「ねぇ、渚くんと付き合ってるんだよね?どこまでいったの?」

 大半の女子はいくつであっても、他人の色恋を知りたがる生き物である。
 名前がトイレで手を洗っているときのことだった。彼女がキュ、と高い音を鳴らして蛇口をひねり水を止めるのと、隣で手を洗い終わったクラスメイトが濡れた手で髪を整えながらそう訊いて来たのはほぼ同時だった。蛇口から手を離しながら声の方を向けば、ニヤニヤしながら名前の顔色の変化か返答を待っているクラスメイトと目が合う。はて、と少し首をかしげながら、質問された彼女はくわえていたタオル生地のハンカチで手の水分を吸収した。

「どこまでって、何が?」
「ちょっとぉ、隠さなくてもイイじゃん!今アタシしか居ないんだしさぁ、教えてよ!」

 教えてよ、の部分は声の大きさを落として囁くようにしていたが、大抵“自分にだけ教えてよ”で話した内容は、訊いた女子のグループ内で噂話のネタにされて気付いたら学年の女子の半分が知っているオチだと、名前はポケットにハンカチをしまいながら思った。しかしそのクラスメイトが知りたがっている話の内容には見当がつかず、「この間、動物公園行ったよ」と返す。すればニヤついていたクラスメイトの表情が見る見る無くなり、彼女の眉間にシワが寄っていった。

「え……いや、そうじゃなくてさ」
「兎が想像以上にもふもふで、あったかかくて、可愛かったよ。」
「ちょ、ちょっと!そうじゃないって云ってんじゃん!えーマジで?うそー、苗字さんって結構抜けてるー」

 話の核に辿り着かないまま、再び鏡を見ながら髪やメイクのチェックを始めたクラスメイトをジッと見つめながら、名前は動物公園でふれあった兎のあたたかさや感触を思い出していた。きちんと話を待っているテイを装う姿は崩さないまま。チェックの終わったらしいクラスメイトは、くるっと名前の方に振り返りながら人差し指をピッと立てる。爪は隅々まで磨かれていた。

「もう単刀直入に訊くね!キスとかしたの?ってこと!」

 目の前の人差し指をジッと見つめたあと、その指から奥の顔へと視線をズラし、クラスメイトのいかにも興味津津な瞳をさらに見つめる。見つめられた彼女は、妙にある名前の目力に一瞬たじろいだ。よくわからない圧迫感を感じ、合っている目を逸らして立てていた指も握り込んで意味もなく背後に回した。もう口笛でも吹こうかな、と突飛な考えが浮かんだときだった。

「まだ、だけど」

 それが何か、という言葉が続きそうなトーンでの返答に、クラスメイトはパッと再び名前と目を合わせた。獲物を捕らえた肉食動物のようだ。

「え!嘘!まだって、キスが!?」
「嘘じゃないよ。してないよ」
「えぇ〜付き合ってどれくらい?」
「……どれくらいだろ」
「記念日いつ?」
「記念日って?なにするの?」
「……」

 キラキラと輝いていたクラスメイトの瞳が信じられないとでも云っているような瞳に色が変化する。それから「普通、記念日とか気にするっしょ」と呟かれ、名前は首をかしげた。
 教室に戻ると、一度教室内を視界におさめた。そこで一番最初に目に入ったのは、なまえがスマートフォンをいじっている姿だった。その姿を認識するやいなや、真っ直ぐなまえの席に向かい、彼女がスマートフォンを机に置いて名前の存在に気付くと同時に、前の席の椅子を引き腰掛けた。椅子に横向きの状態で座り、上半身はなまえに向けるようにして机に腕を乗せる。ズイ、と前のめりになり、少し驚いている目の前の顔を見つめた。

「……名前ちゃん、どうしたの?」
「なまえちゃんと赤羽くんの記念日って、いつ?」
「え!?」

 突拍子もない質問だった。特に表情もなくなまえに質問を投げた本人は質問後も無表情で、一人驚くなまえは狼狽えている。彼女の驚いた声は大きかったが、数人のクラスメイトが振り返っただけですぐに持たれた興味はなくなったようだった。

「きっ、記念日?記念日って、何の……?」
「付き合い始めた日のことみたい。他にもいろいろ記念日を作ることもあるらしいけど、一般的には『付き合い始めた日』を指すらしいね。私興味無かったの。そこで、なまえちゃん達は記念日作ってるかなって気になって。なんか、記念日作ること、普通らしいから」

 名前がなまえの目を見つめたままそう云うと、なまえが目をふと逸らして考え出す素振りをした。目を伏せて、机の上で両手を包む彼女を、名前は見つめる。少しの沈黙のあと、なまえは少し微笑んで口を開く。声は明るめだった。

