まるでめおとごとのように(後)

 目を開けた。背中が痛い。仰向けで寝ていると背中に体重がかかって痛み、横を向いて寝ていると背中の皮膚が伸びて痛んだ。深夜に造ってしまった怪我。ではどうやって寝ろというのか。寝るなということか。そんなまさか!とひとり自問自答して阿呆らしくなり、大人しく俯せた。枕に顔を半分埋める。これがいちばん背中には優しい体勢だった。でもこれは顔が歪む寝方であると、先日くのたまの女子会話[がーるずとーく]で訊いたばかりであった。……この痛みと引き換えに顔を歪ますのか。なんてそんなこと今は云ってられない。おちおち寝ていられない程痛いのだ。自身で怪我の状態を見ていないのでどのような大きさであるとか、痣は出来ているのかとか、詳しいことは本日改めて保健室に足を運んでからということになっている。善法寺先輩からは「充分睡眠をとってから来てね。」と笑顔で云われてしまっているので、逆らった日にはとんでもない薬(良く効くけどかなり滲みるとか、良く効くけどとても苦いとか)を処方されてしまう可能性が無きにしもあらず。触らぬ神に祟り無し。保健室に赴く用事がある場合は、彼の云ったことには従うべきだと思うのである。だから私は「充分な睡眠」をとろうとしていた。とろうと、していたのだ。
 ギ、と。ほんの少しの軋む音。音の低さからして重めの何か。発信源は天井。そして音のバランスからして、ヒト、だろうか。私は目が“良い”分、耳での判断力が低い。だから自信は無い。でも恐らく、そんなに外れてはいないのではないかと思う。だって。

「くのたま長屋への許可の無い侵入の罰は表沙汰になっている内容より残忍だってことご存知ですよ、ねぇ」

 語尾の、尋ねた割に上がらない発音と共に投げた千本が半身より浅く天井に刺さっても、臨戦体勢として片膝立ちになった私の背後にもう居たのだから。――――誰が?

「知っているさ、だって何回も受けてるからな!」

 七松小平太が。

「何か、御用ですか」

 こうもあっさりと背後を取られては、くのたまの名が廃る。でもまだ屈服させられたわけではない。肩越しに、悠々と腕を組みながらこちらを見下ろす彼を見上げる。寝間着ではかなり分が悪い。でも云い訳などしてる暇は無い。常に身につけている千本の残りを確認する。加えて部屋にある隠し武器の位置の確認。そして七松の次の動きの予想。

「そんなに睨まないでくれ、別に手合わせしたくて来たんじゃないんだ」
「別に手合わせ目的で睨んでるわけではありません。云うなれば威嚇です」
「えー……私威嚇されるようなことしてる?」

 しまくっていますけど。という意味を込めて七松から目を逸らさないまま体勢を正面に変えて間合いを取った。起きぬけからの千本投げ、体勢の変更に寝間着は着崩れてきていた。煩わしい。前の合わせの乱れをそのままに目の前を見据える。時刻は恐らく午後の授業が始まる頃。……この人は授業に出なくて良いのだろうか。

「……授業、良いのですか」
「六年は今野外演習だ。大丈夫大丈夫」
「……何が、大丈夫……」
「私はお前の様子を見に来たんだ。長次にもちゃあんと伝えてきたから大丈夫!」

 中在家先輩はこの人の保護者なのだろうか。いや、そうだ保護者だった気がする。それは置いておいて、彼は今、私の様子を見に来たと云っただろうか。はて。腿のベルトから千本を右手に三本、隠したまま用意をして。

「私の様子?何故です。あぁ、そういえば体育委員会の皆さんが私を森から助けてくださったようで。……この状況でお礼を云うのはあれなので、また日を改めるということでいかがですか」
「礼など要らん!その代わり欲しいものがある」
「いやお礼は貴方だけにではなく……欲しいもの?」

 七松が組んでいた腕を解く。私は右手の千本を強く握り直す。いよいよ行動に出るのか。次の動きに目を凝らした瞬間、彼はいつもの明るい表情のまま、その欲しいものを声高々に口にした。

