▼ 煮えない矛盾

 乾いた風が町並みを吹き抜けていく。アラバスタ王国、アルバーナ。天気はいつものように、晴天。



 カツコツと高いヒールの音を響かせて女が歩いていく。
 誰もが思わず振り返って見てしまうような分かり易い美人ではない。だが丁寧に化粧を施し、体に合った服を纏い、凛とした立ち振る舞いをする姿は十分に“美しい”と表現出来るものだ。街の風景にさらりと溶け込みながら、しかし印象は決して薄くない。
 濡羽色のロングドレスの上に柔らかな織りのストールを乗せて、足には華奢なピンヒール。ブルネットの髪は緩くシニョンに形作られており、耳から下がった繊細な細工のピアスを際立たせるかのようだ。
 そんな女の半歩後ろを、どこか似つかわしくない屈強な男が付き従って歩いている。飾り気のないスーツ姿。その下に隠された体は逞しい筋肉に覆われているということが、目にしなくとも感じられる風体だ。
 男の手には幾つものショップバッグが握られていた。先を行く女は何を手にするでもなく、その細く、よく手入れされた指先を中空に遊ばせている。爪には控え目なネイルカラーが光っていた。
 この2人の男女の関係性を敢えて傍から推測するなら、どこかの裕福な家の娘と付き人。そうでなければ──どこぞの高級娼婦と、そのボディガードか。

「…ごめんなさいね、女のお守りなんて退屈でしょう?」
「──いや…、」

 女──※※※の上げた声に、躊躇いがちな否定の声が上がる。ふふ、と唇に笑みが乗せられるのを見て、ダズ・ボーネスは困り顔を微かに深くしたようだった。
 当人たちの視点で正しくこの関係性を語るなら、ボスの女である娼婦とボディガード兼荷物持ちを任された部下、といったところだ。
 秘密結社バロック・ワークスのMr.1が何故このようなことをしているのかと言えば、他ならぬ彼のボスの命令であるからだ。それ以外の理由でこのような役目に回るなど、有り得る筈もない。
 ※※※は昼過ぎから高級なブティックを幾つも回っている。ドレスを始めとして靴、アクセサリー、鞄、その他細々した服飾品を買い込んで、その様子は大して楽しそうでもなければ面倒臭そうでもない。すべきことを淡々と熟している、そんな印象が先行する。
 ダズの感性からすれば時折天秤に掛けられる「こちら」も「あちら」も殆ど全く同じようにしか見えず、買い物の内容自体からは疾うに意識を逸らしていた。女はそのことを最初から分かっていたかのように、特段言葉を掛けてくるようなことはしなかった。ただ時折必要な時にだけ、短く会話をするだけだ。
 故に差し迫った必要性もなく投げて寄越された言葉は、寡黙な男を数瞬だけ戸惑わせるには十分だった。※※※はそれに気付いているのか否か、くすくすと喉を鳴らしている。その仕種は、彼女を陶然の眼差しで見る者が向けられたなら倒れ兼ねない柔らかさを有している。だがダズにそのような感情は一切なく、ただ笑っているという事実だけが情報として認識された。
 時刻は既に夕方、赤い日が地平線に沈み込もうとしている頃だ。今日は女の男でありダズの上司である彼はアラバスタを離れている。戻るのは明日の午後の予定で、それまで女にお呼びが掛かることはない。故に、彼女はふらりと街角にある薄暗い戸口を潜ったのだった。
 そこはバー、よりは若干軽い雰囲気の、しかしパブよりは幾分か上質な空間だった。女は慣れた様子でカウンターの隅の高いスツールに腰を下ろし、ダズも仕方はなしにそれに習う。綺麗に紅を引かれた唇がカウンター内のボーイに囁く声音で酒の名前を告げた。

