悲劇のヒロインには程遠い。

※年齢操作:成人済みです。



 シャキ、と。やや水分を含んだものを切る音は少し美味しそうだなと思いながらも、その後に続く金物同士がぶつかる音は、中学生の頃、机に広げていた物を慌てて中央に寄せ集めた際に、広げっぱなしの鋏を閉じてしまって指を切ったことを思い出させた。あれは痛かった、と全身ぞわりとさせながらその思い出を振り払う。痛い思い出はなるべく思い出したくないものです。
 髪を切った。腰あたりまであったストレートの髪を、ショートにばっさりと切った。切って貰っている間、目の前の長方形の鏡をぼんやりと見つめ、美容師のお姉さんに三度云われた「勿体無いなぁ」を「ですよねぇ、でもお願いします」で受け流し続けて、最後にワックスでセットして貰って、今。美容師のお姉さんは頬に手を添えて残念そうに云う。「あーイケメンになっちゃった」私は苦笑いで答える。「なんですか、それ」今まで座っていた椅子の周りに散乱している長い付き合いをしたモノを見下ろして、心の中で別れを告げる。

(今までお世話になりました。)

 今日はとても寒いから、ロングマフラーを隙間なんか無いようにぐるんぐるんに巻いて後ろで結んだ。Pコートの中はロングTシャツ、その中にキャミソールを着て、背中と腹に貼るホッカイロを装着。下はトレンカの上にぴったりめのズボンにスニーカー。可愛いげはあまり無い。動きやすく且つ、寒くないような格好を目指した結果がこれだった。髪をスッキリさせた後に私が向かう場所に、可愛いげなんて不必要なのだから。
 空はどんよりとしていて折角スッキリした頭とは正反対のように思えた。でもなんとなく親近感が湧いてしまう。マフラーに口元を埋めたまま空を仰ぎ見て、うもうもした雲の底を眺める。それはどこまでもどこまでも向こうの空へ続いていて、このまま一生晴れないのではないか、と馬鹿らしい錯覚を起こした。そんなわけないのに。視界を前に戻して、黙々と歩く。いつも聴いている音楽は、今は要らない。昔自分の声が嫌いだったという女性の歌も、何万人というファンが涙したという男性の歌も、今は要らない。今の私には、要らないのだ。


◆ ■ ◆



「なー、俺らってサッカー部だったよね?」
「うん」
「なんでバッティングセンターに来てんの?釣りで良くね?」
「サッカー部のくだりはなんなんだとかツッコミ期待しないでよね私倉間じゃないんだから」

 カキーンという清々しい音が少し遠くにきこえて、斜め前を見たら誰かが結構飛ばしたらしい。ホームランとまではいかなかったらしく、白い球は穏やかな弧を描いて地に落ちた。三、四回跳ねた球はころころと転がってやがて止まる。まるでそれを合図にしたように、私は金属バットをバット置き場からガリガリと引き抜いた。そう、私はバッティングセンターに来ていた。ひとりでではない。中学生のとき、同じ部活だったこの浜野海士とである。(ちなみにあのゴーグルは新調したのか、バイク乗り仕様のようなものになっていた。)先程釣りで良いではないかとのたまった彼は、緑の網の向こう側・隣のブースで少しゆるったいジーンズのポケットに親指を入れて、あの目でこちらを見つめていた。振り返りつつ「なに」と問う。

「なんでも〜」
「そのへらへら変わらないね浜野くん」
「苗字もそのむっすり変わんねーなぁ」
「むっすり?」
「機嫌悪いわけじゃないのに、機嫌悪そうに見える表情とか」
「あぁ」

 今でもよく云われることだ。表情筋が固いのか、私は機嫌悪そうに見えるようで、よく「なんか怒ってる?」と云われる。時折話が悪い方に転ぶから気をつけていたのに(目上の方からは生意気に見える、など)、この男に久しぶりに逢ってから緊張が緩んだらしい。緩んだ割に表情は固いとか、どっちかにしたら良いのに。
 少し遠くのディスプレイでピッチャーが構えた。私は金属バットを一度肩に当てて、離して、構える。ディスプレイのピッチャーは白いユニホームだった。中学生の頃、サッカー部のセカンドチームのユニホームも白基調だったなぁ、なんて考えて。考え終わった頃にはディスプレイのピッチャーは球を投げたあとの格好で、私は一球見送るかたちとなった。ボスン、と右の方でネットに球がぶつかった音。後ろから浜野くんの声。

