10数年前にデビューをしたバンドのファーストアルバムに入っている歌を口ずさんでいた。その歌は百獣の王がタイトルで、歌詞の中にもそれらしき描写は出て来る。歌詞は街にいる強い女たちに対するちょっとした考えと、その街で生きていてちょっと疲れてしまった人の溜息のように聴こえる。10数年前から都会の人は疲れていたのかしら、なんて首を傾げた。首の骨がポキッと鳴った。
 そんな歌を歌いながら、喫煙エリアに脚を運ぶ。自分も都会に生きる人間だったわ、と思い立って、じゃあ私この歌詞に出て来る雌ライオン?うわぁ!仔猫にされて可愛がられちゃう!とかひとりで百面相していたのは寝てないからである。いつもだったらこんな変なテンションになって警視庁内で足取り軽く歌なんか歌ってない。我が情報犯罪課の可愛い後輩ちゃんが、明日の会議までに必要な会議資料(モニターに映すデータ)をうっかりコピーしたと思い込んでゴミ箱にポイッとして削除してしまったのである。後輩ちゃんが青ざめた顔で私の元に報告しに来た時には私も青ざめた。えぇ。だってそれ言われたの昨日の午後19時頃でしたから。えぇ。私思いきり帰ろうとPC落としてましたから。とうとう泣き出した後輩ちゃんをなだめながら約1週間かけて作った会議資料を1日と少しで作り直さなければならない。しかし完全に元に戻すのは難しい事も確か。ゴミ箱で削除したものの復元がまず出来ないかを誰かに確認しながらも、手作業での完全復元ではなく会議が滞りなく進むような会議資料を作る事を頭に後輩ちゃんと一緒に作業を開始した。ゴミ箱で削除したデータの復元が出来ないかを帰りかけの匪口結也に訊いてみると、残業を嫌がりながらも確認だけしてくれた。「ゴミ箱を空にする、じゃなくて、完全に削除しちゃった?あー……なら、見込みないよ。まーでもやるだけやってみるか。俺は高いよ〜」と眼鏡を額から下ろしながらニヤニヤ笑った匪口結也の事はしばらく忘れないいろんな意味で。
 そして今、貫徹からの妙なハイテンションである。やっぱり匪口結也の云った通り、消したデータの復元は出来なかった。なので後輩ちゃんとふたり、会議資料をちくちくと、でもハイスピードで作っている。(データ復元不可能を確認した後、颯爽と逃げるように匪口結也は帰って行った。あいつ本当に忘れないからな。)只今夕方の17時20分。多分。もうね、腕時計の針が今何処を指してるのか自信が無い。1日の徹夜くらい、何ともないはずなのに今日はどうしちゃったんだか。ハタチを越えてしばらくしてから何だか、身体弱っちくなったなぁと溜息をつきそうになる。運動した方が良いかなぁ、どうかなぁ、ねえねえどうかなぁ???と心の中でもテンション高く自分に問いかけた。うざったかった。もうやらない。
 喫煙エリアには自動販売機が2つある。ひとつはペットボトルやら缶やらの自動販売機。もうひとつは紙コップの自動販売機。私は喫煙エリアに足を踏み入れてから止まる事なく紙コップの自動販売機前まで来て、既に掌に握っていてあたたかくなった小銭をチャリンチャリン投入して「うぇーい」と力なく声に出しながらホットのブラックコーヒーのボタンを親指で押した。ピッと音が鳴り少しの間の後に、カコンと紙コップが落ちた音が取り出し口の中からして、でもそこは中途半端に黒いプラスチックの扉があって良く見えない。そうして膝に手をついて中を細目で覗き込んでいるうちに飲み物が注がれる音がする。扉の中、見えるような見えないような。

「…………」

 私何やってるんだろう。休憩に来たのに休憩もしないで。考えて中を覗くのはやめて、左右の腰に手を当てた。そうして、ほんの少しの間のうちに何もしないのが嫌になって、またさっきの百獣の王の歌を歌う。きちんと歌い始めから。結構声が大きかったのか、後ろに人が居るなんて、まるで気付かなかった。

「何かのボスの歌?」
「…………こんにちは。笹塚さん」
「よ。すまん、触れない方が良かった?」

 笹塚さんが財布を手にこちらを見降ろしていようとは。徹夜の顔でうっかり睨んでいたのか「悪い」と謝られる。「あんまりハキハキ歌ってるから聴かれても良いもんかと」と後頭部をかいた彼は悪くない。決して。だから私は首を横に振った。

