来月から激しい寒暖差にご注意下さい。
※捏造表現があります。日頃やらない事をやる時は、大抵妙な事がくっついて湧いて、事件が起こるものである。
いつも通り仕事をしていただけだった。私は記録課に所属している鬼で、清書を終えて必要申請を受けた巻物を運んでいるところだった。閻魔殿の廊下を速足に歩いていると、向こうからこの清書した巻物のお届け先であった鬼灯様が近付いて来ていた。お声をかけ駆け寄ると、鬼灯様の目の下には物凄いクマが出来ていて、ギョッとする。思わず固まっていると、フラフラしながらもしっかり私の肩を掴み力を込めてこうおっしゃった。
「丁度良いところにいてくれましたね。金魚草に水をやっておいてくれませんか。今大事な時期なんですよ。貴女も育てているから……わかるでしょう?」
鬼の気迫をそこで使うのかというくらいの迫力だったので、無言でゆっくり頷くと、私の手にあった巻物を取り「これはしかと受け取りました。有難う御座いましたサァ金魚草の元へどうぞ」と身体を回れ右にされ背中を押された。この人の金魚草愛はたまにこちらが口を閉じる程である。私も金魚草を育ててはいるが、ココまでではないのだ。
そうやって、不可抗力とはいえ日頃やらない事をやっちゃったから、日頃起こらない事が起こってしまうのだ。私はチャレンジ精神とかそんなもの、持ち合わせた鬼ではない。平々凡々、文字達と一緒に生きて行けたら文句なんて無い。文句なんて、ひとっつも無いのだ。
キリなどで開けたと思われる小さな穴が一周整列しながら並んでいるバケツにホースを突っ込み固定して、持ち手部分に釣竿の針を引っかけて持ち上げる。ホースを辿るとある水道の蛇口を捻って水を出し、金魚草に水を与え始める。バケツの穴からシャワーのように降り注ぐ水が嬉しいのか、金魚草たちはビチビチと自らの背びれ尾ひれ終いには身体を揺らし始めた。揺れすぎて倒れないでね、と内心ヒヤヒヤする。その後の対処方法の知識を私はあいにく持ち合わせていないのだ。……でも、彼(彼女?)たちの嬉しそうな姿を眺めていると、なんだかこちらも嬉しくなる。口の端がむずむずし出して、私は知らず知らず微笑んでいた。庭の奥の方の金魚草にも水をやる為に、爪先立ちになる。多少ふるえるけど問題ない、と腕をゆっくり伸ばす。そうやって横着したのがいけなかった。ガクン、と膝から力が抜けて、バケツの重たさに腕と身体の重心が負ける。────あ、倒れる。妙に冷静に思って、釣竿を持つ手に力を込めて、目を強く瞑る。利き足を前に出しても間に合わなかった。鬼灯様の大事な金魚草、潰してしまうなんて。嗚呼なんて言い訳をしたら……言い訳なんて通用しない。いろいろ諦めたら、首が後ろに引っ張られた。そのまま後ろに身体が持って行かれるように引力を感じて、ぶつかる。完全に後ろに寄りかかった体勢で目が白黒して、わけがわからないまま手元の釣竿の柄を必死に眺めていると耳元で「これ全部あんたの魚?」と声を聞いた。びっくりして弾かれたように振り返ると、見知った顔が間近にあった。途端脱力して、溜息をつく。ゆっくり声の主から離れると、やっぱりというかなんというか、予想通りの肌色面積過多だった。
「春一さん、またぱんイチですか」
「おう。久しぶり。元気にしてたかよう」
「……えぇ、まぁ」
「なんだよう。モラル履いてるだけ良いだろが。雪鬼にゃあ此処は暑過ぎんだ。八大の鬼は良くある鬼スタイル(ぱんつ一丁)に厳しくねーか」
「じゃあなんでこっちに来たんですか……!そんな暑いならあっちにいりゃあ良いでしょう……!」
