名前を呼んで。その顔見せて。
※アニメを観ました。※ゲームは未プレイです。
※中盤あたりのネタバレあります。
臨機応変という言葉は大変便利である。その状況に応じた行動を取るのである。また場合によってはその行動を変えるのである。そして今まさに、その便利な四字熟語の意味を、私は、私たちは、実行しなければいけないようなのである。
セレスティアさんは、適応する事が大事、みたいな事を云っていた。とても落ち着きはらった声だった。そして石丸くんによる朝の朝食会と、セレスティアさんによる夜時間出歩き禁止のゆるい決まりを設けて、私はそれらの“決まり”に適応しようと必死になった。電子生徒手帳の校則もじっくり読んだ。適応する、適応する事が大事。この混乱した中で、その言葉は今の私にとって、唯一の救いの様に思えていた。過剰表現かもしれないけれど、縋ってすらいるようだった。
そんな中で、次々と人が亡くなった。異常で濃密な生活の、実際はほんの少しの時間の中で一緒に生活して来た人が、殺し殺され処刑されたのだ。はじめから涼しい顔をしている人もいれば、だんだんと慣れて来ている人もいて、その中で私は黙っていた。どちらとも当てはまらないまま、慣れる事もないまま、黙っていた。いつもおしおきの後はトイレで吐いた。もう、これなら、石丸くんのように壊れてしまいたかった。なんて、失礼な事を考えていた。でも、適応すれば、良いのだ。適応する事さえ出来れば、私だって。セレスティアさんみたいに、堂々としていられるはずなのだ。
「ーーーー」
ハッとして目の前を見れば、男子トイレの扉があった。驚いて固まっていると、肩をトントンとたたかれる。心臓が跳ねて弾かれたように振り返ると、黒いジャケットと、その中の濃灰と深緑を混ぜたような色のパーカーが視界に入った。視線を上げれば、苗木くんが少し気まずそうな顔をしている。何と声を出せば良いのか戸惑っていると、彼は笑った。……笑った、というより微笑んだのかもしれない。
「間違えちゃった?」
「……間違、え……あ……、うん。間違えちゃったの」
「そっか。良かった、気付いてくれて」
「……え?」
「名前呼んだんだけど、聞こえてなかった?」
名前?と口の中で喋ったら、苗木くんはスルッと表情を切なくさせた。眉尻を下げて瞳が揺れてる。口を結んで、何かを考えてる。私から目を外さないで、その考えをまとめているのかなんなのか。途端、怖くなる。私の中で、苗木くんは『正しい人』だ。学級裁判でも、全て的確だった。周りの、霧切さんやセレスティアさんの助言を得ながら、クロを追い詰め当てて行く姿は、私には『絶対正義』のようだった。間違いなんてないような、全ての正しさの天辺のような。そんな人に、見つめられてみろ。私の中の迷いや間違いを見透かされているみたいで、それをこの後指摘される予想をしてしまうのだ。そんなの、怖い。嫌だ。嫌だ!そう思ったら、逃げ出したくなった。右足がジリッと動いた瞬間、苗木くんは予測していたみたいに私の腕を両方掴んだ。腕を身体の前に持って行きたいのに出来なくなる。パニックになる。突然着火したように身体が熱くなって、叫びたくなった。だけど、私が口を開くより早く、苗木くんは言葉を発した。
「安っぽい言葉は言うつもりないけど」
とても落ち着いた声だった。あの時、セレスティアさんが放った言葉とは違う落ち着きを持った、声。苗木くんの口の動きを見てしまう。でも彼はそれは望んでいないのか、私の腕を掴む力を増やして少し彼の方に引き寄せる。彼は行動で「目を見ろ」と促した。その通りに、私は苗木くんの目を見る。灰色と薄い緑が合わさった渋い色の目が、とても真っ直ぐ真剣だった。見入ってしまう。
「でも、訊いてくれるかな」
「……何かな」
「苗字さんが困ってる事、話して欲しい」
