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古い本が好きだ。あのざらざらとした手触りの紙と、かさかさになってしまったインクの文字。少し霞んだ表紙と、ほつれてぼろぼろになってしまった栞の紐。大切に扱わなければたちまち風化が牙を向いてその本は形を崩していく。まるで「あなたがわるいのよ」と泣いてるように。失恋して傷付いた女子のように。
そんな扱いを一度考えてしまう古い本を、慎重に手にして触れることが好きだ。少しの緊張感とともに私は高揚とした気持ちになる。胸があたたかくなる。好きなものを手にいれたようなあの感覚。私は古い本が好きだった。
街の大きな図書館の、奥の奥のそのまた奥に古書エリアがひっそりと在る。図書館の入り口から入ってカウンターの前を突っ切り、右手の段差を一段上がった先の街の歴史の本が並んださらに先。一度本棚で道幅が異様に狭くなった先に古書エリアは在った。そこは古書が目的の人以外寄り付かないので、基本的にいつも閑古鳥が鳴いている。私は時たまそこに訪れて、ひっそり在る古書エリアのひっそり生きている古書を手にひっそりと触れては高揚とした気分を浸っていた。まるでそこは私の秘密の場所のようだった。知っている人は知っているし、たまに捜し物をして古書エリアを訪れる人はいる。私がそこに行くときに、他の誰かが居るときは勿論ある。だけれど、その場所は、私にとって限りなく『秘密の場所』だった。だってそこでは誰も私を知らないからひとりだ。独りだ。自分の空間だけだったのだ。
ある日突然、私の独りは終わった。とても良く晴れた日だ。古書エリアには硝子が障子のように正方形に区切られた、背が低く腰程度の高さの本棚に被らないような造りの不思議な窓が3つあって、そこから燦燦と太陽の光がそのエリアに降り注いでいた。本が日焼けしそうで、私はその場に足を踏み入れた瞬間カーテンを閉めにかかった。色味の薄い緑色のカーテン。しゃらしゃらと音を鳴らしながらカーテンを引っ張っていたら、部屋の隅に人が座っていることに気が付いた。古書エリアに来てから真っ先に窓に意識が行った為すぐには気が付かなかったようで。その人はエリアの入り口から見て反対の向こう側ではなく、入り口から横に見た先の隅に体育座りをしている。私は少し驚いて「わ、」と小さく声を出してしまう。瞬間訊かれてしまったのではないかと心配になった。私を驚かす気など無かったに違いないのだから。窓2つ分という中途半端に閉まったカーテンを手にしたまま固まった私はその人をじっと見つめてしまう。そうしたらその人は首が落ちるようにがくんと揺らして「んあ?」と力が入っていないような声を出した。そのままゆっくり頭を持ち上げて、真向か
いに居るこちらを、見上げた。目が、合った。ばちん。そんな音がするような小さい衝撃。その人は、その男の子は目がとても不思議、だ。瞬間的にそう思った。くるくるとした、瞳。
――――あ、吸い込まれる。
あるわけないことを思って、でもなんだか危険信号は私の頭を駆け巡って、脳内で赤いランプはくるくる回って、一歩脚を引いた瞬間その男の子はいきなり表情をへらりとゆるい笑顔に変えて、云った。
「なぁ、古い本好きなの?」
へらへら。そんな効果音だ、きっと。無害以外のなにものでもないようなゆるい笑顔を初対面の女に向けてしまうこの男の子に、危険信号を発していた自分が急に馬鹿らしくなって、今の今まで縋るような気持ちで掴んで離さなかったカーテンをあっさり手離して、自由だった手と合わせて臍あたりの前で組んだ。小さくふうと息を吐く。大また2、3歩先で体育座りをしていた男の子は「よいしょ、」と云ってしゃがむ体勢に変える。相変わらずこちらを上目で見る彼は、何だか楽しそうな雰囲気を放っている。何がそんなに、楽しいのだ。ふわふわした黒髪をゴーグルであげたような髪型と、くるくるとした目。色黒の肌。楽しそうな表情。以上のことからおそらく彼は、とても活発でこんな図書館のましてや古書になんて興味はなさそうだというのに。
空調が勢いを増して、クーラーのこうこうという音が少し大きくなった。目の前の彼の髪先が空調の風でふわふわと揺れるのを見て、そういえば何か質問をされたのを思い出す。想像以上に、私の声は頼りない。
「好き、ですけど……」
でも彼は私の無愛想で頼りない声にはおかまいなしで。
「やっぱりなー」
「、え?」
「お前、図書館来る度毎回此処にしか来てねぇだろ?」
「…………」
「この古い本ばっかのとこ!」
へらへらとしながら彼は私をびっくりさせる。組んだ手にきゅ、と力を込めて、一文字に引き締めた口も一緒に力を込める。
「なんで、知ってるんですか」
「あっ、待って俺別にすとーかーとかびこうとかしてないから!」
「あ、え」
「いやいやホントに!俺ん家が、あの、ほらそこの駄菓子屋の隣で、学校があっちだからチャリで毎日此処通んの!そん時に、って信じてないその顔!!!」
「えっ、え!?」
大振りなジェスチャーを繰り返していきなり立ち上がったと思えばこちらにぐわりと近寄って、折角閉めたカーテンをシャッと窓1つ分開けてしまった彼は窓から見える駄菓子屋さんを指さした。私はその指の先の駄菓子屋さんを見ながらも、ぴたりと彼の人差し指の腹は窓硝子にくっついていて、きっとこの指をどかしたら指紋がくっきり付いているに違いないということに意識が向いてしまう。それがバレる前にちらりと隣で少し息巻いている彼を見る。見上げる。彼は私より頭ひとつ分ほど大きかったようだ。座っているときでは気づかなかった。
「あの!駄菓子屋の隣!俺ん家!」
「あ、はいあの、瓦屋根の、」
「そう俺ん家!」
またへらりとこちらに笑って。
「んで、あっちが学校」
「……雷門の方ですか?」
「そうそう俺雷門のサッカー部!」
「サッ、カー……」
「サッカー好き?」
またまた、へらり。かと思いきや、彼の表情はキラキラキラー!と輝いている。嫌いと云った日にはこの輝きは失われるということがとうに想像出来た。しかし私はサッカーが嫌いというわけではない。だから素直に云えば良い。
「嫌いではないです」
「うわっ、微妙な云い方!でも嫌いじゃないんだよなー」
「そう、ですね」
思わず一歩足を下げてしまった。私の学校では居ないタイプの人で、こんなに馴れ馴れしい人は初めてだ。どう対処して良いのかわからない私は、視線をさ迷わせる。彼は頭の後ろで手を組んで、なんとこちらをじっと見つめた。口元は弧を描いているから機嫌はおそらく悪くない、筈。
此処でこんなに話し掛けられたのは初めてだった。図書館に来たとき私はいつも此処に居るけど、同じ頻度で此処に来る人なんて居なかったから、私のことなんて認識してる人は今まで居なかった。だから話し掛けられるなんて想像していなかった。大きく戸惑って、じわりと汗が滲む。空調は
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(2012.11.1現在)