【所有物】だと知らしめられる衝撃を、彼は知らなかった。そもそも、彼に感情はない、とされていた。彼はヒトではないから。
でも、それは少し、違ったようで。





トレスは街を哨戒していた。いつものように規則的なリズムで靴を鳴らして、着実に前へ前へ進んでいた。特に危険因子が見当たらなかったことは良いことで、彼は「異常無し、」と機械音を鳴らし再度確認。今日は、快晴だ。雲ひとつない、青い空。たぶんあの銀髪の眼鏡神父が居たら「いやーっ素晴らしいっ(裏声)」とかなんとか云ってるに違いない。とかトレスはまるで思ってはいなかった。ずんずんと前へ出していた脚を止め、彼はなんとなく空を仰いだ。


「…………鳥類動物、2羽、飛行を確認。」


ピピピピピ、とまた機械音を鳴らして呟く。その鳥は仲睦まじそうにヒュルリと遠くへ飛んで行った。彼はそれを見てまたキュイン、と機械音を鳴らした。

くるりと旋回してまた歩き出す。また規則的なリズムで靴を鳴らす。終始真顔の彼はそれから30分程して己が主君の居る舘へと帰した。時間を確かめて、そして主君、もとい自らの【持ち主】の元へと帰る。
ノックを2回。目の前のドアを軽く叩く。


「どうぞ」


ドアの中から、綺麗な音がした。いや、声がした。それを訊いてトレスはドアノブを回して中へと入る。そしていつも通り、哨戒の報告をする。つもりだった。いつもならこの部屋には彼の【持ち主】ミラノ公カテリーナ・スフォルツァ、彼女が居るだけ。の筈だった。

ドアより斜め右約大股5歩先。カテリーナの机の前。ひとりの、少女。


「あっ、トレス神父」


少し驚いた表情が彼女を少し実年齢よりも子どもに見せた。それでもトレスは記憶装置の中から迷わずに彼女を選び出した。1秒とかからずに。
彼女がこの教皇庁[ヴァチカン]の人間ではないのは彼女の服装が物語っている。シスター服ではなく、カッターシャツに黒いズボンに黒い腰巻きエプロン。


「……ミス・ナマエ・ミョウジ」


トレスは彼女の名前を呟いて、そのまま彼女を見た。そしてまたキュイン、と機械音を鳴らす。彼は少し、考える。
何を、考えたのか。


「神父トレス、丁度いいところに来ましたね。たった今ナマエが新しい珈琲豆と紅茶の葉を持ってきてくれたところですよ」
「あ、今回のはすべてオーナーさんが世話した新作なので、私は運んだだけというか……!」
「わざわざ、近くもないのにその脚で来てくれたのですから。……そうね、お茶でもいかが?一杯くらいなら仕事に支障はないでしょう?」
「ああああそんな!カテリーナ様とおおお茶だなんて!(恐れ多いおこがまし過ぎる!)」


ナマエは喫茶店の従業員で、丁度珈琲豆や紅茶の葉がきれるころにフラリと届けに来る。その量はもう半端な量ではないのだが、今回はオーナーの新作を試飲と称して届けに来たのだった。そんな彼女をカテリーナはなにやら気に入っているようで、終始微笑んでナマエをお茶に誘った。その一連をトレスはヒトリ黙って、見ていた。見て、いた。彼の視線の先の、先。それは、


「あら、ナマエ」
「は、はいっ?」


少しトーンダウンしたカテリーナの声にナマエはびくりと肩を震わせた。今まで嬉々として話しかけていたものとは違う、声色。ナマエはなにやら慌ててお腹の前で手を組んだ。トレスはスッと意識をカテリーナの声に集中させた。無意識、に。
カテリーナは、じっ……と何かを見ている。見つめている、の方が言葉が合っているかもしれない。少し目を細めて、穴が開くくらい。そしてカテリーナは口元に緩く曲げた人差し指を添えた。何か思考を巡らせているようだ。―――――静寂がこの一室を満たした。中の音はもう何もなくて、息をするのも躊躇われる。(ナマエのみの話。)もはや外の音が室内に侵入してきた。外で軽やかに鳴く鳥の声が右から左へと移動して、そしてまた静寂に戻る。ナマエは急な場の変化に半ば泣きそうになった。そしてナマエは一度視線をカテリーナの机に、彼女の綺麗な金色の髪に、また瞳に戻した。すると、カテリーナの目の鋭さが一気に緩み、人差し指の奥の艶やかな紅が弧を描いた。


「貴女、恋人がいるのね?」


そこで、トレスは自分が故障したのだと、思った。思って、いや思っただけでなにもしなかった。出来なかった、が正しいかもしれない。


「はっ……は、え、カテリーナさ、ま」
「そんな赤くならなくても……可愛らしくて結構なのだけれど」
「あ、いや!え、何でで、す、か」
「……恋人がいるとわかった理由ですか?」


カテリーナから見えるナマエの顔がますます赤みを増して、彼女は楽しくなった。まったく以て可愛らしい。彼女のツボにハマったようで、カテリーナの表情もますます明るくなった。しかしトレスは、たぶんきっとそれとは真逆の心境だった。心境、とはまた別かもしれない。だって彼はヒトではない。だがトレスは少しだけ、眼を伏せた。そしてきっと、考えた。あの街で鳥を見たときのように。ナマエの名前を呼んだときのように。

そして、カテリーナはトレスの思考に拍車をかけるかのように、今まで口元に添えていたその細く美しい人差し指を、ナマエに向けた。


「その、首の赤よ」





もう遅い、と云われた気がした。



「カカ、カテリーナさま!!!!」


そう慌てふためいて首の指差された先の辺りをぐわりと掴むように隠したナマエを、トレスは遠くを見るように見つめた。見つ、めた。彼の視線の先の、先。それは、恋人に所有物としての印を刻まれた彼女、ナマエの姿だった。




(この、意識を占領する、ものは、なんだ?)




終。
(08.6.24)

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