私を転倒から助けてくれたのは春一さんだった。またモラル(ぱんつ)一枚で八大地獄をうろついているらしい。今回は何をしに来たのか、特にデジカメは持っていないようで。ボストンバッグの上にいつものサルエルパンツとかその他着て来たのであろう服が適当にまとめられている。本当に、何しに来た。本当に。
私はとりあえず、この金魚草たちに水を与えなければ。自分の足元をしとしと濡らしていたバケツの水を無駄にしないべく、今度は横着しないで奥の金魚草の方に回り込む。春一さんは金魚草を挟んだ向こう側から少し大きめな間伸びした声でこちらに話しかけてくる。
「僕ぁあんたに用があって来たんだよーう」
「……え、私ですか?何でまた」
「その前にー、何で敬語使ってんだ気持ちわりぃー」
「いや……。あーの、……だって、貴方八寒の期待の星だとか。私は八大のヒラ獄卒ですので。位が、違いますから」
手は休めずに端から端まで金魚草に水を与えた。水遣りを終えたら道具をしまわねば。水道の元に行き水を止め、組んだバケツたちを解体し、ホースをまとめて蛇口に引っ掛けた。バケツと釣竿はどうするんだったかと考えていると、目の前に小さな、これから大っきくなりますよーという具合の金魚草が視界に割り込んでくる。何故か金魚の部分が凍ってる。え、と凍った金魚草を見つめ、それを摘まんでるらしい手から腕、肩、首、顔と目で辿った先には、いつも通りの眠たそうな顔の春一さんが。左目の下の雪の結晶の印も見てしまう。というか、これ、まさか、────!
「なっ、なにしてんの!?これ!まさかっ、あんた馬鹿なのなにしてんの!?」
「おー、やっといつもの名前に戻った戻った」
「何のんびり縁側のじいちゃんみたいな事云ってんの!!これ!まさかそこの金魚草畑から取ったんじゃ……!」
「そうだけど」
「そっ……!そうだけどじゃないよ……!なんでこんな事……!ていうかなんで凍ってんの……!?」
頭に雷が落ちた心地だった。おそらくこいつと会話のキャッチボールする度に落ちている。春一さんはひとつ首を傾げると「何そんな驚いてんだよう。まァ見てな」と、摘まんでいる小さな金魚草に向かって、ふー、と冷ますような仕草をした。すれば凍った金魚草の金魚部分に固まっていた氷がまだ何もなってなかった茎にまで侵食するのを目の当たりにする。ギョッとして春一さんを見上げると、飄々としたいつもの顔のまま、えっへんと威張るような格好をした。
「どうだよう。すげぇだろ」
「え、雪鬼ってこんな事出来たの?知らなかった……」
「いや、僕も良くは知らんがなんか出来た」
「まぐれかよ!まぐれで何て事を……!いやどっちにしろあんた鬼灯様に滅茶苦茶怒られるからね!!あーもうどうすんの……!」
「ん」
バケツと釣竿を持ったまま頭を抱えてあわあわしている私に向かって、飄々としたまま凍った金魚草をこちらに差し出した春一さんは、続けて口を開く。
「あんたは八大の獄卒に向いてない」
「……え」
「昔みたいにこっちで働かねえか」
私の動きはピタリと止まる。その代わり心臓が早鐘みたいに動きを速くする。今日わざわざ八寒から出向いた理由がコレ?私を八寒に戻す為?なんとまぁ、勿体無い事を、摩訶鉢特摩のブリザードを派遣するなんて。私は多分眉間にシワを寄せている。
「……何で、そんな事を」
「理由教えたらこっち来んのかね」
「……いや、そちらの理由が何にしろ、私は此処を離れるつもり、無いですね」
「だったら云わねえ。でも僕はあんたが欲しい」
「…………何云ってんですか。そもそも、私がそっちに行ってなんのメリットがあるんです?私はやっとこっちの気候に慣れたんですよ。雪鬼とのハーフだからと言っても生まれはそっちなんですから」