「記念日、御免、忘れちゃった。」

 なまえの赤い爪が、艶を持って蛍光灯の明かりを反射する。「力になれなくて御免ね」と云った彼女に対して名前は「ううん。」と返事し、ほんのりと笑った。同時に、昼休みが終わるチャイムが鳴った。



▽▲▽



 放課後、通常授業では未使用の空き教室で名前と渚は話をしていた。元々この教室の物と思われる机と椅子の他に、他の教室で不要となった机と椅子もまとめられているようで、教室の大きさに比べて妙に多いそれらは、全て教室の後ろに追いやられている。その中から椅子をふたつ引っ張り出して窓際に沿って横に並べ、そこでふたりは話していた。名前は自動販売機で購入した炭酸飲料を飲み込んでから、昼間のことを思い出す。同時に、口に出していた。

「渚くん、私たちお付き合いしてどれくらいだっけ」
「えっ、んー……2、3ヶ月……?」
「わからないよね。はっきりした期間とか」
「御免……」
「あ。違うの、今日訊かれたの。渚くんとどこまでいったの?付き合ってどれくらい?キスとかした?って」
「……え!?」
「あと記念日がなんとかって……。記念日って何するのかな。何かお祝いした方が、渚くんは楽しい?……どうしたの?」

 急に動きを止めて固まっていた渚は、声をかけられてからハッとして途端動き出す。その動きはどうにもぎこちなく。脚の間の椅子の板をギュッと握り締める。

「今日僕も訊かれたから……」
「記念日のこと?」
「あ、そっちじゃなくて、……ええと」
「キスとかのこと?」

 名前がそう云うと、渚は恥ずかしそうに笑ってひとつ頷いた。名前は、彼のそういう、自分が不利であったり劣勢な状態でも、目を逸らさないところがとても好きだった。今も、恥ずかしそうにしていながらも、誤魔化すようなことをせず彼女の目を見ている。
 夕陽が傾き、ふたりしか居ない教室が赤く染まっていく。壁に貼り付けてある何かのプリントが、開いている窓からの風ではためく。でも、教室のドアも窓も開いていて風も入って来ているのに、とても静かだ。まるで世界から隔離されているみたいだ、と名前は酔ったことを思った。

「渚くんは、したい?」

 彼女としては軽く訊いているつもりはなかったが、渚の方が重い出来事のように捉えている雰囲気だった為そう尋ねると、目を見開いてたいそう驚いた顔をする。

「!!」
「キスとか、したい?」

 そう投げかけ、名前が少しの意地悪のつもりでふたりの間の隙間を埋めるように彼の腿に手を乗せて体重をかけ、前のめりになり相手の目を覗き込む。渚の顔は、窓からの夕陽とは関係なく、だんだんと赤くなる。それでも目は逸らさない。こういうところが、つくづく、。そろそろやめておこうか。と名前が目を伏せて身を引こうとすると。

「……したいよ。」

 はた、として再び目線を上げると、頬は赤いが真剣な表情の渚がいた。夕陽の日没前の最後の叫びのような光に、彼の顔半分の影は濃くなり、真剣さと強さが増した気がした。変わって彼から見える名前の顔にも、彼とは逆の方に影が出来それは濃くなり、驚きと動揺が見て取れた。

「そっ、か」

 名前がドギマギして身を引こうとすると、渚の腿に置いた彼女の手が離れる前に彼は自分の手を上へと乗せる。彼女のぴくりとした小さなふるえを掌から感じ取った渚は、喉がふるえないように力を込めた。

「名前ちゃんは、」

 名前を呼ばれ、身動きを止めて渚の目を見つめる。見つめながら、いつもの彼と違う気がしていた。これは、良い変化のような気がしていた。

「名前ちゃんは、したい?」

 凄く勇気を出したのであろうことを彼女は自分の手がぎゅうと力強く握られたことで感じ取る。そこにまたドキリとして、ドギマギして、でも彼女の返事ははじめから決まっていたようなものなのだ。渚の手の上に、もう片方の手を乗せてキュ、と握る。

「私も、したいよ」

 ぶわ、強く吹き込んだ風にやっと音を感じる。名前は続けて「私は渚くんと何でもしたいよ」云おうとして、やめる。まだなんとなく、今ではないと思いたち、口を閉じる。それに、渚が意を決したような雰囲気を醸し出したから。
 両手を渚の腿の上に置いたことで身を乗り出したままの名前に、彼も少しそろりと近づいたのが見えたので、彼女は目を閉じる。世界からの隔離状態は解除される。その前に感じたくちびるに触れただけのキスは、とてもこそばかった。



続く。
(2013.8.7)
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