気がすむまでこわくして
※年齢が高校生ではないです。ハンドクリームを塗った手がしっとりしたことにとても満足していた。風呂上がり、キャミソールにカーディガン、ショートパンツにルームソックスというシンプルな格好で、ソファーに座って、今日買ったばかりのハンドクリームを開けていた。香りは、ジャスミンピーチティーと容器の後ろ面に小さく書いてある。また、ハンドクリームでありネイルクリームでもあると明記されている。便利だ、そして良い香りである。手もしっとりしたし、爪も艶めいている。ああ、大満足!私はとても、たったの今まで上機嫌であった。なのに、この男はどうしたことか、いつもと違ってなにやら行動がおかしかった。いつも無口な前髪の長い彼が、鼻をすんすんさせながらコチラに近づいて来たことがはじまりだった。彼・青八木一が、トイレから出て来て居間に足を踏み入れた瞬間に立ち止まり、動かなくなる。少ししてコチラに歩み寄って来て、鼻をすんすんさせていることに気がついた。気づいたときには、青八木はコチラを真っ直ぐ見つめていて。そう、ガン見である。その様子に少しビクついた私はすぐさま「どうした」と訪ねたけれど、青八木は何も答えずにドンドン近づいて来る。裸足でフローリングをペタペタしながら。ガン見しながらドンドン近づいて来る様が少し怖く思えて、ソファーから立ち上がって近づく青八木から距離を置こうとして、失敗する。まず尻がソファーから浮く前に、青八木の到着が早かったのだ。私の目の前まで来た彼は、どっしりコチラを見下ろしたあと、顔をスイと近づける。首のあたりに無遠慮に顔を寄せてすんすんと鼻を鳴らしたあと、首を傾げる動作をしたことを察した。そのあとは胸のあたり、脇腹と、「ちょっとやめて!」と叫ぶ程度に身体を嗅がれて最終的には手が出てしまった。青八木の頭をバシッとはたくと、その手をガシッと掴まれてしまう。はたくのはマズかったかとうろたえた瞬間、その手の掌にもすんすんされる。したらば、青八木の表情が変わった。表すならば、こうだ。
「!」
これだ!と云いたげな顔に、私は嗅がれた掌を押し付ける。ブギャンと顔を押し潰された青八木は怒ることもなく、あろうことかその掌をひとつ舐めたのだった。さらにビクついた私は掌を遠ざけようとしてまた捕まる。手首を握られていたまま逃れることは出来ないようだった。とうとう私は、彼に吠える。
「あお、青八木……!何さっきから……!何で舐めた!」
「いい匂いがする」
「だからって、犬みたいに匂い辿って、まさか舐めるとか……!」
「美味いかと、思って。でも、不味かった……」
「そんなに残念そうにしないで。……ハンドクリームだよ。今日買ってきたの。」
「…………」
「? 青八木も塗りたいの?」
「…………」
首を横に振る青八木は、再びコチラをジッと見つめる。握った手首はそのまま、またしてもスイとコチラに顔を寄せる。寄せた顔は、先程鼻をすんすんさせていた首筋へと向かう。私は咄嗟に身を引いた。後ろには行けないから、青八木の顔から離れるように横へとズレる形で。
「ちょっと……!ねえ、何、何かするなら云ってよ……!」
「……?」
「どうして?じゃないよ!……ちょっとだけ、怖いんだよ」
合わせていた目を逸らして云ったら、青八木は一瞬止まった雰囲気を出して、でもそれは本当に一瞬で、今さっきの私のお願いはまるで無視で、無言のままズイズイ身体を近づけて来るのだから、この男は、なかなか話が通じないのだと思った。ほんの少し青八木のことが嫌になった瞬間、彼は口を開く。声はやっぱり、大きくない。なのに、部屋が静かだからか、良く耳に届くのだ。
「怖くない」
は、となり、もう目の前の彼を見る。目が艶めいている。猫のような目は、コチラを真っ直ぐと見ている。再び身体を寄せた青八木は、私をソファーへとゆっくり押し倒す。ソファーに横たわった私の身体の上に乗った彼は、天井のライトのせいで顔に影を作りながらも威圧感を出さずにコチラを見下ろしながら、また小さく呟く。
「怖くない。何故なら、俺はこれから怖いことをしない。怖がらせたいわけじゃない。」
「……青八木が怖がらせたいわけじゃなくても、」
「あったかい匂いがした」
「……?」
「さっき、首元から。掌と違う匂い」
俺は、それが好き。
青八木は目を微笑ませて頭をかがめると、首筋をまたすんすんとしてから、ひとつキスをした。あったかい匂いとは、それは風呂上がりだからだろう、と云おうとして口を開く前に、居間の扉が開いてさらに、「たーだいま、……おー。お楽しみ中に遭遇ってコレかー」と手嶋が帰って来て、私はもう考えることを放棄したくなった。
気がすむまでこわくして
(2015.3.14)
「純太、お楽しみ中じゃない。いい匂いを確かめてた」
「…………」
「名前〜、生きてる?」
title:深爪