冬休みを家の中でのみすごそうとした名前は、三が日のうち1日は外へと足を運んだ。久しぶりの外は、やはり冬真っ只中という事もありとても冷える。厚手のコートにマフラーをぐるぐるに巻き、手袋を装着。腹と腰と足の裏には貼るホッカイロ。ぬかりはない。そんな完全防寒で、彼女は自宅から少し歩いた先の大きくない神社へと向かった。時間は朝陽がのぼるかのぼらないかくらいの、微妙な頃。染みる陽の光に目を細めて漂う冷気の中ノロノロと歩き、到着した神社には珍しく人っ子一人いなかった。三が日なのに?と彼女は少し狼狽えるが、一礼して赤い鳥居を抜け、お社まで続く石畳は真ん中ではなく端を歩く。お社に辿り着くと、ぼんやり、見上げた。じわじわと明るくなる視界に映る大きくないお社。中に何か居そう。

「…………」

 ポケットの中ずっと握りしめていた5円玉を、ゆっくり賽銭箱へと放り投げた。チャリーンと軽く高い音を立てて箱に落ちたのを見届けると、鈍く古い音を立てて鈴を鳴らす。ガランガラン。そうして、二礼二拍手・空白・一礼。空白の時、彼女は何を考えたか?

(……渚くん。)

 朝陽がようやく強めに射して、その光に当てられた彼女はどう見てもげっそりしていた。神社に降り注ぐ朝陽に今にも消え入りそうな彼女はそれでも、冷たい風が強めに吹いてもよろめきはしなかった。弱々しい風貌の彼女の瞳は、外見とは裏腹に、朝陽を反射して強く光っている。しかし。

「……あ。」

 うっかりひとりで声を出した彼女は、気が付いた。

(お清めの手洗いうがい、忘れてた)

 幸先は、不安ばっかりだ。

 名前は家に帰る前に神社でおみくじを引いた。無人だったがきちんと100円を支払い大きな筒を振る。(筒に振られているようにも見える。)筒の頭の小さい穴から勢い良く飛び出た竹串に2桁の数字が書かれているのを確認し、番号が書いてある紙が引き出しひとつずつに貼られている棚から自分の番号を見つけ、中から1枚紙を取り出す。出たおみくじは『吉』。正直微妙だと彼女は思ったが、勝負事の欄には「当たっていけ」と書かれてあった。待ち人の欄は読まなかった。

 自宅へ戻ると、彼女は朝食を作った。作ったと言っても前日の残りの味噌汁をあたため直し、白米には梅干しを乗せたものだ。ぼんやりしてたからか、味噌汁はあたため過ぎて濃くなった気がする。だが、意識をしゃっきりさせる良い辛さだとポジティブに考える事にした。テーブルに並べられた日本ながらの朝食を眺め、両の掌をあわせひとつ呟く。

「いただきます。」

 箸ですくうようにして掴み口に運んだ白米を数回噛んだ名前は、ほんのりと感動する。白米が甘い事を改めて確認したのだ。そこからはもりもりと白米を口に運び咀嚼する。濃い目の味噌汁も味わう。彼女がしっかりご飯を食べたのは久しぶりであった。
 朝食後部屋に戻り、気合を入れるように髪をしばり、机に向かい適当なノートを開いた。手近にあったシャープペンシルを手に取り、文字を書く。手が止まり首を捻って、文字を消す。文字を消す際はじめはきちんと消しゴムを使っていたが、次第に間違いとされるものは黒く塗りつぶされるようになった。ずっとその作業を繰り返す。そして気付けば昼を過ぎていて、下から母親が「お昼食べられるー?」と声をかける。名前は「食べる!」と久々に張った声を出して返事をした。ノートの見開きページは、文字と書き損じの塗り潰し跡で埋め尽くされ、真っ黒となっていた。