「いえ、気にしてません。どうでも良いです」
「それもどーなの。まぁ、良いか。……飲みもん出来上がってるみたいよ」
「あ。ほんとだ。ありがとございます」

 さっきまで覗き込んでいた自動販売機の扉を開けて、紙コップを慎重に取り出す。以前うっかり勢い良く取り出して中身をこぼした事があったからだ。徹夜明けでもそこには慎重になれた自分を褒めてやりたい。そうしているうちに笹塚さんは隣の自動販売機に小銭をチャリンチャリン入れていた。何買うのかな。紙コップを暖をとるように両手で持ってぼんやり眺めていると、笹塚さんはこちらの視線に気付いたのかボタンを押そうと浮かした手を中途半端にしたまま私と目を合わせた。
 冬色だと思う。目の前の人の瞳の色。笹塚さんは一緒に居て落ち着く気がする。きっと彼は二酸化炭素吸って酸素出してるんだと思う、とか絶対にあり得ないけどそう思えるほど笹塚さんは私にとって癒しであり、何だか特別な人である。
 本当にぼんやり眺めていると、笹塚さんは目線を下げて私の手の中の紙コップを見つめて云った。

「苗字さんブラックのコーヒー飲めたんだ」
「……飲めますよ。仮にも私成人してますし」
「……あー……。ブラックコーヒーに年齢関係あんの?」
「う、疑ってます?私ハタチ越えてますよ」
「いや疑っちゃいないけどさ。君の年は知ってるし、ブラックコーヒーの摂取に年齢は関係ないんじゃねーかな。さっきのはさ、」

 君はブラックより、ていうかコーヒーより、お茶って感じがする。
 そう笹塚さんは云って、浮かしたままだった手を動かして、人差し指で自動販売機のボタンを押した。ホットのブラックコーヒーだった。外装は缶である。ガッコン。買ったものが落ちて来た音がする。ゆっくりした動作でブラックコーヒーの缶を取り出し口から取り出して、一度上下逆さまにした。案外中身の沈殿とか気にするのね、と内心思っていると、カシュ、とタブを開けた。私も口を開く。

「笹塚さんは、コーヒーって感じですよね」
「確かにジュースとかのイメージ持たれてたら驚くな」
「あはは!でも笹塚さんに林檎ジュースって合いますよ!」
「……そりゃどーも。」

 私の徹夜明けテンションに引いたのかなんなのか、少し間をあけてから笹塚さんはそう云ってぐびりとコーヒーを飲む。そんな様も何だか私に落ち着きをくれるから、まじまじと見てしまう。喉仏の上下が、男らしいなぁ。私は紙コップに口をつけたまま飲まずにいた。あ、なんか鼻の頭に汗かきそう。すると彼は未だにコーヒーを飲まない私に気付いて「……飲まないの?」と訊く。彼は缶に口をつけたまま喋ったから少し声がくぐもっていた。

「あ、はい。飲みますよ」
「熱いだろ、気をつけな」
「そんなのねぇわかってますよーうぁち!」
「…………」

 静寂を生んだ笹塚さんの眼が「だから云わんこっちゃない」って云ってる、ような気がする。私は上唇の先に見事小さな火傷をして、上唇のちょっと上もちょっと火傷したと思う。ちょっとちょっととか云ってるけどジンジンしやがるので少し前屈みになってしまう。何だか恥ずかしくて目の前の人から目を逸らす。反射的に口から離した紙コップをすぐさま捨てたい衝動にかられる。いや、捨てないけど。コーヒーの熱さに驚いたのか、自然に出た涙そのままもう一度笹塚さんを見上げた。笹塚さんは、私を見ていた。目が、合った。
 笹塚さんはそのまま、コーヒーを持ってない手をゆっくり私に近付ける。私は成り行きを見守る。彼の手が私の唇に触れて、親指がそのカタチを撫でた。下と、それから上。上は火傷の箇所がピリッとして反射的に眼を瞑ったら、目尻に溜まっていた涙があふれて、頬をすべり落ちた。まるで笹塚さんに泣かされたような感じになってしまって、少し申し訳ない気持ちになる。

「……泣いてんの?」

 唇が痛くて。
 目を瞑っても、彼と私しかこの場にいないのだから、声の主はわかっている。何故か少し笑っているような声音で、それにカチーンと来たりして。目をあけて、反論しようとした。「そんなんじゃないです!」そう、云おうとした。でも私の口は声を出す事はなく。コーヒーの匂いがかすめて、唇に柔らかい感触とピリッとした小さな痛みに目をあけたら、私の思考は止まったのだ。
 あぁ、明日の会議資料、私この後作れるのかな。



ブラック味のくちびるから
(書:2008.1.4)
(直:2013.10.14)
もう二度と笹塚さんは書けないと思っていたので、手直しだとしても嬉しかったです。
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