ローファーの爪先が、地面には何も出っ張りがないのに引っかかって転びそうになった事に、名前は内心驚いた。表情は無表情を貫いているが、心の中ではびっくり顔をしている。どうにも彼女は体調が優れていなかった。朝いつもより寝坊をした時点では気付かなかったが、ベッドから躰をのっそり外に傾け脚を床に付けたつもりでそのまま倒れたときには「あぁこれは駄目だ」と彼女自身が察した。倒れた音で母親が確認をしに来たときすら、名前はうまく動けないほど躰は倦怠感に呑み込まれていた。
 本日は2学期最終日。躰の不調を薬でおさえつけつつ、名前はのろのろと学校へ向かった。マスクをし、マフラーをぐるぐるに巻いた姿に、電車では席を譲られてしまう。躰中を這う倦怠感に素直になり、席を譲ってくれた人にお礼を云い、椅子に腰掛けたときにはそのまま眠ってしまいそうになった。でも、それはいけない。彼女は意地でも学校に向かおうとしていた。
 名前が学校に着いたのは、2時間目の休み時間が始まった頃だった。休み時間に登校となると、既に通常通り登校している生徒たちの「あ、今来たんだ」という目を集めるが彼女はまったく気にしていなかった。昇降口でローファーを脱いでそれを下駄箱にしまう間、靴下越しに足の裏から伝わる廊下の冷たさが痛く感じる。すぐさま上履きに履き替えて、教室に向かおうとしたとき、後ろから声をかけられた。

「苗字ちゃん?」

 ゆっくりと脚をとめて、マスクをあごの下まで下ろしながらゆっくり半身ほど振り返ると、制服のズボンのポケットに手を突っ込んだまま呆けている赤羽カルマの姿があった。赤く透明な瞳が、子供らしく見開かれている目にまんまるく存在している。それもすぐ細められて、笑ったような目に変わった。

「苗字ちゃんが珍しいじゃん。なに、やなことでもあった?」
「……おはよう。ちょっと体調悪くて」
「はー。そんな顔色しながら学校来るなんて、真面目だね。無理しちゃ駄目だよ」

 カルマは「あ、おはよう。」と遅れて挨拶しながら、ローファーから上履きに履き替える。名前はなんとなくカルマを待ってしまって、先に行けば良かったと少し後悔していた。でも、共に歩き出してから、カルマが名前の歩くスピードに合わせている事を感じ、思い直す。彼女は、彼を器用で不器用な人、とこの時思ったのだった。
 2年D組の教室近くまでぺたぺた歩いて行くと、中が少し騒がしい事にふたりして気付く。カルマが扉をガラガラとスライドさせて先に入り、あとから名前が入ると、なまえが近くで気まずそうに立ちすくんでいた。それに不思議に思いながら後ろ手で扉を閉めると、いよいよ教室内の異変に気付く。なまえの反応と教室内のクラスメイトの雰囲気、そして着席している渚の周りに、不思議な隙間が出来ている。まるでそこに透明な分厚い壁でもあるかのように。嫌な感覚が胸に広がり、名前は咄嗟に挨拶も忘れて「何かあったの?」となまえに尋ねると、眉を下げて云いよどんでしまう。その反応にさらに嫌な感覚が胸にじわりと広がり、予感を覚える。痺れを切らして、名前は彼女の横を抜けて渚の元へ向かおうとした。その時、近くにいたクラスメイトたちが名前に声をかけたことにより、彼女の脚は止まった。

「渚ならE組行き決定したから、話しかけない方が良いよ」
「E組行きになったらこうなるって、わかってたはずなのにね」
「馬鹿の考える事ってわかんねーなぁ。あー怖い怖い」
「苗字、潮田と付き合ってたよね」

 もうやめとけば?
 語尾にカッコワライが付いていそうな声に、名前は冷静を装いながらも全ては抑えきれずに、チカラのこもった目で相手を見つめた。

(この人たちの云っている意味がわからない、何を云いたい?)