「貴方も飲んだら? どうせもう帰って寝るだけだわ」
「これでも俺は仕事中なんだが…」
「あらお堅いのね、“殺し屋”さん」

 潜めた声音で紡がれた言葉尻に思わずぴくりと反応する。それを女が知っているのは別に奇妙なことでも何でもない。ただそれを口にされるとは、思っていなかった。
 ターコイズブルーの女の瞳にはからかうような気配はない。真っ直ぐに向けられる視線。その中にどこか剣呑な色合いが混ざり込んでいるような気がして、背筋に緊張が走る。今すぐにでも首をへし折ることが出来そうな細く、女らしい体付き。そこには殺気や剣呑さといったものは何一つ見受けられなかったのに、いやだからこそ、違和感がじわりと頭を擡げる。
 ※※※は金で買われて囲われているという。裏社会で生きていればそういう女の存在は別に珍しくもなかったし、一度でも関わり合いにならないでいる方が確率としては難しいだろう。ご多分に漏れずダズとてその一般的な裏社会の人間な訳だが──こういう女は初めて見た。
 大概その手の女というのは、極端に男に媚びているか、でなければ男を全員見下しているかのような態度を取る。従順になる相手は己を買った男ではなく、彼らの齎す金と快楽。そういう手合いは五万といる。
 だが、彼女はそうではないようだった。どこか凛とした気配、それに悪戯げな香りを含ませて女は笑う。くすくすくす。鼓膜を揺らすその音は柔らかで、どこか少し得体が知れない。
 運ばれてきたグラスに口をつける女に向かって、男の口は刃のような疑問を突き付けた。

「あんた、ボスのことをどう思っているんだ」

 女の唇が僅か、ほんの一瞬だけ震えた。

「…彼のこと? そうね、今は私をこんなに放っておくなんていけない人、って思っているわ」
「放っておかれて寂しい女の顔には見えねェが」
「それはそうよ、寂しくはないもの」

 女の発言は酷く矛盾しているように聞こえたが、本人にとってはそうでもないようだ。その感覚が理解出来ずに軽く眉を寄せるダズに、女は解説するでもない口調で先を続ける。

「私にとっての彼は気難しくて、気紛れで、真面目で、捻くれていて、でも不器用に優しくて、とても…可愛らしいヒトよ」

 そう表現されたのがあの上司であるのだということを理解するのを、有能な殺し屋の頭は暫し躊躇った。人物像が余りにも噛み合わない。
 何をどうしたらそんな突拍子もないような表現に行き着くのかと首を捻るも、何をどうしても解せる気がしない。故に、この女といる時は余程普段と違った態度を取っているのかもしれない、と思うことにしてそこから思考を引き剥がした。そんな益体もない妄想をする為に訊いたのではないのだ。
 気付かれない程度に嘆息を吐き出したダズの目は、ややあって女の飲んでいる酒に留まった。アルコールの趣味は随分と違うようだ。縦長のグラスの中で、シャンディ・ガフが細かな泡を立てている。
 話題の人物はどちらかと言えばブランデーや上物のワインを好む。甘い酒は好きではないとカクテルの類は口に運ぶのは稀だ。最近一度だけその貴重な光景を見たが、それにしたってグラスの中身はキツく作られたブルー・マンデーだった。丁度、女の瞳のような色をした。
 金色の液体がグラスの縁から女の口の中へと消えていく。薄い硝子に触れた唇は如何にも柔らかそうで、女性らしい微笑が乗せられたままだ。大して顔色も変えずに一杯の半分程を飲んでしまうと、女の手は徐に細長い物体を取り出した。
 それは黒に金色の縁取りを回したシガーホルダーだった。そこに細身の煙草が差し込まれて、吸い口が女の唇に近付く。
 ダズが胸ポケットからライターを抜いたのは脊髄反射だった。軽い音と共に熾った火に煙草の先端を寄せ、※※※は細く煙を吐き出した。空気中に漂う紫煙を見て今更、吸ったのか、などと思うのは思考が上手く回っていないからだ。何となく居心地の悪さを感じながら定位置にライターを戻すと、一拍遅れて女の声がそれを追い掛けてきた。

「ありがとう」

 それにふふ、と微笑ましげな笑気が混ざるのは、女にも火を差し出す癖がどうして付いたのか分かっているからだろう。知っていて煙草を口にしたのだとすれば些か質が悪い。

「ねぇ、やっぱり付き合って? 私一人酒って好きじゃないの」

 そう言う女の碧眼には本当にごく僅かだけ心細げな色が乗っていて、性根の真面目な男は、それに頷き返す以外の行動を瞬く間に剥ぎ取られてしまった。



13.05.05




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -