個人的には楽な生き方をしていた。世界は未だ狭くて、でも不満はなかった。退屈は少々。でも冒険はしない。気を張っているわけではなくて、それが自然のことだった。箱の中は、言うなれば色は無い。もしくは自己主張の強い原色が敷き詰められた場所。モノクロか、もしくは原色。その中で「イエス」と「ノー」を云わない。ずるいことらしいけど、周りは気づいてないようだから良いと思う。此処で毎日を過ごすのに、必要なことはそういうものだと思っていた。

 一年生の梅雨の時期の頃だった。やっとクラスメイトの顔と名前が一致してきた頃、名前はひとりの男子を良く目で追うようになっていた。その男子は、潮田渚。背はそんなに高くなく、髪は淡い水色。中性的な顔立ちで、初めて顔を見たときは男女どちらか一瞬わからなかった。それが、彼女の中の彼の印象。特に席が近いだとか、実は幼馴染だとか、そういった関わりは無い。このモノクロか原色しかない世界の中で、彼の淡い水色は、名前の中で綺麗に見えた。優しかった。だから彼女は、今はその印象しかない彼をもっと知りたいと思っていた。興味からの探究心で、彼女は渚に話しかけていた。

「ねぇ、潮田くん」

 渚は、机の中を漁っていた手をとめ、顔をあげて前を見る。自分の席の前に立つクラスメイトを見上げた。不思議そうな顔をして、その後すぐ眉尻を下げる。次に出る言葉がなんとなく想像のつく表情だった。

「あ、えっと……」
「苗字名前。潮田渚くん、だよね?合ってる?」
「合ってるよ。御免、まだ女子の方は把握しきれてなくて……同じクラスなのは、わかるんだけど」
「大丈夫、気にしないで。これから知っていって貰えたら、嬉しい」

 名前はにっこりと笑ってみせる。彼女は自身でも、何か含ませた云い方だなと思った。これは、渚のことを知りたい彼女の願いでもあったのだ。だから特に否定も云いかえもせず、笑った。
 その日から、名前は渚に良く声をかけるようになった。挨拶は勿論、移動教室の時などにも積極的に「一緒に行かない?」と誘うようになった。それからは渚からも声がかかるようになり、自然と行動をともにするようになった。周りは、噂をするようになる。学生にありがちな、とても単純な、内容。それを名前は、喜ばしく思った。
 そうして過ごして来たある日、彼女は決心するのだ。一年生、終業式の日。式もHRも終わった、誰も居ない冷えた廊下での事。

「潮田くん、噂知ってる?」
「あ……あの噂の、こと?」
「そう。潮田くんと私が付き合ってるって噂」
「知ってるよ。からかわれたよ。ずるいとか、なんとか」
「私もからかわれたよ。でもね、私、嬉しいんだ」

 渚は「えっ」と声を零して、足を止める。一歩・二歩と先を歩いた名前はくるりと振り返る。驚いたような表情の渚の目を真っ直ぐ見たまま、口を開いた。

「私ね、潮田くんが好きだよ。二年生になってもこうやって一緒にいたい。……って思った。どうかな?」

 真っ直ぐな言葉だった。渚の顔がだんだんと赤くなる。目を見開いて、見るからに衝撃を受けている彼だが、決して目を逸らすことはなかった。少し間をおいて、名前の前に手が差し出される。握手を求めるような、渚の手だった。

「僕も、一緒にいたいって、思った。」

 よろしく、と握手を交わす。そうして、静かにふたりで笑いあうのだった。


▼△▼


「握手って、外国だと挨拶の一種だと思うけど、私は相棒の誓いみたいだと思ったの。あの時なんで握手したの?」

 少し前のことを頭の中で振り返り急にそう零した名前は、弁当の中身のアスパラベーコンを口に放り込んで真向かいの渚を見た。学食には行かず、教室で昼食を食べるのは毎日のことである。渚は「えっ」と小さく驚いたあと、固まる。コンビニで購入したであろうおにぎりを今まさに口に含もうとしたところだった彼は、一度開けた口を閉じ、もにょもにょさせた。そして顔を斜め横に逸らしながら云う。

「あの時って、あの時のこと?あの、……。」
「私が渚くんに告白したとき」
「! う、うん。あー……、きっかけが欲しかった、からかな」
「きっかけ?」
「僕も、って言ったけど、なんか……押されっぱなしな気がしたから。僕からも、ちょっとはアクション起こさないと」

 渚は「あと身長が欲しい」と目を瞑って呟いた。

 放課後、教室で渚となまえと名前は下校前の休憩のように会話をしていた。窓の外からは部活動に励む声が硝子を通して聞こえてくる。それをBGMにして会話の内容に笑ったところで、なまえが「あ、御免ねちょっと……」とポケットをおさえた。どうぞ、とふたりが了承すると、なまえはスマートフォンを取り出しササッと確認する。すれば、彼女の表情が変化する。名前はそれを見逃さず、同じように口元がゆるんだ。

「メール、カルマくん?」

 渚がそう尋ねれば、なまえはスマートフォンをポケットにおさめなおし、席を立ちスクールバッグを肩にかけた。

「うん、授業のノートが欲しいって。御免、私行くね!」

 笑顔で駆け出し、教室のドア付近で最後に大きく手を振ったなまえを見送った渚はひとつ息をはいて目の前の人物を見る。

「……名前ちゃん?」
「あ、御免ね。なに?」
「いや、ぼーっとしてたから」
「んー。んーん。なんでもないよ。私たちも帰ろっか」
「? うん」

 まだ春半ばの、気温が安定している頃のこと。このときはまだ、世界も安定していると、思っていた。


続く。
(2013.7.18)
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