「……困ってる事?」
「困ってる事。あと、辛い事。あと、ひとりで抱えてる事」
「……多いなぁ」
「多いよ。だって苗字さん、ひとりで沢山困ってるみたいだから」
苗木くんの目から目を逸らしたら、腕を掴まれていた手が片方肩に移動した。ギョッとして再び苗木くんの顔を見たら、途端少し笑ったので、訳がわからなくなる。何でそこで、笑うの。私の表情は多分、少し困ってる。
「……何で笑ったの」
「あ、御免。別に苗字さんがおかしくて笑ったんじゃないよ。ただ、ちょっとね」
「……君ってそういう人だったの、知らなかった」
「そういう人ってどういう人?それに、僕の事は知らないはずだよ。だって、話した事なかったから」
思わず表情を消してしまった。驚いたのだ。彼の云う通りだったかな、と思い出してみる。確かに私は、男の子たちとそんなに話した事がなかった、気がする。おかしい。おかしい、な……。
「……御免なさい。」
「……ううん。少し意地悪な云い方だったかもしれない。僕の方こそ、御免」
「……あの、……」
「……場所、変えよっか。此処じゃ何だか、不格好だ」
困ったように笑った苗木くんが私の後ろを見たので振り返ると、そこは男子トイレの扉で。そういえば私はさっき、間違えて男子トイレに入ろうとしていたのだった。別にトイレに行きたかったわけではなかったし、先程の自分は何がしたかったのかよく思い出せない。何だか参ってしまって、腕を掴まれていない方の手で額を抑えて軽くうつむくと、苗木くんは私の頭を二・三度ポンポンと撫でた。撫でた理由は、よくわからない。
★
移動先の場所は何処が良いかと訊かれたけどすぐに思いつかずに、食堂の奥の端っこの席に落ち着いた。苗木くんはあたたかいお茶を煎れてくれて、お礼を云うと「ティーパックだけどね」と笑った。それでも有難うの意味を込めて首を横に振って、両手で湯呑を持つ。ふうふうと冷ますようにしてからスルスルと透明の緑を口に含んだ。飲み込む。喉とお腹があたたかくなる。何だか、泣けて来てしまった。涙が滲んで、うつむいても、向かいに座る苗木くんは慌てなかった。
「……御免、なさい。」
「謝ることじゃないよ」
「で、でも……あのね、私、君が怖かった」
「……僕が?」
湯呑をテーブルに置いて、両手で包む。あたたかい。今の苗木くんみたいだと思ったらまた涙が滲んで、とうとう零れ落ちた。テーブルにパタパタと音を立てて落ちる透明は止まらない。
「今まで見て来た君は、ずっと正しくて、私、今までどうしたら良いのかわからなくて、此処に転入して来たけど、自信無くて……みんな、凄くて……。みんな、どんどん此処の生活に慣れてるみたいで、適応、してて……。それに、コ コロシあわなきゃ、いけないとか、そんな馬鹿な……」
「…………」
「……今、笑った?」
「ーーーーえっ、え!?」
「君今笑わなかった……?ちょっと、酷い。別に、良いけど、話して欲しいって云ったの、苗木くんなのに、さっきも、」
「あ」
「え」
あ、と云って固まった苗木くんはすぐに嬉しそうに笑った。何が何だかわからなくて眉間にシワを寄せる私をよそに、彼は自分用に淹れた珈琲のカップを私と同じように両手で包んで伏し目がちになる。苗木くんは身長がそれほど高くなくて幼い雰囲気を持っている。けれどもたまに、そうやって、オトナみたいになる。今日だけで、それらを感じた。私は今まで、これらを知らなかった。私は今まで、何を見て来たのだろうか。
苗木くんは、呟くみたいに声を出す。
「御免、ちょっと嬉しかったんだ」
「……あのね、あの、どれが……」
「名前、覚えててくれた」
「……君は苗木くんでしょ。苗木誠くん。自己紹介、してたじゃない」
「ずっと、僕の事『君』って呼んでたからさ。忘れちゃったかなー、なんて」
