まるでめおとごとのように(前)

 あの人の目が嫌いだ。いつだって考える。真っ直ぐでぶれない、芯のある人の目。汚さなんて知らない。正しさしか知らない。あの人の目が嫌いだ。あの人が、嫌いだ。

 深い深い森を走っていた。湿気の多い、濃い緑の森だった。踏む度にしゃくしゃくと鳴る湿った落ち葉と土は脚を取られて気分が悪い。木々の枝と枝を跳んで行こうかと考えたけれど、体力を使うから地面を選んだらこれだ。やはり枝を選んだほうが良かったか。でも帰路で体力を使うのは……何があるかわからないし。
 授業の延長の、任務の帰り道だった。深い夜は脚が速くなったような錯覚に陥る。夜目が利く私の目は便利で、その分要らないものまで視えてしまうからやっぱり便利とは云えないのかもしれない。木の影や枝葉の隅でモヤが蠢く。……この時間はアヤカシが多くて困る。惑わされないように、真っ直ぐ前だけを見ていたら、思い出した。あの人。――太陽のように周りの人の視線を集める、自分自身の目は真っ直ぐ前を見据える――、一瞬思考が寄り道をした途端、すぐにそれは躰の動きに出てしまった。木の根に、足を取られたのだ。弾かれたように躰が宙に浮いて、浮いた躰はそのまま右肩が下になるように反転して、木の幹に背中から激突。ド!と重い音がした、気がする。激突した瞬間は耳が塞がったような感覚があって実際はきこえたのかきこえていないのか定かではないのに、あぁ五月蝿い、と思った。息が一瞬止まる。地面に落ちる。受け身なんて取る暇はなかった。



◆ ■ ◆



 昔、犬を飼っていた。ほぼ野良だった為飼っていた、というには語弊があるけれど、朝昼晩と飯を共にした記憶があるのだ。飼っていたと云っても嘘ではない筈で。その犬はやや大型で、ことあるごとに体当たりをしてきた。気分が高まると尻尾をちぎれんばかりに振って体当たりをしてのしかかる。その体当たりの対象はだいたいが私だった。近所のおじさんがよく云った。「おう、わんころでもわかるんだな!可愛い女の子はこの中で誰なんだって」それはどういう意味だ。犬に求愛されているとでも。よくご飯をあげていたのが私だからいちばん慣れているだけであって、決して求愛などではない。そう、体当たり後マウントポジションを取られて、顔やら顎やらをべろべろと舐められる最中思っていたのだ。
 そんな昔の夢を視た。目を開けたら視界がぼやけて、今何処に居るのか、どんな体勢なのかが一瞬では理解が出来なかった。躰が重たい。何かに押さえ付けられているみたいだ。金縛り?最近疲れていたから、躰が限界だと訴えているのかもしれない。そこまで考えて、金縛りの、躰の疲れで起きる方ではない方の説が有力な気配があった。ぼやけた視界に、人影が見えたのだ。反射的に瞼を下ろしてしまった。心臓が一気に活動を速める。頭が真っ白になりかけた。目が“良い”私はよく“視える”けど、金縛りにはあったことがなかった。金縛りになっても視えたことがなかったのだ。まさか、今、この自分が居る場所もよくわからない状態で金縛りだなんて。パニックで流れそうになる思考を一所懸命押し戻して考える。とりあえず相手の確認をしなければならない。正直、怖い。怖いけどこのままではこの先何をされるかわからない。ましてや“ヒト”ではないかもしれない相手だ。浅く鼻から息を吸い、止める。ゆっくりと瞼を上げて、目線を影の顔と思われる辺りに移した。だんだん澄んできた視界でわかったのは、暗い部屋。灯りが点いてないようだ。そうして夜目が利く視界に見えたのは、まさかのあの人の顔だった。止めていた息を呑んだ。目を見開いた矢先、その人は私の首筋に顔を埋めた。途端ピリ、と小さな静電気のような痛みを感じた。その人が起こした痛み、?なんだなんだとさらにパニックになっていると、執拗に同じ場所を刺激していたその人は顔を上げ、目が、合った。しまった、と思った。気付かれた。でもそれはいけないことだろうか?そうだろう、起きたことに気付かれなければ隙を突いて逃げ出せたかもしれない。――――逃げる?今逃げなければならないことをされている?
 パニックにパニックが重なって、正しい判断が出来なくなっていた。そうしたらその人は、いつものその人からは想像出来ない薄く笑うという表情をつくって、私の唇をひとつ舐めた。そのまま舌で唇を割って上と下の歯列をすり抜けて、頬の内側や舌を撫で付ける。何で。その人自身の舌で。なんでこんなことになっているのだ、と兎に角離れたくて腕を持ち上げようとしたところでそれは叶わなかった。両手を頭の上で一箇所にまとめあげられていたのだ。何処の春画だと冷静に思いながら、その冷静さは現実逃避のひとつで、実際は脚を人の急所に当ててやろうともがいても上手くいかずに余計パニックを起こしているだけで、要するに今の私は正常ではなかった。口の中を撫で付けている舌は先程のようにピリピリとした刺激を生んでいて、それは血の味がした。何故?と不思議に思いながら、強く目を瞑って早く終われと願っていた。願っていたのだ。それからその人の掌が私の腰から上へと這って、胸に到達した。これから起こるであろうことを想像して、何故私なのかとか、単なる虐めか辱めなのかとか、明日には忍たまくのたまの笑い者になるのかとか、そもそもこれは現実なのかとか、いろいろな憶測を立てて、早く終われと心から願っていた。



