カミサマのいうとおり

ひとつの花を知らない場所の続きです。
※多少グロテスクな表現があります。
※性描写を匂わせる表現があります。




 ゆるやかに瞼を持ち上げる。ぼやけているが視界が明るいことがわかる。ゆったりとした風が頬を撫で通り過ぎるのを感じどんどんと意識が明確になっていく。どうやら審神者は、ソファーで身体を横にして寝ていたようだった。寝返りが出来ていなかったのか、身体が固まっているような感覚を覚える。ソファーに寝そべったまま伸びをし、パキポキと背中や肩の骨を鳴らした。すると何処からか「起きた?」と声がする。まだ上手く開ききらない目を何とかこじ開け、声のした元を首を動かして探すと「コーヒーでいいよね」とマグカップが視界に割り込んだ。これは彼女が良く知っているマグカップだ。何故かと云われたら、数年前まで毎日使っていたものだったから。しかし、審神者になると決めた日にほとんど私物は処分したはずなのに、何故残っている?そう疑問に思いながらも彼女はそのマグカップをお礼を云いながら受け取り、引っ込められていく手の持ち主を見上げた。その手の持ち主は、数年前に事故であの世へ旅立った恋人だった。目の前で、自身がよく使っていたマグカップを持って、部屋のフローリングにしっかりと足を付いて立っている……死んだ恋人が。そう認識したはずなのに、審神者はどうしてか驚かなかった。マグカップの中身をこぼさないようゆっくり身体を起こしながら生きて目の前にいる恋人を凝視すると「どうしたの」と可笑しそうに笑っている。────笑っている。恋人が、事故も何もなかったかのように、数年前まで毎日見ていたあの笑顔で、ただ笑っている。
 審神者は、マグカップを両手で包むように持ちながらそっと考えた。自分は今まで、何をしていた?寝る前にソファーに横になった記憶はない。しかし、つい先程までそのソファーでなかなかぐっすり眠っていたようだ。固まっていた身体がそう訴えている。時刻は窓の外の明るさからして夕方前だろうか。そういえば、夕餉の当番は……当番とはなんだろうか?当番制にするほど恋人と仕事終わりのタイミングは合わなかったはず。寝起きだからか頭が上手く回っておらず、脳の中心付近がグスグスとくすぶるように重たくなっているように感じる。そうしてとても、大事なことを忘れているような気がして。こめかみに指を当てて眉間にシワを寄せて考えても上手く思い出せない。

「ねぇ、────」

 沢山のことを確かめたくて恋人の名前を呼びかけた、そのとき。先程まで笑っていた恋人の顔が、ドロリと溶け落ちるのを見た。皮膚も目玉も髪も、顔の次は身体と、恋人を形成していたものすべてが溶けて重力に従い、ベージュ色のフローリングへと落ちていく。グヂャリと生々しい音を立てながら全てが溶け落ち、そうして現れたのは。良く知っている、何度か直で目にしている、いつも自分が束ねる刀の付喪神たちがその身で戦ってくれている相手。時間遡行軍1体がそこにはいた。いつの間にかマグカップを持っていた手では刀を持ち、烏帽子のようなものを被ったそいつはおそらく太刀だ。ギギギと聞こえる言葉の判別の付かない声、そして本来眼球があるべき場所や奴本体が赤い稲妻をまとって発光している。呆然と動けずにそれらを眺めていると、それは自らの刀をゆっくりと振り上げた。発光する赤が刃の動きに従っていくのを目で追う。ああそうか、自分を殺しに来たのか、わざわざ死んだ恋人に化けてまで。そこで、改めて理解する。
 やはり、あの人はもう生きてはいないのだ、と。

「そんなの、僕が斬ってあげるのにねえ」

 ズバンだかズドンだか、とにかく大きな音と振動を感じた。それと同時に彼女の目の前の時間遡行軍は袈裟斬りにされ、ビシャリと打ち付けるような血が真向かいにいた審神者の上半身を濡らした。反射的に一度閉じた目を開くと、目の前にいたものは斬られたところから燃え尽きた灰のように散り散りになって消えていく。するとその奥に、今の出来事には似つかわしくないミルクたっぷりの淡いミルクティーやカスタードクリームを彷彿とさせる色が見えた。その色を持つヒトを、彼女は知っている。

