匪口さんまた19歳。企画

 世界が真っ逆さまになって、みんなコンクリートから足とかタイヤとか浮いちゃってそのまま、そのままヒューッと落っこちたら良いのに。そうしたら私も一緒に落っこちてしまいたい。青くもなくて綺麗でもない空に落っこちていってしまいたい。そうやって思いながらだいぶ乱暴に小銭を入れて買った飲み物は、自動販売機のシステムと重力にしたがってガシャコンと音を立てて落ちてきた。うっかり舌打ちしそうになった。こうなると全部が全部腹立たしくなってしまって仕方がない。この自動販売機は何も悪いことなんかしていないのに、各飲み物に設定されている価格と同等以上の金額を投入したら光るボタンを押したら、その飲み物が正しく落ちてくるシステムすらどうにもこうにも腹立たしい。眉間にシワがよる。もう二十歳も越えたわけだから眉間にチカラなんぞ入れたらシワが残ってしまうことに恐れおののかないといけないのかもしれないけれど、もうそんなことどうでもいいし考えたくもない。とにかく、全部、自分の周りに起こること全部が感情を逆撫でする。大人なのに。もう社会人なのに。でも、そんな大人の社会人でも、どうにもこうにも簡単なことにも些細なことにも一昨日の私が見たらクダラナイと思うようなことにも、本当に、どうしても、腹立たしくなってしまうことがあるのだ。もしかしたら私はまだ、子どもなのかもしれない。自分が満足しないと泣きわめく子どもなのかもしれない。なんだかもうそれで良い。はいはい私は子どもですスーツを着ている子どもですどうもすみません申し訳ございませんごめんなさいごめんなさいはいはいごめんなさい。ごめんなさいね。
 掌に爪が食い込むのを感じて、気付けば拳の骨の出っ張りが白くなるくらいチカラを込めて握り込んでいることに気が付いた。ゆっくりゆっくりチカラを抜いて掌を開いてみれば、爪の先と皮膚がパリパリと剥がれる感触がした。握り込み過ぎて、開こうとすると関節が痛い。それでもジワジワと開ききれば、あらあら、血は滲んでいないけれど、チェシャ猫の口みたいな痕がイチニィサンシ、赤青く生まれていた。なぁーにやってるんだろ。と思って、うっかりひとりで笑いかけたときだった。

「なぁーにやってんの」

 ガシャ、と音がした。そちらに振り向こうとして、頬が冷たくなった。驚いて反射的に手で振り払って、そのまま見やると「あ。」と声をこぼした人と目が合った。その人はそのまま何か目で追うように横を見やって、カァンと音がする。音がした方では、私が買った缶コーヒーが休憩室の床に転がっていて。一気にいろんなことが起こって固まってしまう。すれば、先程目が合った人がその缶コーヒーを軽い動作で拾って、自前の緑色の服の腹あたりで拭うのを見る。缶コーヒーは別に、へこんではいないようだった。

「そんなに驚くと思わなかった。ごめん」

 眼鏡の奥の目が伏し目がちに缶コーヒーを見ている。彼は、先程買ったまま放ったらかしにしていたそれを自動販売機から取り出して、私の頬にあてがったらしかった。それに驚いて、手で振り払ってしまったときに手の甲が当たって、彼は缶コーヒーを取り落とした。その缶が落ちたとき、カァンと高い音を立てたらしかった。伏し目がちだった目がこちらを見る。丸いつり目の、黒目。私は目をそらした。

「なに、元気ないね。」
「別に。……こっちこそ、ごめん。手、打っちゃった」
「んー、いや。たいしたことない。それよりコレ飲まないの?間違えて買った?」
「……欲しいならあげる。」
「え……いや、俺今はブラックコーヒーの気分じゃないんだよね」
「じゃあ捨てといて」
「…………」

