そぞろな人をおむかえに。

※捏造満載です。



 最近、聴こえる音がある。おそらく、鈴の音。田舎のお土産屋さんにあるような、はたまた置いてある品物のお値段が高そうなお店にあるような。おそらく鈴の大きさは、そんなに大きくない。小さな小さな、鈴の音。
 それはいつでも聴こえてくる。授業中でも、入浴中でも、もしかしたら、寝ている時も。忘れた頃に、少し遠くの、方向も定まらないほどの大きさの音で「ちりん」とひとつだけ鳴るのだ。これだけ訊いたらホラーの類に聞こえるだろう。友人に話したら見事に怯えていた。でも、当事者の私からすると、そんなことはない。身震いのひとつもない。私はそれに恐怖していない。どうして?と訊かれたことがある。怖くないの?どうして?その返事は、すぐに出来なかった。何故だろうか、小さく首を傾けてみる。15秒たっぷり考えた私の答えはこうだった。

「懐かしい気がする、から。」

 瞬きをしたら、朝のホームルームが終わっていた。でも本当はそんなことはないらしかった。以前そのように口にしたら、先程の怯えていた友人に「それは寝てたんじゃないの?」と訝しがられてしまったからだ。寝ていた記憶はないけれど、寝ている時に記憶などないから私はおそらく寝ていたのかもしれない。周りは一限目の準備や友達とのおしゃべりで忙しい人たちでわいわいしている。一限目は、なんだったかな。教室の前方、入口付近の壁に貼ってある時間割に視線を向けようとして首を動かすと、人の横顔が視界に入った。そのまま流れでその顔に目を向けてしまう。その顔は、私の知らない人だった。教室の、もう一限目が始まる時間なのに、知らない人が教室の、私の席の近くにいる。右隣の列の、私よりひとつ前の席。自分は寝ぼけているのかもしれない。こんな綺麗な人がクラスメイトだとしたら、忘れるはずなどない。それくらい、この人は綺麗だった。ショートカットの黒髪は、わけられた前髪もサイドの髪もサラサラとしていて艶やかだ。その人は自分が凝視されていることに気付き、こちらに顔を向ける。スルリと、音にするならそれだった。 優しい手触りの布地が滑るように振り返る。ほぼ正面からの顔はさらに、さらに病的に儚く、綺麗な顔だった。突き飛ばしたらそのままスゥと消えてしまいそうなくらい儚げで。なんて、不躾かもしれないことを私が思っているなんて知らなそうに、ゆっくりその人は微笑んだ。

「一限目は数学らしいな」

 声をかけられてしまった。どうしよう、名前もわからない。 どうして何も思い出せないんだ。いよいよ自分の寝ぼけも重症だと青ざめていると、相手はふはっと軽快に笑った。軽くパニックになっていると、その人は「朝会、ぼうっとしてたろう」と、ニヤリと笑われる。私は「えっ」と小さく声を零す。その人はとうとうこちらに身体ごと向けてしまう。

「転入生だと、紹介されたんだが」
「……転入生?」
「あぁ、そうだ。覚えてないか?」
「…………すみません。覚えていません」
「おぉ、正直モンだな。」

 綺麗な人は、その見た目に反してクックッと大人の男の人のように笑う。声も低くて見た目の綺麗さとあいまって色気を感じる。その時私はどうしたら良いのかわからず、うっすらと笑ってみる。でもどうにもこうにもぎこちなくなった。こんなに自分は、対人スキルが低かっただろうか。どうしてかここ最近、思い出すのに時間がかかる。もやもやと考え事をしていたら、教室前方の扉から数学教師が入って来てしまった。慌てて机の中から、数学の教科書とノートを出す。あと筆箱を出さねば。違う、筆箱は鞄の中だった。小さく慌てながら準備をしていると、綺麗な人はあまり大きくない声で何かを云った。それは多分、彼の名前だ。それから彼は、前を向く。それもそうだ、もう授業が始まるのだから。

「薬研 藤四郎だ。」

 とても今更だが、綺麗な人は、男の人だとそこでやっと認識していた。気づくのが遅すぎるのは自負していた。でも、この人が綺麗なのが悪い、と責任転嫁した。







 図書室は私の癒しの場だ。ここに居られたらお腹が空くのを忘れてしまう。夏はクーラーで涼しく、冬はヒーターで暖かく、ゆったりしたソファがあり、たくさんの本がある。放課後はいつも此処に居る。学校が閉まるギリギリまで残り、司書の先生に声をかけられるまで本を読んだり、ぼうっとしたりしている。こういう時、いつも司書の先生に「高校生らしくない」と不思議がられるのだ。どこら辺がだろうと訊くと「高校生ってもっと、こう、箸が転がっても面白い時期でしょう」と困ったように笑われる。この比喩表現に関していつも不思議に思う。箸が転がって何が面白いのだろうか。それって箸が転がってるだけですよね。そう返したら、やっぱり困ったように笑われた。「それが貴方なのね。」と、肯定される。それだけは多分、良いことなのかもしれない。
 あの時先生が「高校生らしくない」という言葉で指したのは、図書室で本を読むだけの放課後のことではなかった気がする。と、なるとそれは私の行動や性格そのものということになるのかもしれない。高校生なのに、高校生らしくない。それは世間では、生意気なのかもしれない。見た目に反して大人ぶっているような。
 そこまで考えていたら、あの鈴の音がした。気のせいかもしれないけれど、今までより音が大きい気がして、そうしたら彼のことを思い出した。とても儚くて綺麗な、でも笑い方は大人の男の人のようにしっかりした雰囲気の、彼。名前も、たくましかった印象。窓の外が夕方を越えそうになって、うっすらと暗くなりそれが図書室内へと、風に吹かれてあおられたカーテンのようにこちらを覆い隠そうとしているから、心をはやし立てられてうっかりと、ついうっかりと声に出していた。