「髭切さん」

 呟くように名前を呼ぶと、空中に名残惜しそうに浮遊していた灰の残りを手で払った刀剣男士・髭切はにっこりと笑う。

「やぁ。……ありゃ、顔が真っ赤だねえ」
「あ……」
「どれどれ」
「い、いいです。顔洗うから……」
「待って。」

 全身を遠ざけようとした審神者の血濡れの顔を、髭切は両手で優しく包む。彼は親指で彼女の頬に付着した血をそっとなびった。髭切の掌や指もじっとり赤く染まっていく。

「ねぇ、良く訊いて。僕は今みたいなときも、君を守ってあげられるよ」
「…………」
「君を困らせるものは僕が全部斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬り捨ててあげる」

 ────だからね。




 そこでやっと息が吸えたような感覚だった。スイッチの切り替えのように、バチッと目を開けた審神者はしばらくそのまま動けない。布団に横になったまま、きつく握り締めていた手に気付く。指に巻き込まれている掛け布団が可哀想なくらいにしわしわになっているのは、見なくともわかっていた。誰もいないのはわかっているが、まるで誰にも気付かれてはならないように静かに深く息を吸い、肺が膨らんだのを感じたら慎重に長くはいていく。どうにも喉が痛み、額が熱いような冷たいような感覚を覚えて指を這わせると、汗が滲んでいるらしかった。
 ここ最近、審神者はほぼ毎日この夢を見る。ほぼ、というのは夢を覚えていない日があるからだ。しかし、寝起きの疲労度からして、おそらく同じ夢を見ていると彼女は推測していた。なんとなくだが、間違いない。いつも同じ、死んだ恋人にコーヒーを振る舞われ・話しかけようとすると溶け出し・時間遡行軍(太刀)に殺されそうになり・髭切が斬り殺し助けてくれる。毎回一寸の狂いも無くこの流れで、一語一句同じなまま。審神者自身も同じ言葉を発しており、夢のときは「また同じだ」とは思わない。起きた際に気付くのだ。こんなのはまるで呪いのようだ、と彼女は思う。いったい誰だ。

「悪趣味だ」

 恨み言のような声色で独り言をこぼしながら起き上がると、視界が歪む。身体が傾いて咄嗟に畳に片手をついた。両目を手で覆い、身体を丸め深呼吸をする。この夢を見るようになってから、体力の回復が出来ていないように感じていた。食欲もなく、とても疲れやすくなっている。それでも業務は溜まっていくため休んでいる暇がないのが審神者業だ。審神者は自身の身体に鞭を打つ気持ちで立ち上がろうとして、失敗した。上手く脚に力が入らないことに気付き、舌打ちしたい気持ちを抑え、仕方なくはいはいで縁側に続く障子まで近付いていく。どうしてこんなことに……と悲観的になりそうな気持ちをため息とともに吐き出し少し障子を開けば、外の冷えた空気が開けた隙間から滑り込んだ。頭が冴えるような、澄んだ冷たい空気。そういえば秋から藤に変えて、そこから冬の景趣にしていたのだった、と彼女は思い出す。見ているだけで冷たさを感じる青白い雪に痛いほど映える赤椿のこの景色が、審神者は心底お気に入りだった。ほんの少しの間だがじっと眺め、ほんのり微笑んだ彼女は、よしと腕・脚・背中と全身に力を入れる意識をして、障子にすがりながらなんとか立ち上がる。立ち上がれたところで確認するようにひとつ頷き、壁伝いに洗面所まで歩こうと考えた。何かに寄りかかりながらであれば歩けそうだとふんだのだ。顔でも洗えば少しはしゃっきりするかもしれない。それでも駄目ならとうとう薬研藤四郎の出番である。ずっと誤魔化して来たがそろそろ彼に怒られそうだということはわかっていた。(薬研藤四郎もある程度見逃してくれているのを審神者も気付いている。)
 のろのろと庭を眺め栄養補給しながら歩いていると、突然壁にぶつかった。進んだ先に壁などないはずだと視界を前に戻すと、そこには。
 一瞬、あの夢が審神者の視界を遮った。それは、袈裟斬りのあの瞬間。打ち付ける血飛沫の向こう側に見えた、ふわふわとした淡い色。