「だったらこっちのがやりやすいだろがよう。メリットあんじゃんかよう」
「や、だからね、慣れたんですってこっちに!今更またそっちとか、身体壊れますって!」
「壊れたら介抱してやるよう。だからこっち来いってばー。なーあー」
「子供みたいにくちびる尖らせないでください!あぁもう……!兎に角私そっちには行きませんから!ほら早く!鬼灯様に見つかっちゃいますから準備を、」
「何の準備を始めるんですか」
息が詰まった。春一さんに服やら鞄やらを持たせてグイグイ背中を押していたら、背後から声がした。春一さんからではない冷気が、背後から伝わって来るようで、でもそんなもの私の妄想でしかないのはわかっているけれど、これは比喩です。比喩だけど、比喩じゃなかった!みたいな!ジブ◯しちゃったのには後ろの方の嗜好が関係しているのです。
ギギギ、と音がしそうな首の回し方をして、春一さんの背中に掌を付けたまま振り返れば、そこには想像通りの鬼の官僚。
「鬼灯様……おつかれさまです」
「おつかれさまです、名前さん。……と、貴方は春一さんですね、雪鬼の」
「お。鬼灯様だ」
「……貴方はまた。懲りない方ですね。服を着なさい」
「ああああああすみません!今服着せますから!!」
私が大声で慌てると、鬼灯様は腕を組んでほんの少し目を見開いた。
「おふたりはお知り合いでしたか」
「え!?あ、いや、えーと、春一さんとは……」
「元・同僚。これからまた同僚に戻したいところなんだけどなかなか、」
「ちょっと春一さん、しっ!……私生まれと育ちが八寒なんです、で、此処に来る前はあっちで獄卒やってて……その頃はまだ春一さんは摩訶鉢特摩ではなかったので、だから同僚で。……はい」
「……で、その時の同僚の名前さんを引き戻しに来たと。」
「…………」
「…………」
「……どっちか何とか云ってくれませんか。質問してるんですが」
「あ、もう喋って良い?ソウデスネ」
「お昼はいい◯も派ですか。わたしもです」
春一さんは、上は中のTシャツは着ないまま袖を通し、下はステテコ?だけを履いて鬼灯様の質問に答えた。そのままふたりは目を合わせる。お互い表情は無い。元々ふたりはそんなに表情豊かではないけど、冷静沈着でたまによくわからない事をする鬼灯様と、飄々としていつもよくわからない事をする春一さんの組み合わせは何を始めるか想像つかなくて、私は今ものすごく緊張していた。釣竿を持っている手を腹の前に持って行き、その手をもう片方のバケツを持った手でぎゅっと握る。まず、春一さんの手に摘ままれてる小さな凍った金魚草。これもう見つかってるんじゃないのこれもう春一さんジ・エンドなんじゃないの何で鬼灯様何も云わないのそれが怖いよ逆に怖いよ私どうしたら良いの謝ったら許してくれるの他のより小さいからとかあるの無いよだって鬼灯様だよ冷徹と噂の鬼灯様だよ閻魔様より怖いよあああああああああああ私何かしましたか私はただ平凡にこの地獄で文字と一緒に生きて行けたら良かったのに私にそれは許されないんですか何なんですか私結構真面目にお仕事して来たつもりなんですけど何処かで怠惰しましたか愚かなミスしてましたか何でですか………………
「百面相してるところ、なんですが、名前さん」
「……はい」
「金魚草への水遣り、有難う御座いました。とても元気に気持ち良さそうに跳ねています」
「へ、はぁ、はい……」
「そろそろ大事な時期なんで、いろいろ手を加えてやらないと、いけませんね」
「いろいろ、ですか」
「はい、いろいろです。そう、間引き……とか」
「まびき……」
