雨の檻から飛び立って、見えた世界は清々しい。

 天気予報は見ていた筈だった。それでも私は、天気予報を見たあとにやった洗濯やご飯の支度、そして今日の服選びですっかりうっかり忘れてしまったのだ。今日が午後から雨だなんて。
 駅から少し離れた喫茶店の軒下で雨宿りをしている。降り始めは梅雨の時期のようなしとしと雨で、気が短い人は少し苛々するような柔らかい雨の降り方だった。これくらいなら少し走って駅に飛び込んで行ける。そう思って駆け足用意!とふくらはぎに力を入れた瞬間に、突然。本当に突然、空から大きなバケツをひっくり返された。という表現がきっと当て嵌まるように雨脚が強まった。私は驚いた猫みたいにひとつ跳び上がって、近くにあった喫茶店の軒下に飛び込んだ。飛び込みたかったのは駅で、喫茶店ではなかったのに。でも、そうもやもやしていられないほど、この地面のコンクリートを叩き割るのではないかと疑うほど強く降り出してしまった雨に私はびっくりして呆然としてしまっていた。口を半開きにして、軒を介して空を見上げる。空はくすみにくすんでいて雷が鳴りそうな色をしていた。「うわぁ」という情けない声はその半開きの口から小さく零れ出て、髪から滴る雫と一緒に地面に落ちて雨水に溶けた気がした。濡れ鼠とまではいかないにしてもそこそこ雨に打たれてしまった躰はしっとりしていて、寒い。背負っていたリュックからハンドタオルを取り出してまず頭から拭いてみた。頭のてっべんからタオルをかけて優しくわしゃわしゃしたあと、髪をタオルで挟んでぎゅっと握る。それをあらかた繰り返して次はコートだ、とマフラーを外しにかかったとき、隣にいつの間にか人が居る事に気がついた。頭にタオルを乗せたまま、そのタオルの向こうに人の脚が見える。ちらりと右隣を見たら、今はどんよりくすんだ雲に隠されてしまっている空のような色の頭、の男の子。その人は頭も学生服も鞄もびっしょりで、髪からはぽたぽたと雫が落ちていた。それがまた彼の肩を濡らしていて、でも彼は何もしない。びっしょり濡れてるナナメ掛けの鞄からタオルを出さないし、頭を振って濡れた頭を乾かそうともしない。私はうっかり、うっかり右隣の男の子をタオル越しに見つめてしまった。だって、だって。空色の頭の子は、こちら側の髪が長くて表情は伺えない。この子は今、どんな表情をしているんだろう。

「あの」

 誰がいちばん驚いたって、私がいちばん驚いた。半開きリュックを片方の肩からかけたまま、頭にタオルをかけたまま、私は隣の男の子に声をかけた。男の子はくるっとこちらを見て、少し見上げる。彼は私より幾分背が低かった。三白眼の右目がこちらを見上げる。色黒の、男の子。

「……なんすか」
「えっ、あ、えー、と」

 なんすか、と云われて、慌てる。何しろ声をかけるつもりなんてなかったのだから。喫茶店の軒の端っこからぼたぼたぼたーと溜まった雨水が流れ落ちるのが視界の端に見える。いっそ私もその雨水に流れてしまいたい。自分から声をかけておいてこれだ。男の子は目力が強い。少し怒ってるように見えた。でもそう見えるだけのようにも見える。私が迷っている間にも、目の前の男の子の髪先から滴る雫を見て、咄嗟に頭にかけてあったタオルを握って、前に突き出した。淡い黄色の、手触りが良くて買った、長めのハンドタオル。勢い良く腕を突き出したものだから、男の子は少しびくついた。

「こ、これ!使ってください!」
「……は?」
「あ、ちょっと私今使っちゃったんですけど。でもそんなに濡れてませんし。それに君の方が非道い有様です」
「……いや、別に、大丈夫なんで」

 男の子は私が突き出したままの手に握るタオルを一瞥してから少し眉間にシワを寄せて断りを入れた。そりゃあそうだ。見知らぬ人から物を貰っちゃいけません、とご両親から耳にタコが出来るくらい教わっている筈だから。彼は制服と鞄からしておそらくこの近所にある雷門中の生徒さんだと見受けられる。学校からも見知らぬ人からは云々と常々云われている筈だ。でも。でも、だ。

「だ、駄目」
「な、……え?」
「君、そのままじゃ風邪引いちゃう。せめてざっとで良いから頭拭いてくれませんか」

 なんだかほっとけない気持ちになった。それは彼が年下だからだろうか。私より背が低いからだろうか。それともこの天気のせいだかろうか。それとも、他になにかあるのだろうか。
 ぐい、と私は男の子に詰め寄って、男の子は一歩身を引いた。彼は驚いたように目を見開いて、自然と躰の前に腕を出す。ゆるく自身をガードするように出された片腕に少しショックを受けつつ、その無意識の行動は当たり前だと納得させながら、彼の空色の頭にタオルをかけた。「うわっ!」男の子は叫ぶ。

「だから!要らねぇって!」
「貰っておいてくださいよ。または貸しでも良いです」
「か、貸しって……俺あんたのこと知らねぇし!」
「苗字名前。成人済み。元雷門中生徒」
「……先輩、だと……!?」
「余計断れないでしょう。ね?貰っておいてよ」

 これも何かの縁だから。云いながらタオルの端と端を掴んで、男の子の頭を押さえるように下に引っ張った。少し「ぐ、」と云った彼はこちらを上目遣いで見上げる。少し、睨んでる。少し怒ったかな、なんて思ってその手を離したら、今にも渡したタオルを投げ返して来そうだったので私は走り出す。雨脚は弱まってない。でも良いや。濡れ鼠覚悟で軒下から走り出て、少し振り返ったらどうにも悔しそうな男の子の顔が見えた。私は嬉しくなって「またね!」と云った。逢えるかどうかなんてわからないし、知らない。でもこの街に住む私と、この街にある学校に通う彼なんだから、逢おうと思えばもしかしたら逢えるのではないかなんて、今の天気とはまるで反対の大変清々しい楽観的な考え方をして、駅まで走って飛び込んだ。



雨の檻から飛び立って、見えた世界は清々しい。



 空色の頭の男の子の、片手で持ってたビニール傘には気付かないふりをした。



終。
(2012.2.8)
実は、というか『雨の檻。』のつづき。このつづきも書けたら良いなと思いつつ。
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