アセロラ気分。
朝の満員電車ほど不快なものはないけれど、ぎゅうぎゅうになった場合少々の寄りかかりには目を瞑るし、瞑って欲しい。だって、踏ん張ったところでサラリーマンの方々の雪崩に勝てるとは思えないし、打ち勝とうとしたところで嫌な顔されるだけだ。満員電車ではある程度流れに身を任せた方が利口だ。そう思う。そう思うのだけど。ーーーーさっきから。背後でもぞもぞしている人がいるなとは思っていた。でもこの満員電車ですから、自分の立ち位置が決まらなくてもぞつく人は良く見かけるし、それで体がぶつかることもある。だからはじめはなんとも思っていなかったのだ。でも。でもね。さっきから、この尻あたりに触れては離れ、触れては離れを繰り返すのは。あまりに曖昧だったから流していたけれど、線路のカーブのタイミングに合わせてガッツリとスカートの中に手を滑り込ませて来たときはもう確信せざるを得なかった。びっくりして内心パニックになったもので、抵抗らしい抵抗をしなかったことが相手を調子づかせたのか、こちらの尻の柔らかさを確かめる様に撫でるわ、尻の割れ目に指を這わせるわ、何が楽しいのかそればかりおこなう。制服のスカートの中の狭い範囲で蠢く手に嫌悪する。気持ちが悪い。そして、何だか怖かった。感じたことのない肌の表面から内部にジワジワ染み渡るような恐怖に、もともとどう対処したら良いのかわからない気持ちが荒らされて余計に太刀打ち出来なくなって、はじめから無かった闘争心も余計に削がれて。次の駅、早くつかないかな。そう考えてやり過ごそうと、心が逃げた。ゆっくりと俯いたら、後ろにいた人も同じ様にしたらしく、耳の裏に荒めの息遣いが聞こえた。
「なにしてんの?」
少し遠くで声がした。ガッタン!と電車が揺れて、吊革や棒に掴まれなかった人たちは隣の人を押して更にまた隣の人が隣の人を押す。ドミノ倒しの容量でたちまち人々は動く。まるでその隙を突くように、私の腕は掴まれ引っ張られ、ほぼ無理矢理場所を移動するカタチとなった。一歩二歩三歩とたどたどしく歩く過程、ほぼ無理矢理だったから人にぶつかる。なんだよお前、みたいな苛立ちを込めた目で見られて少し怯んだら、ヌッと目の前に人が近付いた。
「あ、(かばねくん)」
目の前で向かい合った赤羽くんは私の向こう側、先程睨みをきかせていたサラリーマンをあの淡く赤い目でジッと見つめて、ゆるく口の端を上げた。笑っ、た。浅い笑顔を贈られたサラリーマンを振り返ることがなんとなく出来なくて赤羽くんの鎖骨を凝視していたら、クイクイと腕を引かれる。今更だけど、あの腕を掴んで引っ張ったのは、彼だったのか。お礼を、云わなきゃ。お礼、オレイ、お礼を云う理由。ーーーーそういえば、そういえば、。先程の事を思い出そうとしたときだった。
「ねぇ、悔しい?」
赤羽くんが少し前屈みになって、向かい合う私の耳に顔を近付けて小声で云ったのはその言葉だった。直前に起こっていた事を無意識に忘れようとして、思い出そうとした瞬間に。また電車はガタンと揺れる。考えることに集中していたからかバランスが上手く取れなかったけれど、未だ掴まれたままの腕のおかげでよろめくだけで済んだ。満員電車は蒸し暑い。次の駅まではまだ遠い。
「俺、あっちの顔覚えてるよ。あっちは俺に話しかけられて挙動不審。でもこの満員電車、身動きは取れない。まぁ逃げらんないね。次の駅でとっ捕まえてケーサツに突き出すことも出来るし、俺が直接処刑することも出来るけど、」
どっちが良い?