「元来は植物を栽培する際、苗を密植した状態から、少数の苗を残して残りを抜いてしまう作業のことである。(ウィ◯ペディアより)」
「そうです春一さん。貴方が持っているその小さいの、まさしく間引き対象で……」
「あっ、ああああああの!」
するっと流れるように鬼灯様が春一さんの持ってる小さな金魚草に対して話題を持って行ったので、私はほぼほぼノープランのまま口を開いた。うっかり春一さんの目の前まで歩み出て彼と鬼灯様の間に割り込むように。鬼灯様は腕を組んだまま私を見下ろす。
「どうしました、名前さん」
「あの、かっ 勝手に間引いちゃ、ゲホゴホ、間引きをしてしまって、申し訳ありません。私が金魚草を育てている事を彼に教えていたので、今の時期に間引きをおこなう事を知っていたのだと思われます。か、彼は特に金魚草に興味は無いようですが、間引きを今までした事がなかったのでしょう。何だかやりたくなってしまったようで、す。すみません。私の監督不行き届きといいますか、何といいますか、いやはや、あの、本当にすみません。彼に悪気はありません。金魚草が凍ってるのは、何ででしょうね。彼もわかっていないみたいで、ハハハ……。いや、いえ、本当、申し訳ありません」
頭を下げた。腰から90度。正直土下座でも良かった。でもそれだと何だか、軽々しくやってるように見えそうかなとか何とかグチャグチャ考えてる間にもう頭を下げていた。目はギュッと瞑る。脚がふるえる。握りこんでいる手に力を込める。爪が食い込む。
生きた心地がしないままそのままでいたら、前からため息が聞こえて来てドキリとすると、土を踏む音が後ろから横に並んだ。目を開ければ、私の隣に春一さんが並んでいる。はた、とその足を眺めていたら「あんたもお察しの通り、」と彼は話し出した。
「あんたもお察しの通り、今までのはほぼほぼ嘘です」
「ちょっ、と!!春一さ、」
「こいつがこの金魚育ててるの知ってるって事と間引きを今までした事がなかったって事とこの金魚に特に興味ないって事と悪気がなかったってのは本当。その他は、嘘。」
「でしょうね」
私のノープランながらでっちあげた言い訳を一瞬で無に返した春一さんは、摘まんでいる氷が溶けて来た小さな金魚草を見つめる。思わず身体を起こしてそれを見やれば、「でしょうね」と抑揚の無い声で返事をした鬼灯様は彼を見つめた。
「僕は別に、この金魚の事はどーでも良い。ただ、名前がこっちに戻って来てくれんなら、名前がこの金魚好きで此処の金魚全部欲しいってんなら、全部凍らせて全部八寒持ってく事もいとわねぇ」
「拳握り締めてキメたところで私はそんな事許しませんよ」
「春一さんもう黙って……!」
「黙らねぇよう。鬼灯様がこいつの異動許可出すまでな」
「あんた、私行く気無いって云ったよね!?訊いてた!?ねぇ訊いてた!?」
「訊いてたけど訊いた瞬間訊かなかった事にした。」
「自己完結してんなよ!私の生活かかってんだよ!何でそんなに固執するの!?私ただのヒラ獄卒だって云ってんじゃん!!今はこっちの記録課でコツコツ頑張ってるの!!たまに同じ文字が続いたりするとゲシュタルト崩壊に苦しんだり文字が空中に浮き出たように見えたり文字の元になった動物の幻覚が見えたりしても耐えて頑張ってるの!!なんで頑張れるのかって、私は文字が好きなの!!八大の記録課には素晴らしい手さばきの上司がいてやっと認めて貰えたの!そこで急に現れたあんたに前の所戻って来いなんて云われても無理だよ!!私ただのヒラ獄卒だよ!?今更そっち戻ったって居場所なんか無い!!やっとこっちで手に入れた場所そっちでまた長い年月かけて築き上げる気力は無い!!文字と一緒にいれたら良いの!私はチャレンジ精神とかそんなもの持ち合わせた鬼じゃないの!ただ文字達と一緒に生きて行けたら文句なんて無いの!」
