ベランダから見下ろし、思う。このまま飛び降りたとするなら死に至る事はないかもしれないが、当たり所さえ悪ければ、あるいは。人間の姿を模したベクターは一人、せせら笑った。この高さから落ちただけて生死を彷徨うとはなんて脆い。
「零、ココア淹れてきたから飲もう。風邪引くよ?」
「はい、ありがとうございます!」
 己の喉から発せられる猫なで声に不快感を抱きながらこの家の主であり同居人でもある片桐から、すっかりこの手に馴染んでしまったマグカップを受け取る。啜ろうと淵に口付ければ熱さで顔を顰めなければならない、これも人間の嫌な部分だ。バリアン世界の住人には食事を摂る必要がない故に口がない為、最初は何なのかわからなかったが地上世界では猫舌と呼ばれているらしい。片桐を盗み見ると平然と淹れたてのものを飲んでいるので少し悔しくなった。ふーふーと冷ます行為が億劫で仕方が無い。
「飲み終わったら歯を磨いて、子供はもう寝る時間だ」
「明日は学校も休みなんですし、もう少しだけ夜更かししても平気です」
「またそんな事言って…背が伸びなくなっても知らないよ」
「もー、これでも身長は高い方なんですよ」
 そりゃ大介さんに比べたらまだまだですけど、と拗ねたふりをしてやや大袈裟な素振りで顔を背ける。そうすれば相手は中途半端に飲み残していたココアを一気に喉へと流し込みベクターの元にやって来ては頭を撫でる。下に見られるという屈辱的なこの行動にもそろそろ慣れてきた。ああ、腹が立つ。

 ベクターの胸の内などつゆ知らず、撫で続ける片桐の胸板に頭を預け、静かに瞳を綴じる。眠たくなった末の甘えと解釈され両手で握り締めていたマグカップを奪われるが抵抗する事無く離れて行った温もりがまた戻ってくるのを暫し待った。
「零」
 偽りの名に自然と反応が出来るようになったのはいつ頃だったか。気づけば慣れ親しんでしまったそれに対し短く返事をして片桐の肩口へ顔を埋める。
「…歯磨きがたまに面倒になります」
「わからなくもないけど、虫歯になりたくないなら行っといで」
 後押しされて渋々洗面所へ向かい、専用の歯ブラシで適当に磨く。鏡に映る真月零に嘲笑しながらもちゃちゃっと終わらせ片桐の元へと戻った。気怠げな足取りで近づくと頭を慈しむように撫でられる。ふわりと、背中と膝裏を支えられた特有の浮遊感さえ体が覚えてしまった。

 ベッドに着けば男だというのにやたらと丁寧に降ろされ溜息さえ吐く。ぎし、と二人分の体重でスプリングが大きく鳴った。体調を崩したらいけないだなんて一体どこまで子供扱いするのやら、横になった途端布団をすっぽり首まで被せられ少々不満げだ。現在の見た目からすれば確かに子供にしか見えないのだが、本来の姿であったならどんな接し方をしてくれるのだろうか。もしかしたら化け物と罵ってくるかもしれない。その時の悲痛に満ちた顔を、是非とも拝んでみたいものだ。
「大介さん」
「ん?」
 彼の、今のような優しい声音がどうしようもなく嫌いだった。否、大嫌いだ。七皇の誰一人としてベクターにそんな風に声を掛ける者は居ない。仮にそのような者が居たとして、きっと鬱陶しくて殺してしまう。あの二人をそうしたように。この生ぬるい関係もなにもかも壊したくて堪らなくなるが、今してしまえば年密に練ってきた計画が全て水の泡だ。せっかく九十九遊馬といい感じに友情ごっこを育んでいるのに自分の失態でおじゃんになるのは勘弁願いたい。
 名前を呼んだのに用も言ってこないベクターに首を傾げながら片桐は指で頬を撫でた。目を細めた先の柔らかく弧を描く唇にちりっとした胸焼けを起こし彼の腕を引く。それから少しだけ上半身を起こして噛み付くようなキスをした。バランスを崩したのを良い事に首回りに腕を絡ませ、より深く重ね合わせる。驚いてマグロになっていた片桐も口を開いて応えた。
「んっ…んっ…ふあ……」
 出したくもない艶やかな声。そしてそれに興奮を示す本能に従順な人間。同性同士だけというなら未だしも、住む世界すら違う者がする行為は意味など持たない。これを滑稽と呼ばずに何としよう。ぐちゅぐちゅに混じり合った唾液は冷たく顎に伝うというのに互いの口内は熱を帯び、その温度差さえ脳を揺さぶった。散々言っていたけれど人間態のメリットはここにある。本来の姿ではけして味わえることの出来ない昂りに、絶望を魅せた時とはまた違う快楽を感じた。

 キスが長引くに連れて頭がぼーっとしだしこのまま眠れるのではと思い始めた頃、服を捲られたのか肌に直接風が吹きかかる。ぎょっとして片桐に焦点を合わせると後ろめたそうにしてるわりには目が肉食獣のようにぎらついていたのを見て、ベクターの嘴はひくついた。そういえばいつの間にか馬乗りにされ、先ほどから当たる股間が硬い。
「ぼ…僕そろそろ寝ないと背が」
「高い方だし明日は学校が休みだから平気、なんだろう?」
 とにかく数十分前の自分をぶん殴ってやりたい。ごめんなんて口先だけの謝罪を耳にしながら身体中をまさぐられる奇妙な感覚に粟肌が立つ。
「や…っ!ま、待ってください…!」
 抵抗するも子供の力では虚しく、片手で頭上に纏められ胸の突起を弄るもう片方の手は指先で弾いたり動き続ける。こうなってしまえば止まらないのはベクターも身を以て知っていて、だから人間は嫌いなんだと嘆いた。一方的に翻弄されたままなどプライドが許さない。されども愛撫によって力が抜けていくせいで、その日は結局朝日が昇る時刻に二人で眠りについた。


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