「やぁ、おはよう主」

 ガツン、と頭を殴られたような衝撃が走った。勿論本当に殴られてなどいない。頭が殴られたように視界がガクンとブレて、そんなことだから真っ直ぐ立っていられるわけもなく、彼女はそのまま後ろへとひっくり返った。その瞬間見えた髭切の顔は、珍しく驚いた表情をしていた、気がした。




 …………。

 少し遠くで、人が立っている。ここは何処だと審神者は辺りを見回すが何も無い。真っ白だ。そしてまっさらだ。足元を見て自分に影があることを確認し、彼女はホッとする。いよいよあの世に来てしまったかと内心焦っていたのだ。しかし影はあるが光源がわからない。何しろ上を見ても何も無いものだから。無機質な白の世界で、少し遠くにひとり、あとは審神者だけ。近付いて話しかけてみようとしたが、何故か歩けど歩けど辿り着かない。そもそも少しも近付けていないことに気が付いて、歩みを止め声をかけてみることにした。息を多めに吸い、声を張る。

「すみません!」

 すれば審神者に背を向けて立っている人は「何かな」と声を返す。あちらは振り返ってもいなければ声など張っていないようだがよくよく審神者の耳には聞こえてきた。

「此処は、何処でしょうか!気が付いたら此処にいて……」
「安心しなよ」
「え?」
「安心していいよ、此処は安全だから」
「……それは、どういう意味で……」

 恐る恐る返事をして審神者がひとつ瞬きをしたら、今まで話していた人が忽然と姿を消した。驚いて身を固くした瞬間、彼女の肩に優しく温度が乗った。今まででいちばん近くから、柔らかい声を訊く。

「僕が傍にいるのだから、安全に決まっているでしょう?」




 勢い良く振り返ろうとして────…………そこでやっと息が吸えたような感覚だった。スイッチの切り替えのように、バチッと目を開けた審神者はしばらくそのまま動けない。布団に横になったまま、きつく握り締めていた手に気付く…………そう、毎朝と同じことをしていた。しかしいつもと違うのは全身ジットリと汗をかいていること。朝はいつも額を湿らせる程度だ。こんなに全身サウナのあとのような汗は流してはいない。先程の夢は毎朝の夢より幾分か平和であった気がするが、しかし誰かもわからない人に背後を取られ肩に触れられたのだ。生命の危機は感じても仕方ないのかもしれない。まず呼吸を整えなくては、と大きく深く息を吸い、長くはきだしたところで、まさか室内に刀剣男士が控えていたとは審神者は全く気付いていなかった。

「怖い夢でも見たのかい?」

 飛び起きて声のした方を見やれば、そこには髭切が座椅子で背もたれに寄りかかり、脚を伸ばしくつろいでいた。白いカップまで手にしている。戦装束のままだが上着は邪魔だったのか近くで適当に畳まれており、完全に休憩中のように見えた。彼女がいる布団からさほど離れてもおらず、歩いて1歩の距離である。少しの微笑みを口元に乗せた彼はカップの中身を静かに口にする。

「ひ、髭切さん」
「うん」
「どうして、あれ、私朝起きて……?今何時だ……うぇ、頭がクラクラする」
「今は、えーっと君の時代の云い方をすると……?じゅうしちじ過ぎ、と云ったら良いのかな」
「17時!?しまった、えっ どうして」
「君、倒れたんだよ。その口ぶりだと覚えていないようだけど」
「た、たおれ……」

 存分にうろたえ額に掌を添えて記憶を辿ろうとしたところで、髭切が口を付けているカップに目が止まった審神者は「それ……」と無意識に声を発した。髭切は「これかい?」とカップをゆるりと持ち上げ微笑む。

「こーひーだよ。君に貰ってから妙に気になってしまったから、さっき厨にいた……ええっと……キヨタダ?に淹れてもらったんだ」
「清光かな。そっか。清光もコーヒー好きみたいで私や光忠さんに淹れ方訊いてたからね」
「豆を粉々にして薄い紙に入れてそれにお湯を通すんだねえ。見ていて面白かったよ」
「それじゃあ今度やり方教えるよ。私とか清光とかがいないときに飲みたくなっても作れるようになるし」
「それはいいや」

 思わぬ返事に小さく「えっ」とこぼした審神者をよそに、髭切は瞳を優しく柔らかくしながら話を進める。

「それよりも、主はまた隠し事をしているようだけど、どうなのかな?」
「……髭切さんって何も考えてない、なんてことはないと思ってるんだけど、躊躇いとかはないのかな」
「質問をしているのは僕だよ、主」