△▼△



 冬休み最終日の午後、天気は見事な晴れとなった。テレビでも、天気予報士は機嫌良さそうに微笑んで「本日は、終日晴れの予報となるでしょう」と言っていて、大当たりである。風も今のところ穏やかで、名前は電車の中から、外の民家の敷地に生えている木々を見つめ、枝が揺れているのを確認した。そうして心を落ち着かせようとしていた。彼女は緊張している。その心を表すように、電車内は人が少なくすいていて、座席は空いているのに彼女は座ろうとしない。ドアの横・角に縮こまるようにハマって、ドアの硝子部分の向こうを見つめ続ける。移り過ぎ行く景色を眺めながら、彼女は、とある場所に向かっていた。
 駅に着き、切符を自動改札に通そうとしたら、その台はICカード専用でもたついたり、数回来ている筈なのに出る出口を間違えたり、見るからに動揺している名前は正直一度家に帰りたくなっていた。でもそんな事をしている場合ではない事もわかっていた。間違えた出口からグルリと迂回し、道をズンズンと迷いなく歩いて行く。静かな住宅街。通り過ぎる家々の玄関には門松など正月を祝う飾り付けが並んでいたりするのだが、彼女は目もくれなかった。視界に入らないのだ。目的の場所は、ただひとつ。何の変哲もない一軒家の前で、やっと名前は立ち止まった。ガレージをチラリと見やると、車と、その脇にはマウンテンバイクがあるのを確認する。おそらく此処の住人……目的の人物は今、家の中に居る筈だ。深呼吸を2回、深くおこなう。目の前の一軒家を見上げた後、スピーカー付きのインターホンへと手を伸ばした。

 ーーーーピン、ポーン。

 ゆっくり押したインターホンの音が途切れた後すぐに、スピーカーから少しくぐもった声が聞こえた。その声は良く知っている人のもので、でもまだ良く話していた頃には訊いた事のない、特になんの感情も持ち合わせていないような、冷めた声に聞こえて。

「はい、どちら様ですか」

 それは訪問者が誰なのかわかっていてそうなのか、違うのか、一瞬では判断がつかずそれなのに少しばかり胸が痛んだ。でもここで怖気ずくつもりもなかった。彼女は顎を引いて、強めの声で返す。

「苗字です。」

 すればスピーカーの向こうの人は一瞬の間の後に「……えっ」と戸惑う声を漏らした。「ちょっ、と、待、」ぶつん、とスピーカーの通話が切られる。そのすぐ後に家の中からバタバタと走る音、ゴン!と重たいものにぶつかる音と「いてっ!」という声が聞こえた。それから乱暴に家のドアが開き、髪を結んでいない、パジャマにスニーカーをつっかけているだけの渚が現れた。名前は驚かれる反応は予想していたが、まさか髪を結んでいないパジャマ姿で登場とは思っておらず、目を見張る。それに渚が気付き顔を赤くして「……休みだから」と自分の格好にフォローを入れるが、やはり目はそらさなかった。その仕草に彼女は懐かしさを感じてしまった。
 渚が私服へと着替え、ふたりは近くの公園に訪れた。公園はそんなに広くなく、遊具も少ない。ベンチに座り、背もたれはあるが名前は寄りかからず背筋を伸ばした。ふたりに会話は無い。渚は気まずく思っているかもしれないが、それでも彼女は良いと思っていた。横目でチラリと人一人分あけて座る渚を見たら、彼は少し猫背で地面を真剣に見つめている。やはり気まずいようだ。名前は考える。何から、話そうか。隣の少年から空へと目を向ける。

「おみくじね、吉だったの」
「っえ?おみくじ?」
「だから私ここに来たの」
「……本当に?」
「……嘘。おみくじは後押し。本当は絶対に、渚くんに逢いに来るつもりだった」
「…………」