ふーーーっふーーーっと長く息を吐き、無理矢理心臓を押さえつけるように息を整える。……やってしまった。これでは、ただのヒステリックな女じゃないか。これで春一さんが引き下がるにしても、鬼灯様の前で、こんな、これじゃ八大でもやっていきにくい。
握りっぱなしの手をさらにギュッと握りうつむくと「そんなに」と春一さんがぼそりと呟く声が聞こえた。
「そんなに生活や居場所が心配か?」
「し、心配だよ。何云ってんの」
「じゃあ、結婚するかあ」
「……は。」
釣竿とバケツを一気に落としてしまった。中でもバケツはいっそう五月蝿く音を鳴らし地面に落ちて、転がって行く。そうしてすっかりお留守になった私の手を片方掴み、氷の溶けて来た水滴したたる小さな金魚草を掌に乗せる。彼はそれを伏し目がちに見つめる。私はそんな春一さんをガン見する。こいつ今なんかトンデモナイ事、云った、ような。わけがわからなくて乾いた笑いがこみ上げた。
「……はは、何云ってんの。」
「そんなに生活とか居場所とかの心配してんなら、結婚す、」
「きっきっ聞こえてる!聞こえてるから!そうじゃなくって……!」
「摩訶鉢特摩のブリザード、嘘つかない」
「ナイスみたいに親指立てられても、」
「今日はおとなしくこれで帰る。」
「〜〜〜〜!?」
パニックになって何も言葉が出て来なくなった私の肩にポン・と軽く手を置いて、手の甲の上から身体を屈めて額を乗せた春一さんは何だかとても、雪のように落ち着いていた。
「……ま、考えといてくれよう」
そうして、身体を離した彼は鬼灯様を、探す。……探す?
「あぁ、終わりましたか」
「鬼灯様が石階段で煙管をたしなんでおられる……!」
「ふたりの世界に入っていたようなので、ちょっと暇を潰していました。もう終わったんですかね。」
「終わったんで僕は帰るよう」
「土産無しでですか?彼女は良いんですか?」
鬼灯様が脚を組んで閻魔殿の廊下に繋がる石階段に座りながらそう云うと、煙管をふかす。様になってるその姿に、掌に乗る溶け続ける金魚草の氷の解凍が加速している気がする。
「良いも何も、こいつの異動許可貰えねーんならとりあえず帰る。八大アッチーもん。脱ぎ散らかしたい」
「脱ぎ散らかした瞬間にこの煙管を貴方にぶっ刺しますよ。それに、いつ私が彼女の異動許可を出さないなどと云いましたか」
「え……!?ちょっ、鬼灯様!!」
私が思わず数歩踏み出て、悠々と煙管をくゆらす鬼灯様に近寄っても、彼は身動きしない。なんだ、どういう事だ!?私のさっきの叫びはやっぱり八大の獄卒としては不相応だったという事?そう怯えていると、ふぅ・とひとつ煙を吐いた彼は静かに声を転ばせる。
「まず、名前さんは八大の記録課に勤めてから暫く経ちましたね。葉鶏頭さんが貴女の事を高く評価していましたよ。いつも緊張感を持って真摯に文字と向き合いギリギリの精神で仕事をこなしていると。“ギリギリの精神”というところに思うところはありますが、貴女は記録課に必要な存在であることは確かです。ですが、先程貴女が叫ばれていたように、文字が空中に浮き出たように見えたり文字の元になった動物の幻覚が見えたりという本当に“ギリギリの精神”のところまで追い込まれているのを見ているのは……ちょっと……」
「引かないでください!引かないでください!」
「名前落ち着け〜」
「そこで貴女にひとつ提案なのですが」
