▼ プロローグ

 抜けるように青い空。吸い込まれそうな碧い海。8月、バカンスシーズン。バカンスなんて素敵な制度がないこの国も、一応は夏休み期間である。
 レンタルした馬鹿デカい浮輪に体を乗せて、私は絶賛人の多い波間を漂っていた。友達とやって来た割とご近所の海、着替えがいち早く終わったので先に海に浸かっているという訳だ。付き合いが出来て2年程度の友達だけど、短期間に濃厚な接触をしているからまぁ向こうから見付けてくれるだろう。
 私は***・※※※。20を越えたところから年齢は数えないことにしておいた永遠の二十歳、ばりばりのお気楽事務職7年目で、ついでに一年の休日の4割は何かしらのイベントに飛んでいくオタクである。プラス4割は多分原稿作製とかに費やしている立派なサークル者だ、年中島中だけど。楽しければいいからまぁその辺は気にしないことにする。
 そんな私だが、今日はコミケの原稿を早々に印刷所にぶち込んで、優雅に友達と海水浴と洒落込んでいた。
 早割様々だ。ロッカーに放置の携帯が印刷所からの不備連絡を華麗にキャッチしていないか若干不安だ。最後の方半分寝ながら書いてた気がするし。
 などと、終わったことをいつまでも考えるのは止めよう。今日は世間的にも休日だし、子供たちは夏休みだし、何よりいいお天気だから海水浴日和だ。何も考えずに楽しく遊ぼう。あと夜は浴びる程酒を飲みたい。禁酒1週間の体が悲鳴を上げている。浜辺の生ビールの幟が私を呼んでいる。
 そう思いながら視線を浜の方に向ける。と、違和感。何だか遠い。浜までの距離が遠い。そういえばさっきまで周囲にいた人込みがどこかに行っているし、何かどことなく海流の流れを感じたりして──これはもしかしなくても、離岸流じゃあないでしょう、か。
 冷静に推測する間にも私は流されている。桃太郎もびっくりの迅速な流され方だ。全然嬉しくないわ畜生が。
 離岸流は流れと垂直に逃げるのが鉄則、ということで、私は寛ぎ体勢を急いで解除。浮輪ごと泳ぎ出そうとして、どデカい波をモロに被った。
 塩辛! 塩辛いのはイカの塩辛だけで十分だ!
 ビール飲みたい、化粧流れたかな、なんて思いつつ海面を掻く。そんな私に寄せ来る波は容赦なく襲いかかって、ザッパーンと、浮輪をひっくり返して下さった。
 わぁお笑えない。ここは既に海水浴場の外、かなり水深が深い。泳げるけど体力が底辺なオタク女子としては、岸に自力で辿り着ける気がしない。取り敢えず体勢を立て直さないと泳ぐどころでもない。
 浮輪から体を抜いて、もう来るなよ波頼むから、と祈りつつ体勢を──ダパーン。
 またも波を被る私。更にはその威力で浮輪が手から離れ、慌てた拍子に足が攣った。え? はぁ? そんな漫画みたいな展開いらねーよおい!
 表面上は冷静沈着に見られる私だがそんなタイプじゃ全然ないので、全力で突っ込みを入れる。勿論心の中でだ。今口を開いたら自殺行為だ。自分の首を自分で絞めるに等しい馬鹿だ。
 と考えている間にも体は沈んでいる。脱力したら浮力で勝手に浮くのは百も承知だが、余りに吊った足が痛くてそれどころじゃない。あああ誰か私の悲劇に気付いてないのか。レスキューがこっちに向かってたりとかしないのか。しないよな…ははは死亡フラグこんにちは。
 冗談じゃない、けど、リアルに死にかけているのは確かだ。かなり上の方にゆらゆら揺れる海面が見える。紺碧。向こう側に照り付ける太陽の光が見えて、綺麗だなと思う。現実逃避甚だしい。
 息を止めているのも限界でごぽりと鼻から空気が抜ける。次いで海水が口の中に入ってきて、思い切り飲み込んでしまった。
 待って私コミケ出られない訳か本は届くし友達は来るのに、と場違いな思考をしながら、私は意識をゆっくりと失った。全力で恨むわ神様の馬鹿野郎。



