さえ取り戻しておいて、まだ欲張るか。この少年は全部自分の掌に置いておかなければ満足出来ないとんだ我儘野郎だという事を忘れていた。何かを手に入れるには何かを捨てるしかないのに、それをしようとはしない。皆はこれを彼の長所だと持て囃す。胸糞が悪かった。
「遊馬、ちょっとこっちに来い」
「おう?」
手招きすると不用心にも側まで寄ってきた胸ぐらを力んだ両手で掴み上げる。息苦しげに悶えながら訳がわからないと言いたげな目に苛つきは増すばかりだ。ベクターは腹から思いきり息を吸い込んで、ありったけの怒りを遊馬に浴びせた。
「俺はなぁ、遊馬ァ! てめえみてーな偽善者が大っっっ嫌いなんだよ! 俺を俺として見てもいねえくせになーにーがー俺とやり直そうぜだ! ああくそっ、結局てめえは自分の思い描く世界を、平和で誰も傷つかない甘っちょろい世界を人に押し付けてただけじゃねーのかよぉ! どうなんだよおいッ!? アストラルがもう居ねえ現実を見ろ! 真月零なんざハナから存在しなかった!! いいかぁ、よく耳かっぽじって聞いとけや。この世はな、いつまでも妄想だけで生き残れる程甘くねえんだよ! そいつに付き合うのももううんざりだ!」
肩を上下に動かし、切れかかった酸素を吸い込む。掴んでいた手の力は抜いた。それなのに何の反応も見せない遊馬を訝しげに思い下げていた視線を移すと、ふっと嘲笑してしまった。
「…その顔、サイコー」
くしゃりと歪んだ遊馬の顔は絶望の色を滲ませている。どこからどう見ても泣くのを必死に我慢している子供だ。かつてあれ程高揚した筈なのに、出た言葉とは裏腹にベクターの心は冷ややかになっていく。
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