「お前が欲しい!」

 カーン。ヘムヘムの鐘が鳴った。まだ午後の授業は始まっていなかったのか。今のが本鈴だとすれば、目の前のこの人は本当に授業をサボタージュすることになったわけで。良いのか六年生。お疲れ様です中在家先輩。
 思わず千本を取り落としそうになって内心慌てて表面は繕う。しかし頭の中は加藤団蔵のような墨文字でいっぱいになっていた。

「……えぇと、あぁ。自分既に他の委員会に所属しておりますので体育委員会には、ちょっと、」
「違う違う!委員会は関係ない、私がお前を欲しいんだ」
「…………」

 理解が出来ない。何を云っているんだ、と思いもう一度理由を探して断ろうとして、固まった。あの目が、そこにあったのだ。真っ直ぐでぶれない、芯のある人の目。汚さなんか知らず、正しさしか知らない。そんな目が、そこに。私は一気に苛立った。躰の中が沸騰したように熱くなり、眩暈を起こした時のように視界がクラリと傾いた。いけない。このままでは。

「意味が、わかりません。やはり日を改めてこのことは、」
「意味なんかそのまんまだぞ。私がお前を欲しい。他に何がある?」
「……そうですねすみません。ですがあのやはり日を改めて、」
「今が良い。」
「……わ、がまま云わないで下さい」
「何をそんなに苛立ってるんだ?」

 目を見開いた。一応外見ではばれないようにしていたのに。あぁこれが六年生、か。なんて夜が明ける前にも思った気がする。でも私はしらを切る。切り通さねばならない。掌に汗をかく。眉間にシワが寄ってしまいそう。ああぁ、もう、。右手がふるふると震え出す。

「気のせいですよ。もし苛立っているとしたら、それは七松先輩が我が儘をおっしゃるから、」
「理由はそれじゃないだろう。だって、」

 嗚呼、もう駄目だ。私のざわざわした心とは対照的に、七松は口の端を上げて云った。

「右手の千本、揺れてるぞ」

 一瞬だった。足を踏み出して弾かれたように跳ねて、右手を薙ぎ払うようにして千本を投げた。七松は目を光らせて身を屈ませてそれを難無く避けて。私はそのまま踵落としを決めようとしてでも無理だった。云い訳をしよう相手が悪い。口の端をさらにぐいと上げて笑った七松は宙に浮いたままのこちらに猪みたいに突進して体当たり。七松の肩が私の腹に入った。――――実家の犬を思い出した。でも私だって、このまま終われない。苛々が冷静な私をどこかに追いやっているのだ。躰の流れと体重移動を利用して、自分の腹に入った肩を抱えるようにしてそのまま躰を捻り、彼を下にして全体重をかけて畳にたたき付ける。多少効いたのか数回咳込んで、七松は表情を消したけどあの目は変わらないし抵抗しない。馬乗りになってそのまま膝で腹を押さえ付けても、結局あの目は変わらないのだ。あの大嫌いな目は、私を見つめる。

「やめろその目で見るな!!!」
「なんで。私の目が嫌いか」
「あぁ嫌いだ、大嫌いだ!そんな目……っなんにも知らないくせに!」
「じゃあ教えてくれ、私は何を知らないんだ?」

 畳に後頭部を擦りながら七松は首をかしげる。先程の衝撃で髪紐が切れたのか、結んでいない量の多い茶色の髪が、彼の首筋をさわさわとくすぐっている。いつものあの溌剌とした笑顔は無い。いつか見た、真剣さを醸し出す、少し細めた目がこちらを見る。いつだって真っ直ぐだ。こんな状況でも、こんな状況なのに、七松は劣勢なんかじゃない。マウントポジションは私なのに、精神的には彼が優勢なんだ。私は下唇を噛み締める。そうしたら彼は右手で私の唇を撫でる。

「駄目だそんなことしちゃあ」
「なんでお前にそんなこと云われなきゃならない」
「また舐めたくなるだろ?」
「……は……?」

 私は眉間にシワを寄せつつ、七松はあっけらかんとしたまま「は?」という表情をお互いが浮かべる今、誰かがそこの障子を開けたら盛大に勘違いするだろう。でも今はそんなことどうでも良い。七松の発言がおかしいのもどうでも良い。全部が全部、どうでも良い。七松の手を首を振って払いのける。

