階級昇進

「ほっといてよ」

 たぶん彼は本当に私の事が鬱陶しくて、本当に目障りで、自分のことを放っておいてと云っている。ここからでは見えないけれど、前髪で隠れた黒色の瞳はおそらく嫌悪感でいっぱいだろう。
 図書室の片隅で、体育座りしたクラスメイトを見つけたときにはなかなか驚いた。おざなりに見回りしていたらきっと見落としていただろう。彼の髪色は明るいけれど、梅雨の時期の電気の消えた図書室は、見通しも悪いし視界の色相はくすんでいる。そして、このクラスメイトの周りに見える色もくすんでいて、彼を隠すみたいにけぶっていた。
 私は、少し人より目の“良い”図書委員だ。そろそろ学校も閉まる時間の為、最後の仕事をしていた。あとはざっとした見回りと施錠だけ、のはずだった。彼・菊地原士郎を見つけるまでは。
 外は、音も出ないような細やかな霧雨が降っている。時間のわからない明るさの窓の外を一瞥してから、足元の菊地原を見る。すっかり彼の顔は腕の中に埋れていて、明るい茶色の髪が溢れて腕にそって流れている。

「いつまでいるの。」

 くぐもった彼の声が耳に届いて、少しハッとした。いつの間にか菊地原を観察していたことに気づいて、口元がむずむずとしてしまう。返事、しなければ。

「いつまでって、私は図書委員で、此処の鍵を預かっていて、そろそろ学校おしまいだから施錠、するの。最後に見回りしてたら、君がいたの」
「ぼくが邪魔って云いたいならハッキリ云えば」
「邪魔ってほどむかついてないよ。どうしたんだろうとは思ってる」
「うそばっか」
「えぇ……」

 残念そうな声になったと思う、今の私の声。そうしたら菊地原はスンと鼻を鳴らした。泣いてはいないだろうけど、少し意気込むような雰囲気を感じ取る。彼の周りの色がうごめいて、こちらを刺すようなにぶい赤い色になる。これは、攻撃される。刃物とかそういうものじゃなく、意識的なもの。例えば、そう。

「お前みたいなやつ、すごく、きらいだ」

 鋭利な言葉で。

「なんにも考えてないように見えて、実際は他人を見下してるんだろ。それが今はぼくだ」

 菊地原の声は、くぐもっていて、でも強みがあった。私を強く刺そうとする意識。外の雨脚とは真逆の速さで、私を打ちのめす。
 たぶん彼は本当に“なんにも考えてないように見えて、実際は他人を見下してる”ような人が嫌いなのだろう。彼の周りの色が、まざまざと物語っている。嫌悪感を表したようなどす黒さと先程のにぶい赤が混ざって、菊地原の周りをぐるりぐるりと回っている。そんな感情で目の前の私を対象に言葉で打ちのめすのだ。言葉は武器だと思う。人を簡単に傷つけたり喜ばせたり出来るのだから。菊地原は、それをわかっているのかな。

「早く帰って欲しければそう云えば良いだろ」
「菊地原っておっちょこちょい?」
「……ハァ?」

 打ちのめされた私はゆっくりと笑う。片眉をねじりあげた菊地原が顔を上げたとき、私はもう先程の位置にはいなかった。彼の前に両の膝を着いて、座っていた。それに菊地原は少し驚いていたみたいだった。多分、気付かなかったのだろう、私が移動していたことに。音を感知出来なかったのかもしれない。でも、こちらは別にそっと動いたりしていたわけではない。菊地原が、自分の考えに夢中になっていたのかはわからないけど、なんにしたって、なんだって良い。菊地原が私に驚いていることが、とても嬉しい。
 両腕をゆったり持ち上げて、菊地原の両耳を髪の上から覆うように押さえる。耳を押さえられたのは彼なのに、私の耳も押さえられたように何も聴こえなくなる。菊地原は戸惑ってる。彼の周りの色が、いろんな色が混じりあって渦巻いて、音なんかしないけどどよめいて。

「菊地原、心の声も聴こえたら良いのにね」

 彼の目を見つめる。彼の黒目は戸惑ってゆれて、困っているようだった。

「私の心の声はね、君が思うよりだいぶ穏やかだよ。確認してよ。そうしたらちゃんと答えるのに。決めつけちゃって、もったいない」
「なに、云ってるの」
「菊地原」
「…………」
「さっきより私のこと好き?」

 私なりのいちばんの笑顔で訊いてみた。
 訊かれた彼は困っていた眉を少し落ち着かせて、1度目線を下げる。心も徐々に落ち着いたのだろう、周りのどよめいていた色が動きを緩やかにした。色味も落ち着いて、まだけぶっているけれど、淡い色が現れる。彼らしいと思う。少し皮肉で素直じゃないくらいが、この人なのだと。目線を上げて目を合わせた菊地原が薄いくちびるを震わせた。

「……さっきよりは、嫌いじゃない」

 それはそれは、上等だ。



階級昇進
(2015.9.4)
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