家はない。
どうしてか、正直にそう答えてしまった。驚きで目を丸めた片桐を見て緩く首を傾ける。意外にも律儀であるベクターは例え九十九遊馬の前でなくとも真月零を演じ続けなければという意思がある故に、先程から変わらぬ愛らしい笑みを浮かべたまま心で毒づいた。何故一度デュエルしただけの奴にそんな事を聞かれなければならないのか、と。
別に本当に帰る場所がないわけではない。バリアン世界の住人であるベクターには、ただ地上世界には帰る家がないというだけで。
「あのー…用はそれだけですか?プロと話せるなんて光栄だって事は分かるんですけど、デュエルの話じゃないならもう…」
それじゃ、と踵を翻し鞄の紐を握り締める。どうも彼と二人きりというのは気分が悪い。わざととはいえ、負けてしまったなんてもやもやとした気持ちが胸に纏わり付くのだ。舌打ちをしそうになるのを必死に抑え大股に歩を進めようと試みた、が、前には行かずにその場に立ち止まる事となってしまった。「は?」とたまらず出てしまった素の声を気にする暇もなく肩に感じる重みから視線を順に上へ辿らせる。
「えーっと、なんでしょう?」
「……真月零君…だったね?」
「え、あ、…はい。そうですけど……片桐プロ?」
「その…君さえよければだが、僕と一緒に暮らさないか?」
また一度、今度は紛れもなくベクターの声音で「はあ!?」と叫んでしまった後で口を塞いでももう遅い。お互いに吃驚して固まってしまった空気を打ち破ったのは片桐の笑い声であった。
「ああいや…、その年で帰る家がないなんて大変だろう?だからご両親に、」
「親なんてもの、居るわけないじゃないですか」
自分でも気づかぬまま、低く苛立った声で片桐を刺す。その薄っぺらいお人好しの笑い方がどうにも気に食わなくて出たものだったが彼は何と解釈したのやら。急に狼狽えだし、次に真剣な顔つきへと変わった。
その変化にしくじったと自分のミスが分かった時には既に遅く、腕を引き寄せられ再び対面するはめになってしまったのだ。曇りのない瞳を見て苛つきは増す。
「お言葉ですが、プロデュエリストに隠し子が居たなんて報道された日には沢山のマスコミに囲まれますよ。僕の事なんかよりまずは自分の心配をして下さい」
「ありがとう。だけどそこは大丈夫さ。年齢から考えれば、君のような大きな子供が居るわけがないし兄弟で押し通せる」
「ああーなるほどぉ……じゃねえんだよ!遠回しに放っといて下さいって言ってんだ!!さっさと気づきやがれ!」
もはや真月零の事など考えられないほどベクターは限界に近づいていた。
真っ直ぐでお人好しで熱血タイプで、そんなところが遊馬とよく似ている。こんなに腸が煮えくり返るのは久しぶりだ。どうせ遊馬とは関係のない人間、非常事態である故に本性がバレても構わないだろう。ずっと堪えていた舌打ちを盛大にかまし不機嫌を露わにした。
「プロデュエリストさんよぉ、どーして俺にそんなくっだらねえお節介焼いてくるかねぇ。でも残念でしたぁ!テメェが思ってる良い子ちゃんとは程遠い、本当は逆の性格ってわけよ。人間ってのは自分の言うことを利いてくれる謂わば犬みたいな奴を求め、好くんだろ?というわけで諦めて下さいね、ショタコン野郎さん!」
言いたい事を言えて少しすっきりした顔をしたところで片桐に背を向ける。これで奴も諦めがついた筈だと思った。一歩踏み出して鞄を掴まれるまでは。
ぐい、と大人の力で後ろに引かれた為にベクターはつんのめってしまう。地面とキスをしてしまいそうになる寸前で腹に腕を回されなんとか回避出来たものの、心臓の高鳴りは止まない。今ので腰が砕けてしまったらしく離されても暫くは立てずにいた。
「手荒な真似をしてごめんね、零君」
まったくだと皮肉を言う気力もなくベクターは恨めしそうに肩で息をしながら片桐を睨む。しゃがんで目線を合わせくるという上からの行動にも腹を立たせつつ見つめていると、何故か手を握られたではないか。眉間に皺を寄せ集め唖然と阿呆みたいな表情になってしまうのも致し方がない。ベクターの手は片桐の大人の手によってすっぽりと収まってしまっていた。
「君にそう思わせてしまったのは僕達、大人の責任だね。可哀想に…」
「待て。お前が何言ってるのか理解できねえ」
「いいんだ。何も言わなくて良い。辛かったろう?」
「おい、だから…んぶっ」
次に収まったのは体だった。困った事に話が全く噛み合わない。肺を圧迫される息苦しさに相手の背中をばんばんと叩くが力が少々緩まっただけで、離される事はついになく。諦めて力を抜いた。
しかしなんだか不思議な気分だ。誰かにこうされる事など一度としてなかった筈なのに懐かしいと感じてしまう、そんな自分に吐き気がする。
一分にも満たない抱擁、ベクターの手はとうとう最後まで回し返す事はなかった。
「僕には仮にもプロがアマチュアの君を傷つけてしまった罪がある。その責任として、零君。君に人の素晴らしさを教えてあげよう」
ちょうど知り合いに素敵な新婚さんがいるのだと意気揚々に片桐は言う。慈しむような、そんな瞳で見られると。身体の芯から込み上がる嫌悪がベクターを包み込んだ。
「何が人の素晴らしさだ…馬鹿らしい。俺様はバリアン最強の戦士なんだよ!テメェみてーな人間から同情されるなんてあってたまるか!」
振り切って、立ち上がって、そして見下ろした。卑屈な笑みをしながら他人を見下す事の愉快さを確かめるように。顔の半分を覆い喉からひひひと引きつった声を上げる。
せっかくの思いやりを全て否定された彼が今、どんな表情をしているのか楽しみでならない。呆れたか、それとも傷ついているのか。
「…なんだよ。……んで、そんな目をしてくるんだよぉ!?」
だがどちらでもなかった。ベクターの予想を裏切る、まるで憐れだと言いたげな彼に歯軋りは止まない。
壁にも当たれず行き場のなくした憤りに、前髪を数本抜いてしまうぐらいの強さでぐしゃりと握る。独りでは何も出来ない弱者である人間にこんなにも惨めな気持ちにさせられるなんて、プライドが許すはずもなく。ひたすらに「くそ、くそ、くそッ!!」と怒鳴り散らすベクターを静かに片桐は見守っていた。