「そんなことどうでも良い。」
「どうでも良くない。男は欲に忠実なんだ」
「低俗な生き物だな」
「そうだなぁ男は下品だ。だがそれだけじゃあないぞ」
「へぇ、何。訊こうかその“それだけじゃない”こと。なんだって云うの」

 このとき気付くべきだった。相手の調子に乗せられていること。そもそもさっきもわかっていたのに、早々に武器を手にするべきだった。はなっから、七松は手を抜いていた。だってほら。
 世界は回る。私の背中はもう天井を向いてはおらず、畳と仲良くしている。右の肩も畳に押し付けられて、頬には彼の量の多い髪がかすってる。別に熱を測るつもりなんてない癖に、肘をついた右手は私の額に乗せられているのだ。

「教えてあげようか」

 七松はそこでやっと笑う。でもあの、人が好む溌剌とした笑い方ではない。奥のある、厭に艶っぽい笑い方をした。しやがった。知りたくなかった。この人がこんな、夜のような笑い方をすること。顔が近い分、見たくなくても見えてしまう。視線を外したら、額に乗っていた手に力が入ったのがわかった。一瞬、恐怖する。

「怖がる必要はないよ別に痛くするつもりはないから。でも、どうした?さっきの威勢はどこ行った?……って意地悪を云うのは仙蔵の専売特許だな。私は専門じゃない。話逸れたけど、もうわかった?」
「……何、が」
「男は下品だけじゃないって」
「…………最低なことは、わかった」
「あー悪いな!肩痛いか?」

 悔しいかな涙が滲んできた。押さえ付けられた右肩が痛いのもそうだけど、力の差をまざまざと見せつけられて、だからくのいちには“色”が必要なのかと。とうとう涙は目の縁から落ちていく。七松には絶対に見られなくなかった。自由な左腕で顔を隠そうとした。なのに、それすら駄目だと彼は手首を掴んで畳へと戻すのだ。左手首が彼の力でキシキシと云っているような錯覚を起こす。なんだって、云うんだ。

「なに、なんで。どうしろっての」
「質問の答え」
「だから最低なことは、」
「ぶー。はずれ。はい次」
「……馬鹿力」
「あー惜しい!もう一声!」
「…………くたばれ。」
「遠退いた残念、時間切れだ。答え、知りたいか?」

 どうでも良いんだけど、なんて答えたらどうなるんだろう。語尾はきちんとあがってる訊き方なのに拒否させるつもりはないように感じるのは、間違いじゃない気がする。涙が止まらない嫌だ見られなくないでもどうしたら。苦し紛れに顔を背けたら目の前の彼がぺろりと目尻を舐めたりするから、フラッシュバックした。深夜。保健室。暗がりでの、あれ。

「あの時、の、夢じゃ……」
「あの時?……あぁ、これのとき?」

 これ、と云って首筋に顔を埋めた七松は包帯の上からあの時痛みを感じた場所をやんわりと噛む。血が逆流したような錯覚を覚えて、心臓が五月蝿くなった。爆発するみたいだ。私の心臓。

「欲しい人の血を見たら、舐めたくなった」
「……何を云って、」
「お前、任務中に首をやられただろ。そこから血が出てた。お前を運ぶ時にそれに気づいて、保健室に寝かせてから下級生達と一度離れた。誰も居なくなったのを確認して戻って、」

 あぁなった、と。七松の目は艶を持ってじわりと光っている。

「血を舐めたら興奮してきて、そのままやっちゃおうかと思ったんだけど」
「…………」
「やめた。ちゃんと云いたかったから。でも断られたしなんか凄い嫌われてるから、実力行使する。これが、さっきの答えだ」
「……え?」

 七松はまた、夜みたいな笑顔で云った。

「力ずくでも手に入れる、ってこと」



まるでめおとごとのように
あのけものがむさぼるような

(2012.2.13)
title:hakusei
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