「ねえ、すげー邪魔なんだけどさ」
「だろうね。だって私が此処に居たら結也家に入れないどころか鍵すら開けられないもんね」
「鍵は開けられるよ、名前の脚を跨げばね。」
「……させるかっ」
「あんた何がしたいんだよ」

そこで結也はたっぷりため息をついた。ため息をつきながら眼鏡を外して目頭を押さえる。あらあら、お疲れですか。じゃあ早く家に帰りたいよね帰ってベッドだかソファーだかにボスンとダイブしたいよねそうだよね毛布の波に呑まれたいよねぇ。……させるかっ。
私は結也の住まいの小綺麗なアパート、そして彼の部屋の玄関前に脚を投げ出して座り込んでいる。かれこれ2時間。たっぷり私の手足は冷えていた。今は冬。もうPM20:30。とっぷり日は暮れていた。空には星もない。これだから都会の空は……って何かのドキュメンタリーに出ていた田舎住まいのおばあちゃんが云ってた。都会の冬は痛い。寒いを通り越して、無機質なものばかりの冬は痛い。田舎の冬と都会の冬は違った。ちらりと、自分の背後にある部屋の主を見上げたら、結也の吐く息は白いけれど、私の吐く息は透明。それに気付いたとき何となく笑いが込み上げてきた。クツクツと静かに笑っていたら部屋の主は痺れを切らしたのか苛々した表情で私の投げ出して少し広げてある脚を跨いだ。頭上で多数ある鍵を選んでる音、それから鍵穴に鍵が刺さる音がした。あーあ。此処からどかなきゃいけない。ぼんやり項垂れていたら部屋の主がまたため息をついた。はーあ。

「……ねえ。」
「なに、云われなくても退くからちょっと先に結也が退いてくれるかな」
「違くて。名前、寒くないわけ?」
「……なんで。」
「……あがってけば?」

はあ?そんな、もし私が云われたらちょっと怯むような返事をしながら上を見上げたら、眉間に皺を寄せてでも怒ってはいなさそうな結也と眼が合った。なんだ、その顔は。首だけ下に向けてる結也は新芽色のトップネックに少し顔が埋もれてる。口元が見えなかった。

「いいの?」
「そんな、この気温なのに息も白くなくなるような躰の冷え方した人間を置き去りに出来る程鬼じゃないし、俺。」
「………………別にちょっと二酸化炭素の吐き出し方間違えただけだし」
「もう良いから早く入って。」

云いながら結也は無慈悲にドアを開けた。開けたことによって私の後頭部と背中は硬いドアにぶつかることになる。がんっ、と嫌な音がして、「いった!」叫んだら「近所迷惑だから静かにしてよ」こいついつからこんな子になったのでしょうか、神様。昔はそれはそれは可愛かった匪口結也19歳。眼がまあるいのに少しつってるからなんか可愛くて小学生のとき自分の服を着せて遊んだのをこっそり思い出した。私は後頭部をさすりながら背中を若干捩りながら無慈悲な少年・結也の脚の間から無理矢理退いた。退く際に彼の弁慶の泣き所をヤサシク叩いた。ヤサシク。
先程まで無人だったとはいえやっぱり屋内というのは外よりあたたかい、筈なのにこの家は私がおかしくなったのかと思うくらい寒かった。痛くはない。ただ寒い。田舎の冬みたいだ。しかし私はもう何かの限界点を超えたのか歯がガチガチ云って肩から指先にかけてガタガタ震えて膝はぐらぐら笑って全身ぶるぶるしていた。禁断症状みたい。笑い事じゃない。何かしらいろいろきていた。だんだん泣きそうになってくる。屋内に入れたことが結構、いやかなり嬉しかった、みたいだ。結也に何も連絡を入れず勿論彼は私が家の前で待ってるなんて知らないわけであの場所で約2時間。正直自分馬鹿なんじゃないかと思った。ああ、馬鹿だ。玄関から真っ直ぐ歩いた先にひらけた場所、リビングについた途端私はついに泣いた。ぼたぼたぼた。馬鹿みたい。

「ちょっと座って待っててよ。なんかつくるから……飲み……もの……何泣いてんの!?」
「べっ……別にちょっと涙腺の使い方間違えただけだし」
「……もう良いから早く座って。」

はーーあ。結也はたっぷりため息をついてから、おもむろに透明な硝子の背の低いリビングテーブルから箱ティッシュを取ると私に渡した。「要らない」と首を横に振ったら「馬鹿」と云って彼は自分のミリタリージャケットの袖で私の目元をぐりぐり拭った。痛い。痛いけど、別に嬉し、くなんか、ない。日本語ってなんだっけ。ぼんやりした頭でおかしなことを考えた。最後に頭をぽんぽんたたかれて、私はリビングテーブルの真ん前に大人しくへたり座る。泣いたらなんだかぼんやりしてしまった。まだ涙はとまらない。ずず、と鼻をすすったら「いい加減そのティッシュ使ってよ」と小さなキッチンからきこえてきた。本人の姿は見えないしチチチ……とコンロに火を点ける音がするのに私の鼻をすする音がきこえるとかどれだけ大きい音たてたんだ。仕方が無い。2枚真っ白いティッシュを取って、鼻をかむ。ずびー。女子としてどうなのかという音が出て今更恥ずかしくなった。相手はただの幼なじみなのに。今更。ティッシュが足りなくてもう一度かむ。ずびー。ずびー。……はあ。ため息が出た。
ゴミになったそれらを、背後にある家の主のいわゆる仕事場になるパソコン机の足元のゴミ箱に捨てながら、天井を見た。そういえば電気が点いてない。月明かりだけの部屋。ロマンチック?全然。だって私は鼻をすすってるし、相手はただの幼なじみだし、その幼なじみ今キッチンで何か作ってるし。なんとなく膝を抱える。体育座り。フローリングにお尻の骨があたって痛かった。