「薬研 藤四郎」

 うっかり人の名前を声に出すくらいに落ち着きなかったものだから、後ろから声をかけられるなんて思いもしなかった。

「呼んだか?」

 まさか、本人に。
 失敗がバレた子どものように肩をびくつかせてしまって、それを隠したくて逃げ場所を探したけれどそんなに都合は良くなかった。ゆっくりとぎっくりと振り向けば、あの綺麗な人が見下ろしている。声を訊いただけで逢って間もないこの人と判断がついてしまうなんて、私はこの人の綺麗さに相当当てられているのだろうか。何故か、素直に納得いかず、心の中で「解せぬ!」と地団駄を踏みたくなる。
 突然目の前で背中を向けられながら名前を呼ばれたというのに、彼は何故かニヤニヤとしていた。その笑い方は音にしたら卑しいのに、この人がやると少年味のある勝気さが見えた。儚げなのに勝気さも持ち合わせているとは、いやはや恐れ入った。意味がわからない。彼はニヤニヤしながら腕を組む。

「俺になにか用事か?」
「いえ、特には」
「そうか、そうか」

 うんうん、と頷いてから私の隣の椅子を静かに引き、なかなか豪快にどっかりと座ると、彼は机に頬杖をついてこちらを眺め出す。何がしたいのかわからず、持っていた本を閉じて思ったことをそのまま口にしようとして、ハタとなった。私はいつこの持っていた本を借りたんだろう。図書室に入ってから、いつ、どの本棚からこの本を引き抜いたんだろう。貸出カウンターを見やるが人はいない。いたとしても、訊けはしなかった。「私、いつこの本借りました?」なんて、そんなこと。そもそもこの本読んでいたっけ。この席に座って本を開いた記憶もないけど、無意識に、図書室に来たらやる行動を身体が勝手にやったのかもしれない。何分前に此処に来たのかも覚えていないけれど、おそらくそうだ。綺麗な人に後頭部を見せながら、カウンター奥の壁に設置された時計を見る。午後18時45分。学校が閉まるにはまだ時間はありそうだけれど、何時に閉まるのだっただろうか。

「最近、物忘れは激しくないか?」

 時計を見ていた顔を、彼の方に向けた。彼は静かに微笑んでいた。目を少し細めて、口角をゆるりと上げている。外は夕方を越えて、もう夜を迎えようとしている。冬の夕方を越えた空の一部の色をした瞳を、この綺麗な人は持っていた。

「物忘れ?」
「そうだ、物忘れ。気が付いたら違う場所にいるとか、時間が急に進んでいるとか、そういう」
「それは物忘れなの……?私がぼうっとしてるだけなんじゃ」
「もともとぼうっとしていることはあったようだが、それは忘れてるんだ。移動中の記憶とか、何かに取り組んでいた間の記憶とか」
「…………寝ていたわけじゃないの?」
「いいや。今日1日、あんたは居眠りはしてなかったぜ」

 そうなの?
 そう目で訴えたら、彼はにっこりと笑って肯定した。そうか、私は居眠りをしていなかったのか。じゃあ、今までの、瞬きをしたら授業が終わっていたりしていたのは。

「忘れちまってるんだ。」

 そうか、忘れてしまっていたのか。

「そうさ。様々なこと。大事なことも」

 大事なことを忘れてしまうのは悲しいことだ。出来れば思い出したいところで。

「お?それは本当か?思い出して後悔することはないか?」

 どうして?大事なことを忘れてしまうことの方が後悔してしまいそうだよ。忘れているから後悔すら出来ないだろうけど。

 そう、私は口にしたのかも、心の中で思ったのかも、もう思い出すことはないのかもしれない。
 机の上に寝かせたハードカバーの本のタイトルももうわからないけれど、表紙の上に乗せていた手の上に綺麗な人の手が置かれて、その手はとても冷たかった。冷えているというよりは、生きていないみたいだった。あるいは、生きているけれど、ヒトではないような、無機質の冷たさを感じた。私の重ねられた手の指の関節を撫でた彼の指は、ぎゅうと握りしめる、私の手を。彼の、冬の夕方を越えた空の瞳を見つめていたら、その目は深く微笑んだ。同時にあの鈴の音が鳴り始める。鈴の音はどんどんと、大きくなって速くなって、私の思考を呑み込んでいく。ああ、もう何も考えなくていいかもしれない。握られた手を引かれて、彼の肩に頬を寄せた。後頭部に優しく掌を添えられたようだった。先程までの彼と違って少年のような身体の彼は、こちらの耳に唇を寄せてそっと、そっと囁く。その声を訊いて、肌に触れて、思い出した。忘れていたこと。大事なこと。様々なこと。どうやら本当にたくさんのたくさんのことを忘れていたようだった。思い出した私はすべてを彼に委ねることにした。だって私はこの人にもうずっと前から魅入られていたのだ。どうして忘れていたのだろう。彼の背中に腕を回して、抱きしめる。すれば彼は私のうなじを指先で撫でたようだった。そうして、薬研は呟く。いっそう嬉しそうに。私の名前を。

「おかえり、おかえり、名前。」



そぞろな人をおむかえに。
(2016.5.5)
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