 意味不明な発言に、彼は、匪口は呆れただろうか。匪口とは課が違う。ここ最近はあまり逢っていなかった気がする。そんな、久しぶりに逢った年下の少年に私はなんて無礼を働いているのだろう。これはただの八つ当たりだ。手をはたいて、たった今買って放ったらかしにしたコーヒーを捨てておいて、とか。もういっそ呆れてその缶コーヒーは捨てて何処かに行って欲しかった。ひとりにして欲しかった。匪口には何も罪はないしただの被害者だけれど、その緑色のトップスは今は私の目には鮮やかすぎて目障りでしかない。舌打ちを我慢する。ついため息がこぼれそうになって飲み込んで、彼が持ったままの缶コーヒーを受け取ろうとしたとき。匪口の口元が笑った。

「今、全世界の男が憎い?」

 喉が詰まった。息が止まった。休憩室の空調の音が、良く聞こえる。自動販売機からする電気の通った音とあいまって、妙に大きく感じる。先程までこんなに静かなところにいたのかと思うと、少し怖くなる。そんな静かなところで、目の前にいる細身の少年は眼鏡のレンズを光らせて、奥の瞳は見せないまま口を開く。

「俺、訊いちゃったんだよね。昨日の夜、あんた此処で電話してたでしょ。誰もいないと思ってた?あぁ、安心してよ。いたのは俺だけだから。」

 匪口は少しうつむいて、何をするのかと思えばクツクツと笑った。笑いながら、持っていた缶コーヒーをこちらに見せるように持ちかえる。缶の上部分を5本指で持つようにして、少し揺らした。

「めずらしいよね、あんたがあんなに声低くして。でもやっぱり、どんなにむかついてても怒鳴ったりしないんだね。……怒鳴ることも出来なかった?そりゃーそっか、はらわた煮えくり返ってますって感じだったよなーあの感じ。何があったの?あーもしかして……」

 何がそんなに面白いのだろう、匪口はずっと笑った口元のまま、首をかしげて云った。

「付き合ってた人にポイ捨てされた?」

 ブワッと体温が上がる感覚に眩暈がした。握りしめた右手を左手で包み込んでチカラを込めたら、右手の甲に爪を立てていた。食い込んだ爪は痛みなんかどうでも良いほどにどんどんと肌に沈んでいくようで。匪口の目が見られなくなってから何処を見ているのかわからないけれど、空中に漂うホコリを探すみたいに空気の真ん中を見つめたまま、きっと瞳が震えてる。目の端も震えてる。
 黙ってしまうと、彼が云った内容を肯定してしまう事になる。なのに、もう何も云えなくなっていた。気力が無かった。どうでもよかった。匪口になんと思われようと、長く寄り添っていた人に、自分都合な理由で別れを告げられた憐れな女だとか思われていたとしても、どうでもよかった。
 意識をこの休憩室から遠くに飛ばしていると、眼鏡の少年は楽しそうに提案した。

「俺と契約しようよ」

 意識の上澄みでなんとか訊きとったその言葉に、私は目の前の少年を見る。彼はまだ成人をむかえていない。大人のたたかれてたたかれて磨かれた強さはないけれど、それでも何か底の見えない、大きなチカラを感じる。おそらくこれは。

「今日から、俺の云うこと全部訊いてよ。そしたらそいつの復讐手伝ってあげるし、成功させてあげる。」

 映画みたいな、悪魔の契約だ。

「どう?」

 そいつに仕返ししたくない?

 そうきこえたのは、匪口の声か、自分の心の声かわからなかったけど、彼がこちらに差し出した缶コーヒーを、そっと受け取ろうとした。差し出した右手で缶コーヒーを受け取ったとき、匪口は空いた手で私の左手を取った。そうして、持ち上げた左手の、薬指を口に含んだ彼はゆっくりと噛む。ゆっくりと、少し痛いくらいの強さで何度も噛んだあと、彼の口から引き抜かれた私の薬指の付け根と第二関節の真ん中あたりには、赤い歯型痕が指の丸みにそって残っていた。しばらくしたら、その赤に紫が混じるのだろう。その生々しい痕をひとつ舐めた彼は、満足そうに云った。

「これで契約成立だね」



鬱血した薬指
(2015.9.22)
匪口結也さんってば、また「19歳」。
毎度明るくないお話だけど祝ってます。
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