鬼灯様にさらに詰め寄ろうとする私を後ろから脇の下に腕を差し込み持ち上げるようにしてかかえる春一さんがこちらの自由を奪う中、暴れようとしたところで「提案」と云われ、ハタとなる。鬼灯様は煙管をひっくり返し、掌にトントンと吸殻を落とし出してこちらを見つめながらおっしゃった。
「八寒の記録課に転勤を命じます」
★
本来のお望みに近い転勤命令に気を良くした春一さんが八寒へと帰っていった後、私に突然の“提案”をした鬼灯様にやっと詰め寄った。未だに階段の段差に座り携帯電話をいじり出している彼はこちらを見ない。私はワナワナと震えながら口を開く。
「鬼灯様……!どっ どういう事ですか……!?私の精神が、その、ギリギリに見えるから八寒に転勤って事ですか……!?」
「落ち着きなさい。私が何も考えずに葉鶏頭さんが認める貴女をそうやすやすとあちらに差し出すとでもお思いですか」
「え……」
カシカシ、と携帯電話のボタンを押していた鬼の官僚は「おや」と呟く。その携帯電話のディスプレイにはいったいぜんたい何が映し出されているのかわからないが、鬼灯様のおっしゃっている事も良くわからない。私……もう良くわからない……。半泣きになりかけたとき、パチンッと携帯電話を閉じ袖の中へとしまいながら。鬼灯様はこちらを見上げた。
「名前さん、貴女には八寒地獄の記録課に勤めながら、八寒地獄の状況をレポートして戴きます。記録課の現時点の状況、また他部署の状況、そして、八寒地獄の幹部の方々の八大地獄に対する動き……それらをそれとなく見定め、私に毎日レポートを送ってください。報告形式は何でも構いません。ですが、これはある程度内密に。まぁ、どう考えても八大で働いていた貴女が八寒に出戻った時点で、何やら勘繰られるとは思います。でもそこは上手く切り抜けてください。あの摩訶鉢特摩のブリザードに求婚された事でも理由にすればどうにかなると思いますが。まぁ……そこまで極秘任務と気を張らなくても良いですよ。ちょっとスパイっぽさは演出して戴いても構いません。きっとその方が、あちらの幹部の方々には効きそうですから」
「……ほ、ほおずきさま」
「一度あちらが使った手を長期的計画でやり返すのです。イイ薬になると思いますよ」
「…………」
「引き継ぎもあるでしょうから転勤は来月から。来月のはじめの頃の八寒はどうやら天候は安定しているそうですよ。それから名前さん」
「……なんでしょう」
「……環境が変わる事は、確かに大変な事です。今まで経験して来た事とは違う場面におそらく遭遇するでしょう。ですが、貴女の内側に築き上げて来たものが役に立たないというわけではないと思いますよ。何より、貴女は、真面目に文字に向き合って来たのでしょう?」
気付けばうつむいていた顔をそっと上げると、鬼灯様はこちらを見つめていて。鋭く温かみは無い・けれど真っ直ぐな瞳と、視線がかち合う。
「自信を持てとは云いません。ですが、貴女を認めている人がいる事は覚えておきなさい。環境が変わった先でも、貴女が頑張る姿を見ている人はいるものですよ。万が一、どうにも頼りない人たちばかりだった場合はレポートに記載してください。社内環境の改善を考えましょう」
「………」
驚いて固まっている私をよそに、鬼灯様はゆるりと立ち上がると、私の掌を一瞥して、一言呟き去って行った。
「間引くのではなく、新しい鉢に植え替えるのも、ひとつの手ですよ」
来月から激しい寒暖差にご注意下さい。
(2014.2.18)
仕事関係なくただお迎えに来たヒトと、平々凡々に暮らしていきたいヒトと、ちょうど良いから使えるものは使おうと考えたヒト。
彼女はひとつしてない事があって、その話を、書くかどうかはわからんのですが。鬼灯の、では春一さんがいちばん好きです。