「……そうだった……?」
「そうだったよ。あと、笑ったのは、気にしないで」
「…………」
「怒るとそういう顔になるんだね」
「君はそうやって人を馬鹿にする人だったんだね」
「惜しいなぁ、もう一回云ってみて」
「……?」
「名前呼んでよ」
苗木くんと目が合う。頭が???でいっぱいになる。今それ関係ある?そもそも此処に来た目的は何だったっけ。そうやって、私はだんだん考える事がわからなくなって来る。眉間に寄ったシワは取れない。
「私君がわからない」
「……それはそうだよ、逢ったばかりだから」
「……そう、ね」
「逢ったばかりなのに、信用してなんて云うのははばかられるんだけど」
「…………」
「僕は、絶対正しいわけじゃないよ。何だか『超高校級の幸運』とか名前が付いてるけど、本来はただの普通の高校生なんだ。僕はただの、何処にでもいる、少しだけ人より前向きな、普通の高校生なんだよ。そんなやつに、苗字さんは怖がる必要ないんだ。でも今の苗字さんは僕が怖い。なんでだと思う?」
「…………」
「此処の生活が異常だからだよ。きっと、普通の生活を送ってたら、そんな事なかったはずだ。僕は平凡なんだから。この異常な生活が、苗字さんから見た僕を凄い人に作り上げてるだけだよ」
「で、でも……君は此処の生活に、完全に適応してて……」
「それは違うよ」
ドキリとした。ハッキリと否定をされた事に、うろたえる。でも、怖さよりもその否定の先が気になって。湯呑を包む手に力が入る。苗木くんの目はやっぱり真剣だった。
「僕は、此処の生活に全て適応したわけじゃない。此処から出る方法を探す事にしただけだよ」
黙って苗木くんの目を見つめ返していると、彼はまた少し微笑んだ。男子トイレの前で肩をたたかれて振り返った後の時のような、表情。少し安心してる、ような。彼は続けて口を開く。
「探す事にしただけ、なんて簡単に云ってみたけど……此処から出る方法はなかなか見つからない。でも、此処から出たいのに何もしないのは、前に進めないから」
「…………」
「僕、人より少し前向きなのが、唯一の取り柄だから。……それに、苗字さんだって頑張ってたじゃないか」
「何を……私、どうしたら良いのかわからないまま……」
「僕が怖かったのは、此処で適応してる僕が正しく見えてたからなんだよね?苗字さんは正しくなりたくて、この現状に適応しようと一所懸命だったみたいだし。それで、だいぶ参ってたみたいだけど」
「…………そうなのかな……」
「僕は苗字さんじゃないから本当の事はわからないよ。でも、此処に慣れようとしていたのは、前に進む為なんじゃないかな。でも、無理に適応する事だけが正しい事じゃないと思うよ。確かに、いつまでも何もしないまま駄々をこねるのはどうかと思うけど……駄々をこねるなら、此処から出る方法を探す事で駄々をこねた方が、良いと思う」
優しい口調で、 私に提案するように話す彼は眉尻を下げて微笑む。やっと持ち上げた珈琲の入った真っ白いカップを、口元に寄せて私に云う。
「僕を信用してみてよ。これからは、苦しくなったら僕を呼んで。出来る限り、力になるから」
「……安っぽい言葉は言うつもりないんじゃなかったの?」
「えぇ!?あぁ……まぁ確かに、安っぽい、のかな……」
「……安っぽいよ。そうやってすぐ、いろんな人に云ってるように聞こえるもの。……でも。」
私も湯呑を持ち上げる。片手で持って、片手は下に添える。口元に寄せたから、私の呟きはくぐもった声になった。
「でもね、うん。有難う。……苗木くん。」
苗木くんが笑ったから、きっと聞こえていたんだと、思う。
名前を呼んで。
その顔見せて。
(2013.10.9)
弾丸論破の苗木誠くん。まだまだ……まだまだですが、書けて良かったです。弾丸論破教えてくれたうさみん感謝。