なれないこども

※渚先生



 渚先生は小さい。クラスメイトの悪そうな生徒より小さい。どうやら中学3年生で身長の成長が止まったらしい。本当はもっと伸びる予定だったそうで。なんならお金で身長を買いたかったと恥ずかしそうに云っていたのをこの間見てしまった。昔は髪も長かったから、女の子みたいだったらしい。今もさして男らしいかと云えばそうでもない……なんて本人の前ではとても云えない。
 渚先生はときどき、ときどき変。変というか、先生だけど、私の知ってる渚先生じゃなくなる。いつもの優しそうな、穏やかな空気の先生じゃなくなる。これをクラスメイトに云っても「そりゃ怒るときは違うでしょ」って、そうじゃない。そうじゃなくて、空気が。空気というか、雰囲気が。あぁうまく説明出来ない。なんて伝えたら良いのかわからない。でもきっと、絶対、あれはいつもの渚先生じゃない。あのときの渚先生は『いつもの渚先生』じゃない。

「きりーつ、れー」

 日直のやる気のなさそうな声で号令がかかる。ホームルームで今日も学校は終わる。担任の渚先生は少し微笑みながら「進路希望調査のプリントは今週までです。あとは……」といつも持ち歩いてる出席簿を眺めてる。ぼんやりと頬杖をつきながら渚先生を眺めてたら、バチッと目の前に火花が散った。────嘘だ。電気も通ってないのに火花なんか散るわけない。渚先生と目が合った。それがまるで火花が散ったように見えるくらい、予想してなかった。驚いた。私の頬は、萌え袖カーディガンを巻き込む掌から少し浮く。渚先生は、ほんの少しだけ固まったようにしたあと「あとは、何もなかったです。すみません。それでは今日はこれでおしまい!」と日直の人に号令をうながした。再びやる気のなさそうな日直の号令を訊いて、クラスメイトがみんなそれぞれの目的のために机から離れて、私は何も出来ないまままだ教卓を見続けて。
 あのとき渚先生は、何を思ったのだろう。凝視していた女子生徒に怖くなっただろうか。



 数日後、昼休みに廊下を歩いていたら後ろから名前を呼ばれた。生徒の話し声でガヤガヤする中で振り返ると、思わず1歩後ずさってしまう。「ごめん、驚かせたかな」と渚先生は眉尻を下げて謝罪する。私は咄嗟を首を振る。どうしてか声が出なかった。驚いたわけではなかったのに、声を出さずにそんなことをしたものだから先生は自分の云ったことは正解だったと勘違いして「突然ごめんね。」と少し首を傾げる。そういうところが男っぽさを減らしていると教えた方が良いかもしれない。でも私は再び首を振るだけだった。

「驚かせたところで申し訳ないけど、ちょっと一緒に来てもらって良いかな。ご飯はもう食べた?」
「……食べました。なにかありますか」
「進路希望調査についてなんだけど」
「……ごめんなさい。明日には出します」
「そっか。出せるなら良いんだけど、何か相談あるかなって」

 先生は、たぶん、進路についてを訊きたいんじゃない。それがわかって、私も匂わすようなことを含めて、口にする。

「……なりたかったものに、なれそうもなくて」
「……なりたかったものか。先生もね、君と同じくらいの頃、」
「先生は、」

 先生は、きっと心から私を心配してる。私の将来のことを考えて、私がなりたかったものについて話を訊いて、自分なりの答えを考えようとしてくれている。
 でも、今の私にそれは要らない。

「……渚先生は」

 先生が少し驚いたみたいに口をつぐんで、真剣な顔になる。目の色が澄んで、私に集中する。それは、自分の大事な生徒の話を真剣に訊こうとする姿で、本当にこの先生は優しくて真面目で、きっと素敵な先生なんだろう。そう、『先生』なんだ。

 この潮田渚は、私にとって『先生』だ。

 あの蛇みたいな雰囲気で、冷たい空気をまとった色した目の潮田渚が見えても、私にとっては『先生』で、あの潮田渚がなんなのか私は知ることが出来ないでいる。私はいつまでも潮田渚にとっては『生徒』で、どこまでも、この制服を着ている限り、きっとこの制服を脱いでも、ずっと、私は永遠に『先生』の大事な『生徒』だ。彼の朝の空の色の髪に安易に触れられる日は来ることがない。私では潮田渚の満点を取ることの出来る日は、ずっとずっと来ない。
 喉に力が入ってしまって、うっかりと声は震えていた。

「……渚先生、結婚するんですよね」

 今度こそ、とても驚いた先生の肩が揺れたのが見えた。なんで知ってるんだって顔をしているけれど、先週末、学校から帰る間際、訊いてしまったのだ。校庭と駐車場の間、スクーターのキーを回していた渚先生が別の先生に云われていたのを。「中学からお付き合いされてた方と……名前さんでしたっけ。婚約されたんですよね、おめでとうございます。」少し照れたような渚先生が、薄暮時の薄暗い視界でもハッキリと見えていた。だから。

「おめでとうございます」

 ちゃんと笑えていたかわからないけど、目を見て云えたことを、誰か、ちゃんと褒めてほしい。でも、目は口ほどに物を云うから、私の目は、どうだっただろうか。渚先生の目は、何色だっただろうか。



なれないこども
(2016.11.20)
BGM:地獄先生/相対性理論
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