▼ それは物言わぬ水底を映すような

 ざぁざぁと頭上から温い水滴が降り注ぐ。それで全身を濡らしながら、※※※はほうと溜め息を吐いた。
 夕方には帰ってくる筈だったクロコダイルはまだその影すら現していない。用事が思いの外長引いたのか、何かトラブルでも起きたのか。どちらにせよ時刻は既に23時を過ぎていて、家主が今日も自宅で眠りに就かない確率は極めて高かった。
 白く、滑らかな肌の上を湯が伝い落ちていく。体を洗い清めた泡はとっくに全て流れ落ちていたが、なかなかコックを締める気にはなれなかった。無意識的に浮かんでしまう感情を押し流すかのように、無心に流水を受け止め続ける。浴室に水が床を叩き付ける音がし始めてからもうどれ程の時間が経っただろうか。
 ふ、と小さな物音と共に背後に気配が出現したことに気が付いて、※※※はゆっくりとそちらを振り返った。

「…おかえりなさい」
「…あァ」

 振り向いた先には、開いたバスルームの扉に凭れ掛かるようにして立つクロコダイルの姿があった。いつもより微かに深い眉間の皺が、彼が不機嫌であることをよく表している。
 何があったのだろうかと思う。彼は予定が狂うことに関して寛容な方ではない。致し方ないことならばまだしも、徒に引き留められたならきっと相手は生きていなかろう。
 そう考える女を余所に、するりとクロコダイルの肩からコートが床に落ちた。そして無造作に靴も脱ぎ捨てた大柄な体が、ゆっくりとバスルームに進入してくる。

「濡れてしまうわ」
「……構わねェ、もう濡れてんだ」

 その言葉に首を傾げたものの、見れば確かにクロコダイルの髪は既に水に浸ったかのように束になってしまっている。彼に水を掛けようなどという無謀かつ蛮勇な人間はこの国にはそうそういない筈だ。ともなれば、ずぶ濡れになる理由など一つしか考えられない。

「海が時化たのね」
「…ありゃ嵐だ」
「だから──」
「もう黙れ」

 遅れたの、と言わせてはもらえなかった。大きな、それでいて武骨ではない指が唇に触れてその先を殺してしまう。
 そこから伝わってくる体温がいつもより幾分か低いのは、濡れ鼠になったからなのだろう。港町であるナノハナに宿を取って不快な水気を飛ばし、一夜を過ごすことも出来たろうに。そうしなかったのは、クロコダイルが機嫌を損ねた原因にある。そんな気がして、だが追及する声など上げずに※※※はその手に身を委ねた。


◆ ◇ ◆


 柔らかなベッドの上で、女が静かな寝息を立てている。
 艶やかなブルネットの髪はまだ少し水分を残していて、それがシーツをじわりと湿らせる。それを見るクロコダイルの髪や体は既に不快を感じない程度に乾いていた。ついと右手を伸ばし、布の上に散らばる絹糸の先に触れる。それからごくごく注意して、彼は“渇き”の能力を発動させた。
 ふわりと柔らかな状態になった髪から手を離し、クロコダイルはベッドから足を下ろした。ぎしりとスプリングが軋む。
 人心地つくと深い溜め息が口を突いて出た。全く、収穫はあったが実に不愉快極まりない仕事だった。気が滅入る。
 まずは商売相手が宛行ってきた女が最悪だった。媚びた声音、無駄に分厚く塗り重ねられた化粧、下品な肌の露出。香水にしても安っぽく甘ったるい香りが鼻に付いてならなかった。
 そんな女に擦り寄られても不快感と苛立ちが募るばかりだが、その程度で蹴るには少々勿体ない商談だった。アラバスタに置いてきた女とどうしても比べてしまうのを何とか抑えて、交渉を纏めた訳だったのだが。
 船を出して1時間後、海は荒れに荒れた。大時化と言うよりも嵐の激しさで、能力者としても能力の特性としても海水など寄せ付けたくないクロコダイルも、流石に船の取り回しに指示を出さない訳にはいかなかった。
 結果、彼の機嫌は垂直落下した。冷たい荒れ狂う海水を被ったことで鬱陶しかった女の気配は消え失せたが、帰り着くのは大幅に遅れた。これで苛々しない方がどうかしている。
 だがまぁ、極上の女の温もりに多少は気分が持ち直した。聡い女は好きだ。余計なことを言わずとも十を推察出来る女は。それで無駄口を叩かないならば更にいい。
 そういう点に関しては、※※※は一定以上の評価に値するだろう。クロコダイルの性情をよく知る者ならば彼をその体で以て宥め賺すことが出来るということだけでも同じ評を与えるに違いない。
 八つ当たりにも近い、常より些か乱暴に掻き抱かれた女は、静かな寝息を立てている。
 上下する胸、無防備にも晒された首は簡単にへし折ってしまえるか細さを窺わせた。その肉を男の下劣な欲望に差し出すことで生を繋いできた女。だがそれだけではないと思わせられるのは、彼女がただ甘いだけの女とは少し趣が違うからだろう。
 晴れ渡った海面のようなターコイズブルーの瞳は時折、その奥底に暗い深海の色を宿す。その一種ゾッとするような違和感は、これまでに何度か感じていた。決して過度に警戒させるようなそれではない。だが一度知ってしまえば、それは緩やかな毒のように神経を蝕んだ。まだ知らない女の一面がどこかに隠されているような気がして、それを無意識のうちに探っている。
 それを、こういった生業の女がパトロンを繋ぎ止めておく為に使う常套手段だと判断するのは如何にも容易い。だがそうではないと、動物的にすら近いクロコダイルの直感は告げていた。言葉にはし難いが、演じているのとは何かが違うのだ。だからこそこうして、まだ手元に置いている。
 少なくとも、※※※が能力者でないことは確かだ。そしてクロコダイルに致命的な害を加えることが出来ないということも。今あるのはただ抱き心地の好い肉体と煩わしくない中身だけで、それを紙屑を捨てるように小汚ない路地裏に放ってしまうのは少しばかり躊躇われた。
 いつでもその首を折ってしまえる。その息の根を止められる。障害などには、なり得はしない。その確証があるからこその選択。
 きっと明確な殺意を向けたところで、この女は泣きも喚きもしないだろう。縋り付いて涙ながらに助命を懇願するところなどまるで想像出来ない。彼女はきっと、薄く笑ってその切っ先を受け入れるのだ。この身は全て貴方のものであるからと。
 あの薄暗い路地で皮肉げな笑みを見せた女の顔が蘇る。思えばあの時も、碧い瞳はどこか深い色を孕んでいたような気がする。決してそこが暗かったせいではなく、確かに。
 何とはなしに髪先を掬うと、その気配を察したのか女が身動いだ。んん、と悩ましげな息が漏らされて、また規則的な寝息が重ねられていく。
 目蓋の奥に隠されたその瞳は今、どんな色彩を乗せているのだろうか。砂漠の中に不自然な程に美しく浮かぶ、紺碧の海の色。それは損なわれては、いないだろうか。

「…※※※、」

 お前は一体何者だ、と。口の中だけに止どめた言葉はクロコダイルの中に蟠って、暫くその響きを永らえさせていた。



13.05.29




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