溶けだした熱に酔う

その日の夜は今の時期にしては寒い方だった。そのくせ、蝉はジージーといつまでも鳴いていて。そんな蝉達の不協和音が少々耳触りであった。ベッドから起き上がるとツンとした汗の臭いが鼻につく。寒い方と言えど、今は夏。寝汗をかいてしまうのは仕方のないこと。しかし気持ち悪い。ふと、喉が渇いていることに気付いた。汗をかいたのなら水分が体内から出て行ってしまっているのは当たり前だと、スポーツバッグの中から財布を取り出し必要な分だけをポケットにしまい込んだ。部屋のドアを開け廊下の左右を見渡す。消灯時間はとっくに過ぎているから誰も居ない事は知っていたが、やはりこういう時は確認をしてしまう。小さい子が悪戯をする時のような気分で、ほんのちょっとだけわくわくした。廊下は明りが無く真っ暗で一歩間違えれば壁に衝突してしまうのではないかと言う程、何も見えていない。階段をそろりそろりと慎重に降り、角を曲がるとすぐに自販機の光が見えた。真っ暗な所から急に明るい所へ来た為に目が眩んだが、すぐに回復する。金貨を入れミネラルウォーターを買うと喉が少し鳴った。他に人が居なくて良かったなと一人恥ずかしそうにしていると後ろから小さな笑い声が聞こえ、振り向く。

「あれ…円堂くん?」
「よっヒロト」

歯を見せながら笑いかけてくるのは同じく寝起きなのか、寝癖が所々についている円堂くんで。自分にも寝癖がついていないかひっそりとチェック。どうやら大丈夫みたい。今の円堂くんは、いつものバンダナを着けていないせいか子供っぽさが普段よりも増しているような気がする。ん、と自分の頭を指差しながら寝癖の場所を教えてやると照れくさそうにガシガシと頭を掻きながら寝癖を直していった。そんなやり方をしているせいで、今度は違うところに変な癖がついてしまっているけど。

「円堂くんも喉が渇いたの?」
「それもあるけど、目が覚めちゃってさ。蝉がうるさいんだよなー」
「あは、じゃあ一緒だ。俺も最初はそれで目覚めちゃったよ」

そんな話をしながらミネラルウォーターを自販機から取り出す。水滴がついて手が濡れるのが嫌なような気もするけど、冷たくて気持ちが良い。向かえ側にあるベンチに座りそれで濡れてしまわないよう床へと置いた。水滴が垂れる音はしないが、置かれた場所にはペットボトルの表面から床へポツポツと小さな水たまりが広げられている。靴の裏で拭き取ってみると靴の裏が廊下に滑らなくなりキュッキュッとした音を立たせた。それが楽しくて暫くはそれで遊んでいた。円堂くんはベンチへは座らず、俺のその動作を見ているだけ。それでも気にせず俺は続ける。ああでも流石にやりすぎると誰か起きてきちゃうな。一旦止めると円堂くんも見つめるのを止め隣に座って来た。

「なんか、意外だな」

ポツリ呟かれたその言葉は俺の耳へ入り、その後は闇の中へと溶けていった。綺麗に、残響も跡形も何もなく。何故か勿体ない気がする。それが不思議だ。

「何が意外?」
「ヒロトもそういう事するんだなって。子供らしい事とかしなさそうなイメージだったから」
「やだな、俺だって君と同じ中学生だよ?」
「そうなんだけど、少し普通の子供とはかけ離れてる感が否めないっていうかさ」

彼の中の俺のイメージってどんなだろう。頭の中を是非とも覗いてみたい。けれど自分でも自分を年相応の子とは少し違うという自覚はあったから分からなくも無かった。5年間"宇宙人"をやって来たせいかもしれない。それだったら緑川もそうなるのかもしれないけど、彼は演技で"宇宙人"をしていたからきっと別なのだろう。困惑を打ち消すように床から水を拾い上げがぶ飲みした。一気に半分ぐらいまで飲んだせいでお腹がたぷんと波打つ。今からあのお決まりの台詞を言われたって、多分サッカーは出来ないだろう。だって横腹が痛くなってしまうから。果たして、こんなふざけた理由でサッカーを休むという日が来るのか。頼むから来ないでねと頭の片隅で願った。

「まあヒロトの新しい一面が見れて俺は嬉しかったよ!」
「そんな言葉で逃れようとして…」
「本当だって!俺今すっげー嬉しい!」

屈託のない真っ直ぐな笑顔で言われると信じる他なかった。例え他の事で怒っていようが、まっ良いかで済ませてしまうのではないかと錯覚させてしまう程の笑顔を今俺だけが見ているという優越感が堪らなく俺を震え立たせる。気が緩んで力が抜け蓋を閉め忘れていたペットボトルが床に落ちてしまう。

「あ…」

水がばら撒かれそれは次第に伸びていき何本にも別れ、細々とした川を沢山作り上げる。その様子をただ見守っている俺とは別に、円堂くんはしゃがみ込んで「何してるんだよ」とペットボトルを置き上がらせた。続いて俺もしゃがみ込み、謝罪をしながらジャージの裾で水を吸い取り始める。吸い取っても吸い取っても全ては吸い取れない。ジャージを脱ぎ、水に被せようとしたがジャージは円堂くんによって取られてしまった。

「俺、雑巾の代わりになる物を持って来る」
「でも」
「良いから」

強く言われ渋々止める。俺が悪いから処理してるのに怒られるなんて変だな。ほら、水がどんどん流れて行くよ。手で止められる限りは止めようと腕を伸ばすと、俺の手に円堂くんの手が重ねられた。

「ヒロトの手、冷たいな。水みたいだ」
「だって水を触ったから」
「だからまた水を触ってこれ以上冷えちゃったら氷みたいになっちゃうだろ?俺はヒロトに温かい手でいて欲しいんだ」

きゅっと握られると彼の体温が自分に移ってくるような気がした。いや、気がしたじゃない。本当に移ってる。どんどん俺の手が温かくなって彼の手が冷たくなってきているのだ。俺だって、君には温かい手でいて欲しいのに。

「円堂くんも冷たくなっちゃうよ」
「俺は体温が高いからすぐに戻るさ。だからヒロトに分けてやる。…でももう温まったな。良かった」

手を放し、取りに行ってくる!そうパタパタ走りながら声を出す彼の姿を泣きそうな顔で見つめていた。手に残った体温はもう暫く消えそうにない。
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