▼ 飽きの来ないほろ甘さで

「…※※※」

 私の名前を紡ぐ唇。いつも薄笑いを浮かべたそれは、私の髪先に触れるか触れないかの位置に止どまっていた。緩く背後から抱かれた体勢、先程まで上機嫌に酒を呷っていた筈の男の声は今や暗く沈んでいる。
 ※※※ちゃん、と些か馬鹿にしたような口振りで私を呼ばない時は、少なくともふざけたことは口にしない。酒を飲んでいる間に酒に呑まれたのか何なのか、何か考えたようなのは確かだった。私は下らないことだったら息の根を止めることも視野に入れようと考えながら、文字を追っていたアエネアスから顔を上げた。少しばかり固い私の椅子は、濃いサングラスのレンズの向こう側から何か言いたげな視線を投げ掛けてくる。
 こういう時、いつも煩いくらいの口が急に口数を減らすのにも、もう随分と慣れてしまった。私はぱたりと本を閉じると、それをサイドテーブルに投げ出した。捉えておく気などそうないのではないかと思えるくらいに緩やかな腕のホールドから抜け出して、体を向き合わせる。固まった笑顔が、微かに強張っていた。
 ぺた、と指先でその頬に触れる。私からの接触は滅多とないからか、ひくりと反応が見受けられる。でもそれもどこか薄い。私を無理矢理腕の中に閉じ込めてこうして時間を過ごしておきながら、このお馬鹿な鳥頭は何を考えていたというのだろう。

「…ドフラミンゴ、」

 サングラスへと伸ばそうとした指を、大きな手が止めた。相変わらずそれを外す気はないらしい。こんなにも薄暗い部屋の中なのに。そんなところにも、もう慣れた。
 どうしたの、と甲斐甲斐しくも問うてやれば、あぁ、と吐息にすら近い声が返ってくる。答えになっていない。けれど、私はその先を待ってやる。
 部屋が暗いせいでサングラスの奥は窺えない。それが何だか、不可視の壁を作られているようだった。

「……お前さ、」

 ゆるりと上がる声。
 それは硬くて、何だからしくない。寄せられた眉、眉間に寄った皺がお好きなスマイルからは程遠いのに、それを直す気配はなかった。
 私の手をそっと下ろさせて、今度は彼の指先が私の頬に触れた。それは慎重な様子で、左目の下に持っていかれる。そしてそこにある傷痕──蟀谷から鼻梁まで一直線に走る痕に、触れた。
 その手付きが何だか擽ったくて、私は身を捩る。でも腰に回された腕は今度はきちりと私を抱き留めていて、逃がしてはくれなかった。

「この傷、誰に付けられたんだ」

 苦々しい口調。つぅ、と縫い目の上を辿るその指の感触は不気味な程に優しい。だから私は軽く目を伏せて、その不躾な手を許容する。他の男にされたら絶対、今頃首元に刃物の切っ先を押し当てている。
 答えを返さないでいると、固定形だった口が少しばかり歪む。真一文字に引き結ばれる一歩手前の様子で、答えらんねェのか、とまた苦い声音が響いた。

「…気になるの?」
「あァ、ムカつくつらいになァ」

 すり、とかさついた男の指先がまた私の肌の上を撫でた。
 傷はもう完治していて、触られても痛むようなことはない。酷い怪我を負ったように見えるかもしれないが、実際はそこまでも深くはなかった。ただ私がすぐさま手当てをしなかったせいで、綺麗に切り口同士が癒着せずに痕が残ってしまったのだ。
 確か私が海兵になってからそこまで間がない頃のことで、相手は偉大なる航路ではそこそこ名の知れた海賊だった。剣の切っ先が自らの肉に埋まり、そこを裂いていくのを生々しく思い出すことが出来る。それでも恐怖はなかったし、痛いとも感じなかった。大量に分泌されていたアドレナリンが私の感覚を狂わせて、ハルバードを振るう手を決して止めさせはしなかった。だから私は今、こうしてここにいる。
 別に特段外見を気にする質でもないから、傷のことは自分では殆ど気にもしていない。雨の日に疼くなんてベタなこともないのだから、まぁ当然と言えば当然だ。
 それが付いた由来を、どうやら彼は聞きたいらしかった。気にしていないからと言って楽しく語れるような思い出でもないのだが。んん、と言葉を探して私は視線を微かに伏せる。

「残念だけど顔も名前も覚えていないわ」

 素直な私の回答に、今度こそ口は真一文字になるどころかへの字に曲げられた。如何にも気に入らない、という顔で私の頬をすりすり撫で回して、彼はむっつりとした声を出す。

「…何だよそれ、ぶち殺せねぇじゃねェか」

 その言葉に私はきょとんと目を瞬いた。自分でも実に間抜けに思える仕種だった。こんな子供っぽい顔をしたのはとても久し振りだ。
 だって余りにも、予想外過ぎて。一体何を言っているんだろうと思う。“殺せない”なんて。そんなこと、当たり前なのに。
 ふ、と笑うと目の前の眉間の皺は深くなった。それをつんと指先でつついて、私は唇を動かす。今にも触れそうな距離で。

「そんなの当然よ…だって私が殺したもの」

 は、と彼の唇が間抜けな形になって、吐息が漏れた。だけどそれはすぐに笑みに変わる。

「フッフ…フッフッフッフッフッ! テメェの落とし前はテメェで付けるか…お前らしいぜ」
「ヤられっぱなしは性に合わないの…それが何で誰が相手であれ、ね」

 言いながら見慣れた口角の角度に戻った唇に指を這わせる。その手を取られ、指先に口付けられるのは必然的な流れだった。
 ちゅ、と音を立てるそれに私は目を細める。そんな愛おしむような仕種は似合いはしないのに。それでも、不思議と悪い気はしなかった。
 全く、つくづく私らしくもない。だけどたまにはこんな日もあっていいのかもしれない。
 いつも通りの小煩いことこの上ない来襲。半ば以上拉致の勢いで連れ出さて放り込まれる手近な島の酒場、その薄暗いVIPルーム。だけどそれ以上の強引さはなく、私が諦めの溜め息を一つ吐けば後はゆっくりとした時間が流れるだけだ。そのうちの一度や二度を、こうして原因のよく分からない嫉妬から生じた遣り取りに費やしたところで問題など起こりはしないのだから。
 いや──一つだけ、問題があるといえば、ある、か。
 私からドフラミンゴにした二度目のキスは、濃いブランデーとシガリロの味が混ざり合っていた。






飽きの来ないほろ甘さで
(…※※※ちゃんさァ、俺のことどう思ってんの?)
(…頭の足りないフラミンゴちゃん)
(相変わらず?! それもうちょっと格上げ出来ねェの?)
(……出来ないわよ、馬鹿)



13.09.13





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