ソーダアイス

 水面は普通に眺めたらキラキラと弾けるように輝くけれど、水面下から眺める場合キラキラと輝くのは弾けるんじゃなく流れるようだということをみんな知らない。知らなくて良い。今現在、此処は私だけの場所だから。
 学校のプール、『2』と書いてある飛び込み台に裸足で立ってみた。脱いだ靴下はそこら辺にほっぽった。ギラギラと照り付ける陽射しを遮るものは何も無く、私は太陽に丸焼きにされようとしている。日焼け止めは塗ったっけ。少し俯いて水が張られたプールを見詰める。ほうら、キラキラ弾けて、水面(みなも)。額の端から汗が顎へと伝っていった。
 午後の授業は保健体育だった気がする。今日は数ある避妊具のお披露目の日だったか違ったか。きっとうちのクラスはいつもの7倍五月蝿いに違いない。ただでさえいつも五月蝿いのに、今日はさらに非道いだろう。こういう時は女子の方が冷静だから、あの神楽ちゃんが午後授業間食用の菓子パンをもっちゃもっちゃしながら「男は本当に餓鬼アルね」と鼻で笑っているに違いない。なんだか急に神楽ちゃんに逢いたくなってきた。
 女って生き物は面倒だ。自然とグループを作り出すし、なんかねちねちしてるし、月に1回出血するし、日焼けに気をつけないといけないし。その他諸々、色々と気を遣わないと女として認めて貰えないような空気がある。……なんて。自分でそう思っているだけかもしれない。どうでも良くなって、息を吸ってゆっくり吐いた。熱い空気が喉を通って、くらり、頭が揺らぐ。これはこれは、そろそろ日影に入るべきだ。でも、動くのが面倒で。そんなことをしていたら、脚に力が入らなくなって躰が重たく傾いた、気がした瞬間声がした。

「丸焼き願望でもあんのかィ」

 意識が後ろに引っ張られて脚に力がするりと戻った。視界の焦点が合ってハッキリした世界はまだプールの水面で、キラキラと眩しく目を細める。そういえば声をかけられていたのでは、とのっそり後ろに振り返れば、あたたかさを想像する亜麻色の髪が目に入る。あたたかさを連想するなんて季節間違ってるな、と今考えるべきではないことをぼんやり思った。

「沖田くんどうしたの」

 同じクラスの沖田くんが、少し減っているガリガリ君を右手にプールサイドの入口に立っていた。何故か足元はビーチサンダルである。裾を捲った制服のズボンから男の子らしくふくらはぎに筋肉がついた骨張った脚が見える。でも、色は白い方かもしれない。普段ならその神出鬼没ぷりに驚く筈なのに、暑さのせいか冷静な私にはどうでも良かったのかもしれない。失礼だからそんなこと口にはしないけれど。沖田くんはしゃくっと音を鳴らしながらガリガリ君を一口食べる。片方の頬っぺたを膨らましながらこちらを見詰めて云った。

「昼に学校抜け出してコンビニ行ったら5限始まってた。」
「……あぁ、途中から入ってったら何か云われるから、サボったと」
「ご名答。ご褒美にこれやる」

 沖田くんはビーチサンダルそのままの足でこちらに近付く。飛び込み台に立っている私を見上げて、すい、とガリガリ君を眼前まで持ち上げた。これが、そのご褒美って事ですか。

「これ、ご褒美?」
「そう、溶けるから早く食え。やっぱガリガリ君はソーダ味でしょ」
「……いや、良いよ。ソーダ味がいちばんなのは賛同するけど」
「なんでィ。照れてんのか」

 いや、照れてるというか単に今は要らないだけです。そう云って沖田くんから目を逸らしたら、唇に冷たくて固くて水っぽい感触が当たった。びくついて瞬時に頭を引きながら視線を前に戻したら、視界が水色と亜麻色と肌色、それから丸い空色。あぁ、唇から顎に冷たいものが伝った。制服のスカートのポケットからタオル地のハンカチを取り出して拭う。

「……なにすんの」
「食えって云ってんのに食わねェもんで」
「だから要らないってば……」
「お前、顔真っ赤。目が死んでる。いつから此処に居たか知らねェが脱水症状の何か出てんだろーが。死んじまっても良いのかィ」

 沖田くんの空色の眼が、妙に深みを持っていて逸らしてしまう。なのにまたガリガリ君を唇に押し付けるので、彼の右手首をガシッと掴んで引き離しにかかる。あぁ、また甘い液体が顎に流れる。この気温の高さに氷のアイスは溶けてきていた。

「ちょっ、と!大袈裟だな君は。あとやめてよガリガリ君溶けてきてて、水が、」
「熱中症をナメちゃいけねぇなァ。そういう奴がこういう日にぽっくり逝っちまうんだ」
「こらこら縁起でもないこと云わないでよ。あああああああぁもうわかったよわかったから!水分摂るから、ガリガリ君は君が食べなよ」

 観念した私は沖田くんを押し退けて『2』の飛び込み台から飛び降りる。すれば素足は熱されたプールサイドに焼かれてしまって熱いったら。さらに声なく跳び上がって走って女子更衣室に逃げ込んで、溜息。片足立ちで足の裏を土踏まずを上に確認したら真っ赤になっていた。ヒリヒリ、じわじわ。