 空から目線を下ろし、真っ直ぐ前を向くと、公園の黒い柵の上を白い野良猫が悠々と歩いていた。のんびり歩く姿を目で追いつつ、黙って訊いている渚に向けて続ける。

「私ね、生きやすかったらなんでも良かったの。ただ毎日過ごせていたらなんでも良かったの。誰かが何か悪く云われてても注意も賛同もしなかった。でもね、渚くんに逢えてから、多分私変われた気がする。」
「……僕?」
「前が良かった悪かったって決めたいわけじゃなくて、私が変わった事を知って欲しい。渚くんの影響でね」
「僕……なにも……」

 首を横に振った渚に、名前ははふんわり笑って振り返った。こんな風に笑う彼女を、渚は初めて見た気がした。彼は驚いた表情で固まり、彼女を見つめる。名前は笑ったまま、云った。

「覚えててね。私、渚くんが好きだよ」

 名前はベンチから立ち上がり振り返る。先程の柔らかい微笑みとは裏腹に、真剣な表情で対峙する渚を見つめる。渚の戸惑った色をたたえる目を見つめる。

「渚くんがなんで、あんな事を云ったのか、今もはっきりわからない。でも、私が云える事はある。渚くんがE組行こうと関係ない。渚くんが言ったような同じ扱いをされても笑って返すよ。それくらいで君と離れようとするなんて、渚くんは私を甘く見てる」
「あ、あまく?」
「それでもなんだか責任を感じるというなら、別の形で返して」
「……?」
「なんでも、良い。下校の時は一緒に帰ってくれるのでも、誕生日を一緒に祝ってくれるのでも、なんでも。なんでも良いよ。なんでも良いけどね、私は渚くんとさよならするのだけは、嫌、なんだ」

 泣くつもりはなかった彼女は、声が詰まっても涙を見せることはなかった。ただ、瞳はふるえていた。握りこぶしを作り、握り込んで、堪えてみせる。
 わがままなのはわかっている。でも、あの子が云っていたような、なんでも云い合える仲というやつを取り戻したかった。名前は顔を俯かせ、目を伏せ瞑る。本当にただの独りよがりのわがままでしかなかった。人の気も知らないで、とはまさにこの事であると彼女は自己嫌悪に陥る。彼の気持ちをくんでいなかった。渚はいい人だから突然の訪問に怒りもせず着いて来てくれたが、ここまで気持ちを勝手に吐露されて、我慢の限界かもしれない。彼女は思う。だって何の反応もない。握り込んだ拳を、諦めるようにゆるりと解放した。

「僕、いつも名前ちゃんに先越されてばっかりだったから……だから、今回は、ちゃんと、やってみせたかったけど、失敗したみたいだ」
「……?」

 名前が顔をあげて渚の顔を見れば、彼は困ったように笑っていた。何処かすっきりしたような表情に、名前は胸が暖かくなる。

「出来れば、巻き込みたくなかったんだ。見るからに、E組ってだけであの扱いだから……だから名前ちゃんは、その、……」
「どうして?」
「え、っえ?」
「だって、私、あの時、クラス違っても何も変わらないって、」
「守りたかったんだ。って云ったらかっこつくかな。」

 えへへ、と笑って頭をかいた渚は、すっかり2学期最終日より前に元通りに見えた。意気込んで消沈しかけた名前は少しぽかんとしてしまう。ほうけた彼女に向かい、ベンチに座ったまま穏やかに彼は続ける。

「守りたかったんだ。どうしても、名前ちゃんが変わらないって云っても」
「…………」
「でも、守れてないのと一緒だったね」
「…………」
「だって、あんな顔させちゃったから、ね」

 あんな顔。名前がその言葉について考えている時、渚はあの2学期最終日の事を思い出しているようだった。表情を無くし遠くを見るようにしていた彼は、ふぅ、と一息つくと再び名前を見る。そうして穏やかに笑うと彼女に向かって両手を差し出す。

「なんで、守りたかったのか、わかる?」
「……え、ぁ」

 差し出された手に名前が手を重ねると、渚はその両手を掴んで少し引き寄せた。手袋をしていないふたりの手はお互い冷たかったが、体温を共有し次第にぬるくなっていく。合図をせずともふたりは見つめ合った。