 瞳はきちんと微笑んでいるのに、言葉の強さからは小さな怒りを感じた審神者は、表情を真剣なものにした。布団に添えていた両手をギュッと握る。

「……そうだね、ごめん」
「むむ……僕、今感情的になっていたみたい、強い云い方をして悪かったよ。そうだ、僕もね、主に隠し事を始めてみたんだけど」
「そんな、冷やし中華始めましたみたいなノリで……」
「隠し事ってなかなか疲れるんだね、やってみてわかったよ。身体を動かしているわけじゃないのに、毎日こんなにも心身が重たくなる」
「……隠し事の種類にもよると思うけど……そうだね。ちょっと、……結構、疲れる」
「それじゃあ僕たち隠し事仲間だと思うから、仲良くなろう?」

 髭切はにっこりと花弁が広がるように笑い、持っていた白いカップを畳に置いた。まだ中身が残っているのかどうか審神者からは見えず、ひっくり返ったときの心配をしそうになったが、すぐに膝立ちして彼女へ身体を寄せた髭切によってそれは遮られてしまう。審神者が何かを云おうとする前に「しー……」と立てた人差し指を自らの唇の前にやり、彼女の声を奪う。反射的に髭切の指示に従ってしまった審神者へ「主はとってもいい子だね」とひそめた声で優しく褒めた。髭切は静かに審神者との距離を詰め、両膝を布団の上に乗せた。膝立ちのまま背中を丸め、彼女の腿があるあたりの布団に手を付き、顔を近付け瞳を覗く。審神者は息を飲んだ。瞳を覗き込んで来る相手に何故か緊張した。別段威圧的でもなく、彼から機嫌の悪さも感じられないのに、まるで目的が掴めずにどう対処したら良いのかわからないからだろうか。刀剣男士を束ねる立場の審神者であるのにどうしたこの体たらくは!と悔しさを感じ、いい子と褒められたはずの口を開いた。

「仲良くなってたと思ってたんだけど、髭切さんは不満だったってこと?」
「だって君、一度も嬉しそうにしなかったから」

 審神者は「なんのこと?」と口にしようとしたが、それは全て髭切によって飲み込まれてしまった。彼女の声は、髭切の唇によって全て塞がれてしまった。目を見開いた審神者は咄嗟に両手で彼の肩や胸を押そうとしたが、伸びてきた両手によって掴まれ押さえ込まれて終わってしまう。それでも尚、喉から唸り声でも出そうとしたが、審神者を見下ろし冷静な表情の髭切の舌が彼女の唇をひとつ舐めたことでピタリと止まった。さながら、鳴っていた目覚まし時計から電池でも抜いたかのように。秒針の音も聞こえなくなったようだ。唇を離した髭切が、しかし至近距離のまま再び審神者の瞳を覗く。至極楽しそうに。

「……生きているかい?」
「…………仲良くってこういうこと?」
「ついさっきまでは違ったんだけどね。君がなんにもわかっていないみたいだから、やりたかったことをやっちゃった。怒ってるような口ぶりだけど、怒ってる?」

 可愛げを見せるように首を傾げた男士を、審神者は睨み返そうとして、出来なかった。怒りが湧かないのだ。何の合図も許可も無しに口吸いをした相手に嫌悪も苛立ちもなく、ただそのままを理解していた。────はて、これは一体?
 そこで、審神者はひとつ思い当たってしまう。瞳が揺れて顎がピクリと震える。思わず髭切の黒いシャツに触れようとして、思いとどまった。そのまま顔をそむけ俯き、目を閉じる。何かを必死に思い返すように、眉間にシワが寄る。

「…………」
「……ありゃ、本当に怒っちゃった?困ったな」

 困ったと云いながらも審神者の頬にかかる髪を耳によけ、耳たぶを撫でる。今まで気が付かなかったが、審神者の耳たぶには小さな穴があいていた。髭切は、わざわざもう片方の耳たぶも確認する。両方の耳たぶに小さな穴がひとつずつあった。彼は自分の記憶を辿る。名前やどうでも良いと判断したことには無頓着だが、大事なことはなるべく覚えようとつとめてきたのだ。髭切の記憶の中では、審神者は一度も耳飾りをしていなかった。ということは、これは審神者になる前の彼女があけたものだ。思わず耳たぶを触る力が強くなる。