 それらを振り切り名前は透明な分厚い壁を抜け出し、渚の元へと走り寄った。正面から見る渚は机の上の一枚のプリントを伏し目がちに見つめたまま顔をあげない。いつもみたい、笑顔で挨拶をしてくれない。困惑する。何て声をかけたら良いのかわからない。しかし彼女は、わからずとも口は勝手に声を紡いでいた。

「渚くん」

 自分の名前を呼ぶ声にぴくりと反応した渚は変わらず顔をあげず返事をしないが、それでも反応があった事に名前は安心した。安心して、再び困る。次の言葉が浮かばないのだ。その事にさらに彼女は困惑する。今まで、渚に対してこうまで迷った事はあっただろうか。言葉が浮かばないなんて事、あっただろうか。ーーーーいや、なかった。そもそも、彼女がこの学校生活でこうまで悩んで迷った事自体、なかったのだ。名前は焦り、らしくなく声が小さくなるが渚に話しかける。

「私、今学校来たんだ。それで、そのプリントは、」
「僕、此処じゃなくなるんだ」

 彼の云う“此処”とは、D組の事。
 “此処じゃなくなる”とは、D組じゃなくなるという事。

 自分の声にかぶせるように渚が喋り出した事に少しうろたえるが、彼女は続ける。ひるんではいられなかった。

「うん、そうだね。でも、クラスが違っても何も変わらないでしょう?」

 名前はそうだと信じて疑わなかった。渚の机に両手をついてうつむき気味の彼の頭をじっと見つめる。しばらく動きを見せなかった渚が、ゆっくりと顔をあげる。上目遣いの目が光無く見えて名前は内心びくついた。こんな目で見られたのは初めてだったからだ。いつもの、彼の優しい眼差しはココには無い。蛇に睨まれた蛙ような、感覚だった。蛇の瞳の彼は、小さく口を開く。

「名前ちゃんは、それでも大丈夫なの?」
「……どういう、こと、」
「落ちこぼれの僕と一緒にいたら、名前ちゃんも同じ扱い、されるかもよ。それに、」

 こんな目で見られるのも、人がクチを挟む隙を与えないように喋る渚を見るのも、初めてだった。名前は混乱した。渚が何を云いたいのかまるでわからなかった。先程のクラスメイトと同じような事を云っているのはなんとなく察しがついたが、それでも真意がわからない。でも、ひとつだけ確信していることはあった。名前は、それを訊かないように、避けるように、今まで掌をついていた渚の机から、躰を離した。
 このままでは、このままでは、。

「もう、僕此処にはいられないから」

 名前と渚に興味をなくしたクラスメイトが話すガヤガヤ声の中、彼女には渚の小さな声が鮮明に聞こえた。

「だから、さよなら、しよう」

 何か云いたくても何も言葉を返せず、否定したくてもクチは開かず、ならばと怒りたくても怒りは湧かず、どうしたら良いかわからないまま、名前は拳を握りしめそのまま教室を走り出た。もともと体調が悪い中、遅刻して登校して来た彼女は体調が悪化する。しばらく走って、誰もいない廊下でチカラ尽きたように膝をつき、壁に寄りかかる。廊下も、壁も、冷たい。冷たい。

(冷たさが、痛い。)
(渚くんが、何をしたいのかわからない。)

 先程の彼の言葉を思い出す。

「落ちこぼれの僕と一緒にいたら、名前ちゃんも同じ扱い、されるかもよ。それに、」
「もう、僕此処にはいられないから」
「だから、さよなら、しよう」


 ひとつだけわかっている事がある。

「……ばいばい、だ。」

 名前は思う。何故こんなにも嫌なのだろう。別に、もう一生逢えないわけではない。もう話せないわけではない。わかっている。でも、何故だか、。

「すごく、いやだ」

 心身共に混沌とした名前は、そのまま帰宅した。担任にも許可を取らず、後々自宅に学校から電話がかかってくる。体調不良は先に伝えてあった事と、いつもの彼女らしくない行動もあいまってお咎めは無しになった。
 名前は混沌としたまま、憂鬱な冬休みを迎える。この冬休みの間、彼女はずっと考えた。

(渚くんは何で、あんな事云ったのだろう。私何か、してしまったのかな。だとしたら、謝りたい。でも、何も、わからない。わからないのに、わからないまま謝ったってそこに気持ちはこもっていない。本当の謝罪じゃない。そんな事、しては駄目。)
(誰かに対してこんなに考えた事、なかったなぁ。)

 夜とはいえまだ寝るには早い時間に、名前はベッドの上、布団の中で横になり、躰を丸めていた。目を瞑る。哀しいかな、楽しかったときの記憶ばかりが蘇る。そこで、渚から訊いた事を思い出す。なまえは、名前たちを羨ましいと云っていたらしい。何でも云い合える仲が、羨ましいと。

(御免ね、今、そんなことすら、出来てない。)

 冬の夜。布団の中。彼女は外の世界を拒絶する。考える。巡り巡る。だけど答えは“わからない”。

(掌が、寒いな。)



続く。
(2013.10.17)
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