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カラン、と下駄が鳴く。
なんだか今日は暑かったので、ワンピース一枚に下駄で私は財布も携帯も持たずに、音楽機器だけ持って家を出た。耳の鼓膜を揺らす音は女性の声で、彼女は自分の声が最初は大嫌いだったと云う。ハスキーぽいその声が。しかし私は大好きだ。唯一無二の彼女のつくり出す歌詞も大好きだ。だから私は彼女だけを持って家を出た。
特にあてもなく歩く。カラコロカラコロ五月蝿い下駄。暑い風になびくワンピース。じんわり滲む汗。嗚呼、もうすぐ秋だと云うのに何故今更こんな、陽射し。
「(そうだ、海、)」
行こうか。
急に思い立って私は方向転換。向かい風から追い風になって先ほどより早足で歩く。耳の鼓膜を揺らす歌もテンポアップした。
カラ、ン。
一際大きな音を立てて私はテトラポットの上に立った。不安定な丸みのあるテトラポットの上。海風に躰が流されかけて「うわ、」と体勢を立て直す。両手を広げてバランスを取った。安定しかけたときまた風が真向かいに見える海から吹いたけど私はもう流されない。流されない代わりに、全身で風を感じた。海風。潮の香り。ちょっと海の上を飛んでるような気分になった。眼を瞑る。想像する。ずっと続く海の上を、それと躰を平行にして、風と同じ速さで、私は、飛んで、る。海面には鏡のように私が映る。あぁ私楽しそうだ。そんなに飛びたかった?楽しい?なら、良い、けど。
「十字架の真似?」
ドパン!という音がした。音がして、私は海水を頭の天辺から爪先まで被ってしまった。ああああああああああ鼓膜を揺らしてくれてた声が消えた。呆然と音楽機器を見ていると後ろ上から「ねぇ。」と声をかけられる。今はそれどころではないけど、くるりと上半身を後ろに振り返らせて目線だけ上に上げると、そこには一人、男の、人?(……子?)
「……うわ、大丈夫それ……」
「…………いや…」
「まぁ、だろうけど。貸してみ?」
なんで。そう思ったけど素直に機械を渡す為にテトラポットから男の子の居る堤防(防波堤?)に上る。ワンピースがやたら重たいけど何とか男の子に手を貸して貰いながら上りきり、機械を渡した。
「…………」
「……あの、もしかしてこれについて詳しい人かなにかですか?」
「いや?まぁ、パソコン系統には詳しいけど」
「……はぁ。」
私は首をかしげた。彼が何者なのかまるで想像が出来ない。少しは色々見えても良いだろうに。黒髪の黒縁眼鏡をかけた男の子。細目の腕。パソコンに詳しいってことは、インテリ系、かな。……学生さん?でも今日は平日で、普通ならば学校にいる筈。……開校記念日?すると男の子は急に私を見た。びくり、肩が震えた。
「寒くないわけ?そんなびしょびしょで」
「え……あぁ、まぁこう日光燦々だとあんまり寒くは……(不思議な疑問だなぁ)」
「…………まぁ、寒くないなら良いんだけどさ、他に気にすることあるんじゃないの?」
「?」
「それ。」
「…………は、あぁ」
私は胸にピッタリ張り付いたワンピースを指で摘まみあげた。ワンピースは濡れて透けて若干下着が見えていた。あぁ、海水がだんだんベタベタしてきた気がする。私は顔をしかめた。
「反応おかしくね?」
「……何がですか?」
「普通、恥ずかしがるんじゃないの?そんな下着透けてたら」
「(平然と、まぁこの子は。)あぁ……なんか、あんまり……」
「それ女としてどうなの……」
「あの……貴方私をいくつだと思ってるんですか?」
「え、高校生とかじゃないの?」
「…………」
喜ぶべきなのかな……。一応私は20代で事務員だったりするのですが。その旨を話すと彼はちょっとびっくりした顔をした。つり目がちだけど丸い眼が少し大きくなったのを眼鏡の奥に見る。
「へー!そう!あんた若いね」
「……そりゃあどうも。そういう貴方はいくつなんですか。私だけ年齢暴露は腑に落ちないです」
「俺?19」
「…………学生?」
「いや。一応警察」
「…………え?」
「…………いいよもう慣れてる。」
え、御免なさい。謝ると「いいって」と音楽機器を返された。わたわたそれを受け取ると19歳くん(今、命名)はくるりと躰の向きを変えて私に背を向けた。あれ、拗ねてしまった?
「あの、御免ね?」
「それ、ただ電池切れただけだよ。海水は運良く本体にはかかってないみたいだし」
「、へ?」
「そのイヤホンは使えないと思うから新しいの買った方がいいよ」
「あ、あの、」
「ねぇ今から暇?」
「、はい……?」
これから一緒に昼飯なんてどーですか?とか19歳くんは軽い敬語で私に云う。まだ彼は此方には振り向かない。代わりに眼鏡を外したらしい。新芽色のトップネックパーカーがゆるく海風にはためいた。彼の黒髪も遊ばれた。でも彼自身は微動だにしない。
私はなんとなく彼の後頭部から右手に視線を移動させて、外された眼鏡をじっと見た。そして1歩近づいてその眼鏡をするりと奪う。小さく驚いて振り返った彼に見せつけるようにその眼鏡をかけて、彼を見て、わらってみせた。
午前10時35分の話。
(ちょっとお昼には早いかも、よ。)
午前の光が、やけに眩しかったんだ。いつもならまだ眠くて苛々してる筈なのに、今日は目覚めが良くて。珍しく散歩なんてものをしてみたら意外と気分が良くて、へぇこんなものもあるのかと1つ学んだ。そして防波堤に登って歩いてみたら、一人の女を見つける。その人は何だか現実味があんまり無くて、太陽の光にそのまま消されてしまいそうに見えた。別に俺にはそんな、つもりは、なかったんだけど
「十字架の真似?」
消えないで欲しいとか、そんなんじゃないけど。声をかけてしまった。なんで?そんなの俺が知りたいから。
話せば、彼女は俺より歳上だった。複雑そうな顔してるからあんまり嬉しくはないらしい。女ってどうなの、若く見られたいもんなんじゃないの?そしてまぁ俺のことを話したらやっぱり信じては貰えなくて、別に悔しいとか面倒だとかは今回は思わなかった。なんで?それは多分これからわかって貰おうとか、不意に思ったからだと、思う。
そのあとその思ったことを実行する為に、慣れない敬語を今更使って昼飯に誘ってみた。さて彼女はどう出るか。そういや名前を訊いてない。まぁ、この誘いにOKを出してくれたときに訊けば、いっか。眼鏡を外しながらそう思った。
そして急に俺の眼鏡が右手から拐われて、振り替えれば彼女はわらった。それが「良いよ」ってことだって気付くのにそんなに時間は要らなかった。
つまり、名前を訊いて良いということ。
終。
(08.9.18)