「──いッ」
「主、この耳たぶの小さい穴はいつの?」
「何……耳たぶの穴……ピアスホールのこと?それは、昔の……」
「ふぅん」

 自ら訊いたにも関わらず全く興味なさそうな声色で返事をした髭切は、そのまま審神者の耳たぶを軽く揉んだあとに身を屈ませ、それを口に含んだ。ギョッとした審神者を無視し彼女の両肩に手を置いて体重をかける。まだ貫通したままなのかもわからない小さなピアスホールにそっと犬歯を立てた。舌でねぶり、狙いを定められていることを確認した彼は上下の鋭い歯をそのまま思い切り噛み合わせた。
 音がしたかどうかは覚えていない。髭切はあまりに興奮していたようで、春の土の色をした彼の瞳は、爛々と輝いているようだった。ビクリと大きく震えたあとブルブルと全身を震わす審神者に、歯を噛み合わせた穴から溢れる血を吸ってから耳元で声をかけた。

「怒ってる?」

 すれば審神者は今までの劣勢が嘘のように、髭切のシャツの胸辺りを鷲掴んで彼の顔を自らの顔の目の前まで引き寄せた。額同士がゴリゴリとぶつかり、無理矢理にでも目線が合う。彼女は顔色は優れないが、額に青筋を立て、目は死んでおらず光を灯していた。

「うん、怒ってるよ」

 その答えに、質問をしていた彼は嬉しそうにこう返す。

「じゃあ、仲直りして欲しいな」




 ゆるゆると瞼を持ち上げる。眠っていたわけではない。審神者は少し疲れて目を閉じていただけだった。空気の肌寒さを感じあたたかさを求め掛け布団の中に潜ろうとして、枕と敷布に赤い色が散らばっているのを見つけた。もしかしたら掛け布団にも付いているかもしれない。洗うのが面倒だなと彼女はとりあえず横になったまま、その跡を指でなぞった。その赤い色の原因の傷を、傷を作った張本人(付喪神)は消毒液を含んだコットンで優しく挟む。審神者は何も着ていない肩をビクつかせ、痛みに耐えている。なかなかに滲みたのだ。彼女の後頭部を見ながら、髭切はにこにこ笑っている。

「痛かったねえ」
「そうだねえ。血が止まると何度も噛んでくれたもんねえ。きっとそこにあったピアスホール、もう使えないよ」
「えへへ」
「褒めてないよ」

 審神者が少し振り返りそう云うと、軽くボサついたままの頭で髭切は何も後ろめたさなど感じていない微笑んだ表情を顔面に貼り付けている。彼もまだ何も身につけていない。お互いに一糸まとわぬ姿、というやつだった。
 障子の向こうはもうとっぷり真っ暗のようだ。彼女が起きた時点で夕方頃。季節的にも夜になるのが早いのだ。髭切は事前に人(男士)避けをしていたのか、夕餉の声掛けはなかった。用意周到というかなんというか、と審神者が内心思っていると「そういえば」と髭切は何かに気付いたように口を開く。

「君の声に覇気が戻っている気がするのだけど、元気になった?」
「……今訊く?」
「今訊くよ」
「……まぁ、髭切さんとする前よりは」

 そう、審神者の体力はとても回復していた。まぐわったあとにも関わらず、今朝のような眩暈も重だるさもない、以前のような身の軽さを感じていた。それはそれでどうなのだろう、と彼女は苦笑いをしたくなる。
 何故回復したのだろうと考えを巡らせたが、おそらく刀剣男士から『チカラ』を貰ったようなものだろうと結論付けた。元は審神者が顕現した刀剣男士だ。深く触れ合うことで、霊力を分け与えられ、それに適応したのだと理解した。後日、よく話す審神者仲間にでも訊いてみようかと密かに決心した。

「うんうん、それなら今度から僕を呼ぶと良いよ。うん、そうしよう」
「……いや、それはちょっと……」
「どうして?あ、そういえば何故さっきは怒っていたの?」
「移り気ですか?……それも今訊くの……?」
「それも今訊くの。君は、必ず質問には答えてくれるから」

 ぎゅ、と耳たぶを挟んだコットンに力を加えた髭切に、審神者は正直「なんだコイツ」と思ったが、彼の方には振り返らずに真っ直ぐ視線の先にある外の暗い障子を見た。そうして考えて、逡巡する。
 赤が擦れて乾いて黒くなっている敷布を、夢を見た日の朝のように指に巻き込むように握りしめた。