◆ ■ ◆



 見えた天井に、それが木目でいつも見ているものだと理解した途端頭が一気に覚醒した。がばりと躰を起こしたら、背中に鈍い痛みが走ってうずくまる。うずくまってもなお背中が重くじんじんとするので、ゆっくりと丸めていた背中を起こして深呼吸した。深呼吸すら刺激になるようだった。ただ、背中の皮を引っ張るような行動よりはだいぶマシなようだ。
 現状把握をしたかった。此処は忍術学園の保健室だ。いつ、帰って来たのか。そして先程のアレは、夢だったのか。首筋に走ったピリピリとした痛みの正体を知りたくてその場所と思われる辺りに触れた途端、布のような手触りにびくついた。これは、包帯?……だいぶ私は臆病者に成り下がったようだった。自身への嘲笑をひとつ零した途端、視界の端の戸が静かに開いた。

「あ、起きたんだね。気分はどう?」

 戸を開けた人物は、この保健室で彼に意見出来る者は新野先生くらいだろうと噂される六年の善法寺伊作先輩だった。私はじっと寝間着姿の彼を見据えた後、「良好です」と答えた。でも彼はいつものように眉尻を下げて微笑んで「そうは見えないなぁ」と云う。じゃあ訊くな、なんて子供みたいなことは云わない。保健室には灯りが二つ、点いていた。彼は持っていたらしい網籠から保健室入室直後、入口近くの壁の薬棚へと薬草を次々しまっていく。灯りが点いてるとはいえ、それでも灯りが届かない部屋の隅だから蝋燭をさらに焚いている最中、良くテキパキと振り分けられるなぁと心の中で(先輩相手にも関わらず)感心してしまった。
 善法寺先輩に訊けば、私は任務の帰り道に倒れていたらしい。そういえば、そうだった。アヤカシに気を取られて、転んだ拍子に。自分の注意力散漫さに嫌気がさした。さらにその先のことを訊いて、さらに嫌気がさすことになる。

「君を運んでくれたのは体育委員会だよ。あとでお礼をしに行かないとね」
「……体育委員会?」
「うん。夜通しで走ってたらしくて。君を見つけてからは切り上げて、学園に戻ってきたみたいだね。云い方は悪いけど、下級生からしたら君が倒れていてくれたお陰で夜通しランニングは無しになって安心してたよ」
「……そうでしょうね」

 そうでしょうとも。下級生に夜通しランニング回避の理由にされたことは別になんとも思わない。むしろ良かっね、と一緒にため息をはきたい。それはいい。どうでもいい。問題は。思わず掛け布団をぎゅ、と握り締めた。

「あ、あの、」
「あれ?」

 私が話を切り出した途端、薬棚に全ての薬草をしまい終えた善法寺先輩が振り向き様のような体勢でこちらを見つめて不思議そうな声をあげた。思わず「えっ」と小さく声を零すと、こちら一点を見つめたまま彼はずんずん歩み寄る。思っていたよりもつり目の彼は、私が寝ている布団の脇まで来て膝をつくと、スイと片手を持ち上げてその手を近寄せる。うっかりびくついた途端、その手は首に触れた。そして云う。「これ、自分で巻いたの?」私は素っ頓狂な返事をする。

「……え?」
「いや、この首の包帯……僕巻いた記憶ないから」
「い、いえ。自分はついさっき起きましたので」
「……ふうん。御免、ちょっと良い?」

 反射的に頷くと、微笑んだ善法寺先輩は巻いた記憶にないと云う私の首の包帯を解いていく。するりするりと解放されていく首に妙な安心感を感じながら、目の前の善法寺先輩を見つめた。保健室の二つの灯りの効果でなのか、いつもより優しさというか、柔らかさが無いように見えて、しまった。これが最上級生。おかしな納得に意識を別の場所に飛ばしかけて、引き戻される。善法寺先輩が包帯を解き終えて首を一回り確認したのち、動きを止めて、笑ったのだ。首を少し傾けて顎を上げる体勢だった私から見えなくともわかる、小さく吹き出すような、そんな笑い方。楽しさからよりも、呆れるような。「有難う、良いよ」と確認終了の合図に首を戻しながら私は問うた。

「なにか、ありました?」
「うーん……なんていうか……、あ!酷い外傷とかじゃないよ。安心して。一生残る跡ではないよ」
「あ、はあ……」
「あぁでもこれは巻いておこうね。悪い虫にいじられちゃうから」
「わ、わるいむし?」

 そう、あとこれに関しては僕からお灸を据えておくね。朗らかに笑った善法寺先輩は一度天井の隅を見上げてから、こちらに向き直りまたするりするりと首に包帯を巻いていった。なにやらよく理解出来ぬまま、その日は一日自室で休めとのこと。何より背中の痛みが酷く動きづらい今、有り難い言葉だった。今更になるが時間を訊けばもう日の出の頃らしい。私は善法寺先輩の「部屋まで送って行くよ」という優しい言葉をやんわりと断って、ゆっくりと自室へ帰って行く。自分の躰をよく見たら、保健室にあったであろう仮の寝間着を着用していて、任務帰りであったのに躰はほぼ綺麗になっていた。(泥やその他汚れが無いということ。)(擦り傷や浅い切り傷には傷薬、深めの切り傷には包帯が巻かれていた。)恐らく善法寺先輩があらかた治療の為に拭いてくれたのだろう。……治療の為だ仕方ない。しかし拭いてくれただけでは女としてあれなので今から風呂に向かおう。湯はきっと冷めている。冷めていても仕方ない。そう、仕方がないのだ。
 だから、アレは夢ということで片付けることにするのだ。そうして夢の中で昔の夢を視たのだ。私は夜目も利いてアヤカシも視えてしまうほど目が“良い”のだ。だから仕方ない。仕方がないのだ。



】に続く。
(2012.1.3)
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