「あー……」
「あーらら。こりゃあちょっとした火傷じゃねーかィ。叩いて良い?」
「……さっき笑ってたもんね沖田くん。ビーサンなんて用意周到なことを……てか此処女子更衣室だけど。」
「今日これで学校来たもんで。さっきはコンビニ帰りにそのままこっち来た。ということで叩いて良い?」
「良いわけない。あと女子更衣室だってば……ん?そのビーサンで校門の風紀委員をどうやっ、て、君風紀委員じゃなかった……?」
「そーでィ俺風紀委員。恐れ入ったか」
「うん。恐れ入った。風紀委員がビーサンで学校来てしれっと学校抜け出して授業サボって女子更衣室でアイス食ってやがるから恐れ入った」
「そんな褒めんじゃねーや、照れるから」
「褒めてない」

 ハァ。溜息をついて脚を元に戻したらクラッと、来た。方向がわからないまま躰が傾いたことだけを理解して来るであろう痛みを想像していたら、いつの間にか床が見えた。でも何処も痛くない。頭が状況についていけなくて躰をゆっくり動かしたらすぐに違和感に気づいた。

「おきたくん」
「……だァから云ったってぇのに」
「さりげなく、私の乳を掴んでる?」

 私は都合良く斜め前に倒れたようで、沖田くんが胸あたりに腕を回して躰を支えてしゃがんでくれたらしい。女子更衣室の床の青と白のタイルに顔面衝突は避ける事は出来たけれど、彼に片方の乳をわしづかみされてしまった。そんな良い乳してませんよ御免なさいね。ゆっくりした動作で躰が離れて、まだぽわぽわする頭のまま視線をさ迷わせたら目の前のタイルに無惨な水色があった。

「あ、え、御免沖田くんガリガリ君が、」
「あぁ、お前を片手で支えようとしたらもう片手も必要になりましてねィ」
「……そこまで重たかった、と?」
「さァね。まぁこれがその結果なんで、あとでハーゲン奢れや」
「えぇー……。まぁ、そうだね。私のせいなのはかわりない。ちょっと待ってね鞄かばん……」

 更衣室の棚に置いた鞄を目的に立ち上がろうとしたら脚から力が抜けた。情けないかな、ぺそっと枯れ葉みたい倒れた私を沖田くんは無表情で見下ろしているに違いない。そう思うと顔を上げづらく次の動作に困っていると、急に躰が浮いた。びっくりして躰を強張らせたら世界がどんどん移り変わって女子更衣室が遠退いて、視界が明るくなって空気が暑くなって塩素の匂いが強くなったかなと心が首を傾げた瞬間に、また浮いた。すぐに落ちた。音はこうだ。――――ばしゃーん! 私は沖田くんに後ろ向きに担がれて女子更衣室を飛び出して、彼もろともプールに飛び込んだのだった。
 強く瞑っていた目をゆっくり開けたら世界は光の影がゆらゆらしていて、上を仰いだら流れるようなキラキラがそこにあった。私のだいすきなキラキラが。魅入っていたら腰をトントンとたたかれて、顔を元に戻してさらに下を見たらぼやけた沖田くんがこちらを見つめていた。彼に担がれている体勢から対峙するものに変えられて、何故?と思っていたら両腕をがっしりと掴まれた。焦る。だって……息が。
 突然のプールダイブに息をきちんと吸い込めていなかった躰がぷるぷるし出して、我慢しきれずにとうとう口から大事な空気を吐き出してしまった。ごぼっ、と音がして、また目を瞑る。私は沖田くんに殺されるのか。理由は、何だ?ガリガリ君の恨み?ガリガリ君が理由でただのクラスメイトが殺したくなる程、彼はガリガリ君に骨抜きになっていたのだろうか。そんなに親しくしてこなかった事が、こんなところで裏目に出るなんて思いもしなかった。人生ってわからない。たかだか18年でこんな、ガリガリ君が理由で生きる道を遮断されるとは。そろそろ走馬灯というやつが回り出す頃かと思ったとき、また唇に何かが当たった。あの時みたいに固くはない。冷たくもない。今は水中だけど、多分水っぽくもない。パッと目を開けたら、丸い空色と目があった。3秒程見つめ合って、あっちがそれを終わらせたら、ぐいと掴まれたままの腕を引かれて水面に近づく。流れるようなキラキラを突き破って出た地上の空気を、精一杯肺に入れたらうっかりむせてしまった。プールの底に足の裏をくっつけて背中を丸めながらげっほげっほと咳をしたら「だっせェ」と笑われて。顔は見えなかったけど声が笑ってたからきっとそうだ。でも笑った彼は、沖田くんは背中をトントンと2回たたく。その手を私の眼前に持って行って、視界を遮る。

「どうでィ、頭ハッキリしたか」
「……とっても。(でもきっと良い子は真似しちゃいけないに違いない)」
「へェ、そりゃあ良かった。ハーゲンにガリガリ君ソーダ味追加で。」
「そんなに食べたらお腹壊すよ」
「俺をナメてんのかィ?」
「ナメてないよ。ただ注意を促してるだけで、」
「五月蝿ェ口だ。塞いでやろうか」
「……さっきみたいに?」

 沖田くんの掌がぴくりとふるえる。

「さっきって何の事で?」
「……そんなにわかりやすい知らんぷり初めてだよ」

 ふ、と笑ったら目の前の掌が外された。急に眩しくなってそのまま瞼を下ろして口も閉じたら、今の私は五月蝿くないのに文字通り口を塞がれた。どうやって?――――さっきみたいに。



ソーダアイス
(2012.11.14)
微妙な終わり方。最近の、よくあるハッキリ明言しない関係のはじまり方のようになってしまったけど、二次元においては嫌いじゃないです。
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