「やっぱりレンジだけにすりゃあ良かったよ」

急にキッチンから出てきた結也は空笑いしてリビングテーブルの上にコトンと真っ白いマグカップを置いた。湯気がもわもわとたつ。中を覗いたらそこも真っ白。ふわりと匂ったのは、

「牛乳?」
「えーっと、何だっけ、ホットミルク?」

驚いた。結也が、料理をした?(料理?)私の表情は今びっくりしている筈。ゆっくりと、真っ白いマグカップに手を持っていく。近づけただけで掌があたたかい。なんだそれ。ちょっとわらってしまった。

「俺が牛乳あっためただけで笑わないで欲しいんだけど」
「ちが、違うよ。なんか、あったかくて」
「……何が。」
「マグカップ」
「うそ、まだそれにあけてから時間経ってないよ。お前俺がレンジでチンしただけって思ってんの?」
「ちがっ、ちが、違うよなにそれ!そこまで疑うほど結也のこと知らなくないよ」
「知らなくないってめんどくさいな、云い方」

ふ、と笑った結也は、自分のマグカップもテーブルに置いて私の斜め前に座った。いつジャケットを脱いだのか新芽色のトップネックパーカーだけになってる。寒くないのか。そう訝しげに見ていたら、眼が合った。

「なに。」
「いやいやいや、何?俺の顔なんか付いてる?」
「……眼と鼻と口と眉毛と、」
「あーはいはいわかったわかった」
「……さ、寒くないのかと。」
「あー御免。ヒーターつけて良かったのに」

彼はその場から少し腰を上げて躰を左に伸ばしてヒーターに腕を伸ばす。かし、とビニールぽいボタンを押した。ピッと音がして、電源がついたと知らせる。私はあまりヒーターが好きじゃなかった。喉が痛くなるから。でも寒そうだし。この眼鏡の人。
眼鏡の人は躰を戻してからマグカップの持ち手に指を通して持ち上げると私を少し上目で見た。なんだその上目遣い。きもちわるい。

「もう泣き止んだ?」

すこし笑いながら云われたので、カチンと来たわけで。

「五月蝿いなあれはだから、涙腺の使い方間違えただけだし」
「使い方間違えるって何だよ」
「使い方間違えるってのは使い方を間違えるんだよ」
「まんまだな!ていうか違うだろ」
「違くないし」
「なんで、あんなことしたんだよ」
「どんなことだ」
「……連絡くらいすれば良かっただろ?そうしたらあんなところで待たせたりしなかったのに」
「……」
「なにか、あった?」

結也の眼が見られなくなった。私は結也の指先を見る。見つめる。彼の指先は少しカサカサしてそうだった。少しささくれもあるみたい。ちゃんとビタミン、摂りなさいファーストフードばっか、食べてるんでしょ。

「なんも。ないよ」
「いや、あった」
「ないよ」
「いーや、あったね」
「ないってば。しつっこいなあ。」
「それはあんたが嘘つくから。」
「嘘なんてついてない」
「もしかして彼氏様とサヨナラしたとか?」
「居ないっての最初から」
「……知ってるよ」

なんとなく、今探られた、気がした。胸の中がざわざわした。

「……知ってるんだ?」
「あぁ……うん。だって、名前的に云えば、名前のこと知らなくないし?」

ふ、と笑った結也は少し遠くを見てる気がした。薄暗い明かり。好きになれないヒーターからの温風を出すかさついた音。痛いフローリング。そんな世界の中で急に相手のことを遠くから見てる気分になった。同じ空間に居ないような。結也を少し違う角度から見てるような。手の中のマグカップをゆっくり持ち上げる。ミルクの匂い。カップの縁にくちびるを付ける。カップを傾ける。あぁ、本当にあたためただけの、砂糖も蜂蜜も入ってないホットミルク。わざわざあたためてくれた、ホットミルク。

こうやって、彼は小さな優しさをくれる。部屋にあげてもらう前の、私の躰の冷え具合だとかを察してくれたり、自分で拭こうとしない涙をぬぐってくれたり、牛乳をあたためてくれたり。全部、優しい。
でもそうじゃなくて、云って欲しい。私は云えそうに、ないので。なんて。私も大概意地っ張りです。



逢いたかっただけなんです。


終。
ひなさん、有難う御座いました!
(2010.3.13)
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