後者は一体どういうことかって、知らんぷり出来るほど余裕は無かった。チラッと横目で見たら、至近距離に赤羽くんの存外悪どくないサッパリした表情の顔があった。サラサラしてる赤い髪が綺麗だ。この赤は、鮮やかだ。何かに似ている。なんだろう、なんだろう。考えを巡らせようとしたら彼はにっこり笑ってこう云った。
「あー、それとも」
「…………」
「俺が触って消毒、とかやってみる?」
「!!」
すぐ隣にいた男子学生さんが噎せて、誤魔化すように更に咳払いなんてするから、私は恥ずかしくなって赤羽くんの鎖骨に頭突きした。
結局、件の“あっち”の人は駅員さんに引き渡し、私もいろいろと聞かれて全てを話し終わった頃には学校は始まってしまっていた。今からあの坂をえんやこらと登るのか……。そう椚ヶ丘駅前で現実を受け入れようと考えていたら、ポンポン、肩をたたかれた。くるっとふりかえれば、グッと頬に刺さるは、指。
「……古典的な。」
「その古典的なもんにひっかかっちゃうとはねー」
赤羽くんは「抹茶バナナオレ」と書かれた紙パックの飲み物をいつの間に買ったのか飲みながら、私の頬に悪戯を仕掛けた。短く切り揃えられた爪は頬を痛くしない。そのまま何故か頬をぐりぐり押されて私の頬は押し込まれて口が鳥のクチバシみたいになってしまう。
「あかばねくん、いかないの?」
喋り辛いのを無視して云えば、彼は何故かキョトンとした表情になった。抹茶バナナオレのストローを口から離す。ストローの先は何度かかじられていた。
「何処に?」
「ど、え?がっこう……」
「あんたは行かないの?」
「……んー。」
歯切れ悪い返事をして赤羽くんから目を逸らして、駅前のロータリーを見やる。人はまばら。当たり前か。だって今は誰もが何処かで仕事や勉学やいろんなことに励んでる。でも、世界がそんな中でも、私は心がもやついていて、足の裏が地に付いてなくて。奥歯を噛みしめる。すると、頬への圧力がスッと消えた。そちらを振り返ると、大きな掌がドアップで見えたものだからビクついて、肩が上がってしまう。反射的に少し俯いて目を瞑ったら、ふわりと前髪を押さえられる感覚。多分、先程の掌が熱を測るみたいに、額に当てがわれたのだ。前髪が瞼をチクチク刺して、目を開けたらいけない事が良くわかる。今開眼したら地獄を見るのは明らかだった。
私の前髪と額を押さえる彼が何をしたいのかわからなくて、何と伝えたら良いのかわからないままもだついていたら、先に口を開いたのは赤羽くんだった。
「このままどっか行こっか」
私は俯き気味だった顔を上げる。でも額の掌は外れない。目を瞑ったまま返事をする。
「……どっか、って?」
素直にそう訊いたら、彼が少し噴き出した。目を瞑っているのに何故わかるのかって、噴き出した音がしたから。
「さぁ?何処が良い?」
「えっ、と……。」
「まぁ何処でも良っか。とりあえず左向けー左」
「わ!」
額から掌が離れて今度は肩を掴まれた感覚に目を開けたら、椚ヶ丘駅に向き直っていたところだった。そのまま後ろから肩をぐいぐい押されて、私は前に進むしかない。というのは都合の良い云い訳にすぎない。抵抗したら良いのだ。でも私はしない。何でだろうか?今日は良く考え事をする日だな、と思って、あの電車での赤い髪の綺麗さを思い出す。何かに似ている赤い色。後ろの彼の、一連の行動。ただの気まぐれだったのかもしれないし、気分だったのかもしれないし、本当なんてわからないけど。なんとなく甘酸っぱいような胸の内になったとき、彼の髪色のイメージを思いついた。私は相変わらず抵抗しないまま、後ろの彼に朝から云いたかった事をやっと伝える。
「赤羽くん」
「ん?」
「ありがとう」
はて、何のことやら?と赤羽くんはわざとらしく云って、飲みかけの抹茶バナナオレを私の頭の上に置くフリをした。
アセロラ気分。
(2013.4.26)
まだ偽者だけど、赤羽くん。もっと知りたい人です。