「名前ちゃん」
「、うん」
「僕、名前ちゃんが好きだ。これからもこうやって……クラスは違うけど、一緒にいたい。……って思った。どうかな」

 渚は頬を赤くする。でも目は逸らさなかった。名前も逸らさない。彼女は笑った。手を握り返して。

「私も、一緒にいたいって思った。」

 あのときみたいだね、と額を合わせてふたりで笑った。

(掌が、あったかい。)

 ……。

 名前の部屋の机のノートには、渚の気持ちと自分の気持ちを整理し理解するために、渚の取った行動とそこから考えられる想像の理由や、彼女はどうしたら納得し行動出来るかの一覧など、蟻の巣の全体のような図に文字が所狭しと書きとめられていた。彼女なりの理解への努力だった。そのページは、空気の入れ替えの為に開けられた窓から入った風でめくられ、ノートは最終的に音もなく閉じられる事となった。

 ……。

 3学期の初日。気温は最高に冷えていて、マフラーをぐるぐるに巻き耳あてと手袋、風邪を再発させない為のマスク、外側から見えないが腹と腰にホッカイロを装着し登校した名前は、教室に入り自分の机に鞄を置くなりひとりの生徒に声をかけられた。

「ねぇ、ちゃんと潮田と別れた?」

 クラスメイトの男子が、さもそれが当たり前というように名前に尋ねると、近くにいた他のクラスメイトも笑顔でふたりを見やる。しかし名前が耳あてとマフラーを外し、マスクを顎に下ろしながら「なんで?」と答えると、相手は「はァ?」と訊き返した。周りのクラスメイトも同様の表情であった。

「潮田はE組だよ。お前同類になりてえの?」

 質問をして来た男子がそう口にすると、その言葉に名前はふきだした。渚に云った通り、笑ったのだ。相手は急に笑い出した彼女に怒りと共に何か恐怖めいたものを感じる。ここが笑うところではないからだ。名前が笑いながら、男子の目を見て云う。

「渚くんと同類かぁ。嬉しい。もっと云ってよ。渚くんと私が同じだって」

 彼女はにっこり、綺麗に笑ったのだった。

 その後のHRで、赤羽カルマがE組行きとなった事を訊かされ名前は内心驚いた。そしてなまえを見やる。彼女は心底驚いて固まっていた。それはそうだ。だって、。担任が出て行くと彼女も追って行ってしまった為、声をかけられず、その代わり渚にメールをした。

《赤羽くんがE組に行ったって本当?》

 本当も嘘も無いが、兎に角確認をしたかったのだ。返事はすぐに返ってきた。

《おはよう。本当だよ。でも今日は学校来てない。理由はケンカみたいだけど……》

 渚からの返事の、文始まりの挨拶を見て、自分が挨拶無しでメールを送っていた事に気付く。それほど驚いていたようだった。しかしもっと衝撃を受けていたなまえの様子が明らかにおかしく、声をかけられないまま一日が終わってしまう。名前は自分らしくないと思いながら、これは自分が踏み込んで良いものか考えあぐねていた。下校中、渚に相談を持ちかけてみる。

「なまえちゃんが、赤羽くんがE組に行った事を訊いて相当ショックだったみたいで。私、何か出来ないかって思いながら何も、思い付かなくて、どうしたら、……」

 すれば、渚は少し考えるように間を置いてから答えた。

「みょうじさん、僕らの何でも云い合える仲がうらやましいって云ってたって、名前ちゃんに前に云ったけど、今、そのチャンスかもしれないね。」
「……チャンス?」
「うん。だから待ってみるってどうかな。みょうじさんが名前ちゃんに相談するまで」

 月並みな事しか云えなくて御免、と云った渚に、名前は首を横に振った。それから安心させるかのように彼女の手を握った渚に、名前はその手を握り返して、微笑んだ。



少女のアイデンティティへの影響と、
少年との恋による変化について。
終。
(2014.1.22)
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