「ここ最近、毎日夢を見るんだけど」
「うん」
「……前に話した恋仲だった人間が、出て来て……」
「へぇ」
「コーヒーをくれるの。いつものマグカップで。いつも私が使ってたマグカップ」
「優しいね」
「うん。で、コーヒーを貰って……話しかけようとして、名前を呼ぼうとしたら……と 溶けて、時間遡行軍の太刀に、なって」
「大変だ」
「そう、大変。そしたら髭切さんが現れて、きっ……斬って、助けてくれるんだけど……」「おぉ〜、僕大活躍だね」
「うん、ありがとう……」
「…………」
「…………」
「また、迷ってるの?」

 耳たぶから圧が消えたことで審神者が軽く振り返ると、後ろで全裸のままあぐらをかいて座っている髭切は彼女というより彼女の周囲を見ていた。目が合わない。

「……虫でも飛んでる?」
「あぁ、いやいや、気にしないで続きをどうぞ」
「…………」
「難しい顔をしているね」
「させてるのは髭切さんなんだけどね」
「云うようになったなぁ、いいねぇ」
「何がいいのかわからないな……」

 ほんの一瞬驚いたあと、クスクスと笑った髭切に首を傾げながらまた彼に後頭部を見せる。軽くため息をついて、遠くを見るように目を細めた。奥歯を噛み締めるようにして、そうして目を閉じる。
 口にしてしまえば、認めるような気がしていた。彼女は、もうずっと全てを認めたくなかった。しかし髭切の云ったように、すっかりなかなかに疲れてしまっている。握りしめていたくしゃくしゃの敷布をさらにギュウッと力を込めて、そうして一気に力をゆるめた。審神者の声は、何かを諦めたようだった。

「……毎日ずっと同じ内容で、流れも言葉もまるきり一緒。……一緒だったんだけど。ひとつ変わってきたことに、ついこの間起きてから気付いたんだ」
「…………」
「あの人の、顔が、見えなくなって来てるの。……笑ってるってことはわかる。今もすぐに思い出せる。……でも、毎日見てる夢では、どんどん……ッ」

 審神者がグッと喉を詰まらせたようになり、肩が上がったのを髭切は静かに見下ろす。審神者は何度も大きく息を吸って、ゆっくりはきだした。自分を落ち着かせているようだった。

「まるで薄情でしょ。あれから数年経ってるからって…………忘れてきてしまったみたいで」
「……それに怒っていたの?」
「……まぁ、そんなところ」
「んん?なんだかちょっと違う気がするけれど、でも主はそこは、怒らなくていいと思うよ」
「……何でか訊いてもいいかな」
「うん。だって」

 審神者は気を張っているように上げていた肩を後ろに勢い良く引き倒され、仰向けになった。驚いたまま正面を見ると、真顔の髭切が見下ろしている。おもむろに髭切はそのまま布団の上から彼女に跨り、首の横に腕をついて背中を丸め顔を近付ける。

「きっと僕のせいだから」
「……髭切さんの?どうして」

 ゆるりと、審神者の頬に触れる。あの日、つるりとした白いカップの表面にやったように、夢の中の彼が赤をなびったように、彼女の頬を確かめるように親指でひと撫でする。髭切の春の土の色の瞳は、愉快そうに爛々としている。

「僕は、主が見た夢のようなときも、守ってあげられるよ。君を困らせるものは僕が全部全部斬り捨ててあげる。そんなの、僕が斬ってあげる。だからね」

 ────あ。これは、夢の続きだ。
 この先を訊いてしまったら、もうあの人の顔は、夢では二度と見えなくなるだろうと、そしていずれ夢以外でも、想い出の中でもあの人の顔は想い出せなくなるだろうと、審神者は感じた。髭切の形の良い唇を掌で押さえなければと判断し、腕を持ち上げようとして、出来なかった。────しなかった。彼女はまた、自身への怒りを募らせる。
 彼女は、『あの人』しかいなかった場所へ髭切を許容していく自分が許せなかったのだ。

「僕が『あの人』を斬ってあげる。僕のモノになりなよ」

 そうやって、彼女の中でまた『あの人』は死んでしまった。




カミサマのいうとおり
(2021.2.14)
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