 波の音がする。海の匂い。体は仄かに温かくて、柔らかいものに触れている。よもやここが噂の天国?
 重い体を引き摺るようにして起き上がる。ぼやけていた目の焦点を合わせると、どうやら家の中らしかった。随分と庶民じみた天国だ。私は柔らかいベッドに寝かされていたらしい。
 何となく頬を抓ってみたら痛かったので、これは現実のようだ。更にきちんと現実を直視するなら、ここは天国ではなくどこかの誰かの家である。どうやら私は助かったんだと思っていいらしい。
 さっきはけなして悪かったよ神様。ここがどこだかなんて知らないけど、命が助かっただけでも上々だ。信心なんて殆どないけど感謝しておこう。取り敢えず仏とイエスとアッラーと八百万の神にでいいだろうか。
 起き抜けから相変わらずの自分の思考に笑いが漏れる。と、蝶番の軋みと思われる音と共に扉が開いた。年配の、人の良さそうなおばさんが顔を覗かせる。

「あんた目が覚めたのかい! いやぁよかったよかった」
「えーっと……ありがとうございます?」

 助けてくれた人か寝かせてくれた人か、兎に角何かしら関係者っぽいので礼を口にする。すると彼女は礼なら旦那に言いな、とこれまた人の良さそうなおじさんを連れてきてくれた。
 おばさんがまだ寝ていろと言うので、不躾にもベッドに入ったままで頭を下げる。おじさんはいいってことよと笑って、それから経緯を説明してくれた。
 それによると私はぷかぷか波間を漂っていたらしい。漁に出ていたおじさんは海王類にでも食べられたら大変、と船に引き上げてくれたそうな。イイハナシダナー。
 ん? 海王類?

「あの、海王類って…」
「この辺の海でもたまに出るんだ、あんまり凶暴ではないけどな」
「あー…そうなんですか…」

 海王類って、あの。例の人気漫画の用語にしか、聞こえないんですけど。何かよく分からないデカい海の獣がそんな名前だったような。

「…幾つか質問しても? ここって“東の海”ですか?」

 肯定。島の名前は聞いたことがない。

「…大海賊時代?」

 肯定。何を今更という感じ。
 それなら、もしかして運とタイミングがよかったりして。

「………王下七武海の一人にサー・クロコダイルがいる?」

 …肯定。知り合いかとビビられたので取り敢えず否定しておく。
 が、私の頭は歓喜でちょっとよく分からないことになっていた。信じられない。私があの二次元にありがちなトリップで御座いますよ。しかも週刊誌連載中アニメ放映中映画化も度々している某大人気海賊漫画の世界と来た。普通に読んでるけど自ジャンルだったことは残念ながら、ない。
 ないけど、そうないんだけど、たまに漫喫で読み返してギャン泣きするし、用語は大体覚えてるし、待って待って混乱しているなう。
 因みにオッさん大好きな私は、この漫画の場合の嫁はサー・クロコダイルに他ならない。地味に彼が出ているところだけはコミックを手元に置いている程度の能力だ。時折発作のように鰐ちゃん可愛い病を発動しては頭を抱えたりもする。
 …へぇ。そうか、ここはあの色々ととんでもない感じの世界なのか。
 ジーザス! こんな気持ちになるのは初めてだ。ありがとう神様、と本気で思った。嫁がいる世界に転がり込むなんてラッキー以外の何ものでもない。
 小躍りしそうなのを何とか耐えつつ、私は重ねて夫婦に礼を言う。と、どこかに消えていたおばさんが何かを手に持って戻ってきた。

「あんたがしっかり持ってたんだよ、覚えはあるかい?」
「………ありますね、ええ」

 無論冗談だ。全然ない。だっておばさんの手に握られた葡萄のようなそれは、何故か渦巻模様というか唐草模様というかをしていて、明らかに“悪魔の実”なのだ。彼らはそれが何か分からないらしい。
 何で私がそんなものを持っていたのだか知らないが、私が持っていて私と一緒に助けられたなら私のものということでいいだろう。
 物凄く手前勝手で都合のいい解釈を展開させて、私はその実を受け取った。どこかからふわりと香るアルコールの匂い。それに禁酒してたんだったな、などと至極関係のないことを思い出しつつ、私は篤く篤くお礼を言ってその家を後にしたのだった。



13.05.18




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