目醒めるあの日。

 教室でいつも、つい見てしまう人がいる。ベージュ色の髪が顔の半分を覆っちゃうような形をしてる、 出席番号が前の方のクラスメイト。とても無口で、友達らしい手嶋くんとくらいしかちゃんと話してるところを見たことがない。だいたいは、頷くか、首を振るか。あとは雰囲気。そんな彼と、あるちょっとした事件のときだけ、ちゃんと話したことがある。それは、梅雨のある日のこと。

 部活で夜遅くなって、あたりはもう雨も降り出してスッカリ真っ暗なのに、下校途中携帯電話を教室に忘れたことに気付いた私は引き返して学校に戻ることになった。消灯された校内や些細な音にびくつきながら歩いていたけど、とうとう耐えきれなくなり走り出す。そうしたら、階段をかけ上がって廊下に走り出た瞬間、視界がぐるんと回ってしまった。転んだのだ。 上履きの裏が滑り止めになってることに過信していたのだ。 窓の開いていたところから、外で降っていた雨が中に入り込んで廊下の床を濡らしていたようだった。のっそり起き上がって自分を見れば、ブラウスの前が濡れて廊下の汚れを移していた。この分だとスカートもイってる気がするけど暗くてよく見えない。とりあえず教室へ、ともはや走る気力をなくした私はのろのろと自分の教室へと足を進めた。教室へ入り自分の机の中に手を突っ込んで、すぐに見つけた携帯電話のライトを起動して制服のスカートへ当てれば、やや汚れているもののそんなに目立ってはいなかった。問題はブラウス。もう帰るだけだし良いかな……でも電車がな……。そうモヤモヤ考えていたら、教室の後ろのロッカーにジャージを入れっぱなしにしていたのを思い出した。それを着て帰れば良いんだ!名案だ!とすぐさまロッカーからジャージを取り出し、スカートを脱ぎ、ワイシャツのボタンを外しきったところで、誰が教室のドアが開くなんて思うだろうか。時間はもう下校時間を過ぎていたのだ。バッと開いたドアの方を見やると、そこには呆然とした表情の、無口なクラスメイトの男子が立っていた。教室の電気はつけていなかった。先生に見つかると面倒だと思ったからだ。だからこちらからは窓の外の街灯や月明かりのおかげで相手の顔が良く見えるけど、彼からはこちらの顔や姿は逆光で見えてないだろう。見えてないと思う。見えてないで欲しかった。心から。そうやって一瞬の現実逃避をした私はとりあえず前を閉じてしゃがみこんだ。なんせ下はスカートを脱いで下着だったからだ。どうして今日に限ってスパッツ履かなかったんだ!とかそんなことは今はどうでも、良くないけど、さて、どうしようか。とりあえずしゃがんだまま机の上のジャージを手探りで探していたら、手の甲に布が降ってきた。いや、これは、。

「…………」
「…………ズボン、落ちてた、から……」

 そろりと見上げたら、目が合った瞬間しっかりうつむいた彼が、私のジャージのズボンを、手探りしていた手の甲にそっと乗せているところだった。うつむいた彼が今どんな表情なのかわからず、もしかしたら笑われているのか、それとも呆れているのか、はたまたなんとも思ってないけど、今の私の現状を先程見てしまったために気を遣ってくれているのか……なんと返事をして良いやら迷ってしまった。

「あり、がと」
「…………」

 お礼は云うべきだろうとお礼を口にしたら、彼はパッと顔をあげて、でもすぐさまうつむく。やっぱり、さっき見ちゃったようだ。うつむく瞬間の彼の顔が赤かったように見えたから。目に良くないものを見せてしまった。申し訳ない気持ちになりつつ、そろそろと下を履き、さて上は、と再び手探りで机の上を漁ろうとしたところで、少し遠くから音がした。机から顔を覗かせて音の先を見やれば、彼が彼のらしき机の中を覗きこんで漁っていた。私と同じく、何か忘れ物をしたようだった。しかし、今ならチャンスだ、とワイシャツを脱いでジャージの上に腕を通す。いつもは、自分にとっては体操着の上に着るものだったから何だか妙な感覚だ。背中やお腹に少し硬い生地が触れるのは、むずがゆい。そう腹あたりを撫でながら思っていたら、突然肩をポンとたたかれて全身でびくついてしまった。驚きすぎて声も出ずに反射的に逃げそうになって傍らの机に身体ごと激突したら「ぁ、待って!」と呼び止められる。動きを止めた瞬間に手首を掴まれて引かれた方に振り返れば、彼がたいそう慌てた顔でしゃがみこんでいた。

「……ごめん、驚かせた」
「……いや、私こそごめん」
「?」
「一瞬君がいたこと忘れてた」
「…………」
「……え、と。何か、どうした?」

 掴まれてる手首を見てから彼を見れば、少しハッとした様子で、でも手首は離さなかった。目線を下げた彼の顔の半分ほどはやっぱり髪で隠れていた。それでも見える片目が真剣味を帯びたのはひと目でわかって、私は口を閉じる。いつも無口なクラスメイトの発言をジッと待つ。

「……帰り、危ないから……暗くて」
「…………」
「……送ってく」
「え。」
「駅、まで」

 ぎゅう、と握り締められた手首が、まざまざと現実で、その場で固まった私は、目の前の彼の目を見つめる。

「……いや、でも、確か君は自転車、」
「だから駅、まで、だ」

 目が、彼の目が「絶対」と云っていた。私は、そろりと、コクリと、いつもの目の前の人のように黙って頷くだけだった。

 それが、無口なクラスメイトの、青八木くんとの、初めてちゃんと会話した日の出来事である。もうすっかり懐かしい心地である。あのとき以降は一度も、青八木くんとは会話らしい会話をしていない。初めてちゃんと訊いた声は、思ったより高かった。青八木くんの声を思い出してちょっと口角が上がる。なんだか胸の中がくすぐったくなり、途端に恥ずかしくなり、今まで座っていた自分の席から立ち上がって歩き出す。トイレにでも行って気持ち切り替えよう。そう思って教室から出ようとしたら、目の前に真っ白のワイシャツが、どアップに映った。そのまま、激突。音にすればボスンと云いそうな勢いだった。

「おっ、と悪い!大丈夫か?」
「ご、め、ごめん!……!」
「……あーーー。苗字さんだ」
「え」

 私が勢いよくぶつかったのは、隣のクラスの手嶋くんで。その手嶋くんとはそんなに話したことがなく。なのに、彼は私の名前を呼んだ。え、なんで。そう顔に出てたのだろう。手嶋くんが急にニッコリ笑って口を開いた。

「青八木から訊いたんだよ。君の名前、苗字さんだって」
「あお、あ、お、え?」
「あ、勝手に話題にして悪かったよ。でも悪いようには云ってないから安心して」
「???」
「そもそもなんで話題にあがってるかって?そーれはちょっと云えないなぁ〜〜〜!」
「!?」
「純太」

 静かに大パニックに陥っていたら、背後から声がした。この声、知ってる。さっき、まさに思い出していた声で。緊張して振り返れずにいると、肩をポンとたたかれる。あのときと同じ方の肩だ。今度は手首を握られずとも振り返る。今日も顔半分ほどが髪で隠れている、青八木くん。

「…………」
「…………」

 青八木くんは私の肩をたたいたけれど何も喋らない。目も合わせない。私の後ろでは手嶋くんがニヤニヤしてる気がする。見えてないからわからないけど。そうやって適当なことを思っていたら、予鈴が鳴った。逃げていいかな、と顔をそむけたら、後ろから「青八木がさ、」と手嶋くんが私を逃がさない。焦る私を知ってか知らずか、先程青八木くんがたたいた肩をポンとたたく。たたかれた方に振り返ろうとして、振り返ることが出来なかった。だって、何か、頬にめり込んでる。多分、手嶋くんの指先。

「青八木が、苗字さんの連絡先知りたいって」
「…………え?」
「ん?青八木が君の連絡先を、」
「や、うん。えっ、あの……」
「青八木と苗字さんって口下手なとこ似てるよなぁ〜。なぁ今度3人で遊ばね?たぶん気が合うと思うんだ」
「!?」
「!!」
「なんだよ青八木まで。」

 ふは、と笑ったような音がきこえたから、頬のストッパーが取れたので振り返ったらやっぱり手嶋くんは笑ってた。優しく笑う人だ。あまり話したことがなかったから当たり前だけど、知らなかった。そうやって、知らないことが多いのなら、それを少しでも知りたいのなら、知るために動くべきだ。あのときの青八木くんの声のように、知って嬉しくなることは沢山あるはずだ。だって私は、今さっき、つい誤魔化したけど青八木くんのことを知ることが出来たことに喜んでいたのだから。だから私は、手嶋くんの真っ白いシャツのお腹あたりを摘んで、引っ張って、云うのだ。

「わ、私と、遊んでくれるの?」

 そう云ったら、いきなり私の手首を掴んだ青八木くんが焦った形相で、無言で首を横にブンブン振っていて、先程の肩をポンポンたたく手嶋くんが「青八木がその云い方は高校生男子には毒だってさ!」とカラッと笑った。



目醒めるあの日。
(2014.12.12)
恋に目醒める。
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