「見送り〜」
「次は打つ」
「おー。そっか」

 多分彼は毒気無く笑ったんだろうな。そう思ってバットをギュ、と握りしめる。浜野くんとは部活が同じというだけで別段特別な関係とやらではなかった。ただ少し、例えば私の中で速水や霧野よりも仲が良かった、というだけで。じゃあなんで、卒業して六、七年ほど経った今一緒に居るのか、って。少し遠くのディスプレイ、白いユニホームのピッチャーが、振りかぶる。

「女の子は髪切るって都市伝説じゃなかったんだなぁ」

 ぶぉん、と空気を切る音。ボスン、とネットに球がぶつかる音。「空振り〜」、ニヤニヤしたような浜野くんの声。どっくんどっくん、私の心臓の音。
 脱力したようにバットを手にぶら下げて、振り返らないまま前を見据えて口を開く。前を見据えてる筈なのに何処か、視界がハッキリしない、気がする。普通に出したつもりの私の声は、なにやらふらふらしていた。

「何それ。なんの話?」
「失恋したら、女の子は髪を切るってやつ。苗字ずっと伸ばしてたんだろ?」
「何、見てたの?髪切ってるところ」
「見てない。呼び出された待ち合わせ場所で久しぶりにお前見た」
「じゃあなんで知ってるの。髪長かったこととか、」

 失恋というやつをしたこととか。
 馬鹿らしかった。「失恋」なんて言葉をうことが。そんな青春めいた言葉を成人した女が使うなんて。恥ずかしい。バットを握る力が強くなる。金属のバットが冷たくて、指が痛くなる。いっそこのままこのバット、折ってやりたい。またしても現実的じゃないことを思って、息を長く深く吐いた。落ち着け、落ち着け。そう冷静になろうと懸命になっているのに、この男は空気を読めない。いや、読むことをしないのかもしれない。もしくは、読んでるのかもしれない。わざとかも、しれない。

「髪を伸ばしてたんだなーって思ったのは、何度も髪を耳にかけようとしたり、片方の肩にまとめようとしてたから。ずっと短かったんなら、そんなことしないんじゃねーかなっと。あと少し、床屋行った後の匂いがしたし」

 この男はそういえば、勘とか洞察力とか、そういったものが鋭いやつだったことを今、思い出した。昔は意外だな、くらいしか思ってなかったけれど大人になった今、それがとても怖く感じた。全部見透かされているような、何にも云ってないのに全部知られてしまったような。でもその反面、感じることがある。それは、安心のような、肩の荷がおりたような、そんな。
 背後からじゃり、と小石を踏む音がする。

「あと、失恋したんだなって思った理由、訊く?」
「訊かない。」

 振り返りながら、たぶん私はうらめしいようなバツが悪いような顔をしてると思う。そうしたら浜野くんは、少し困ったように笑っていた。一歩こちらに近寄って少し前屈みになる。新調されたトレードマークのゴーグルが、緑の網にぶつかる。ゴーグルの下に巻いてあるバンダナみたいなものの色が、深い青で外国の海のようだった。あぁ彼らしいなぁと、今のタイミングではないのに思ってしまった。

「なぁなぁ俺を呼んだ理由は?」
「特に無い」
「ひっでー!じゃあ他のやつでも良かったじゃん!」
「……それは違う」

 それは違う。はっきり云える。なんでだろう。目を少し見開いて、緑の網越しに浜野くんを見つめた。浜野くんはそれに気がついて、私と目線を合わせるように膝を折る。彼は知らない間に背が伸びていた。当たり前だけど、当たり前なのに、それが淋しいような感動的なような、妙な感覚になって。そういえば私はなんで、浜野くんを、浜野くんでなければならない理由は、浜野くんが、なんで、?
 浜野くんが大人が微笑んだように目を細めた。そんな技を彼は、私が知らない間に会得していたのだ。

「なぁ、期待して良い?」
「期待?」
「……期待するからなー」
「……うん」

 本当に? 本当に。
 私の背後でまたボスン、と音がした。きっと白いユニホームを着たピッチャーが白い球を投げて、また私は打たずに見送った。違う。見送りもしていなかった。一度も打ち返すことも出来ず今度は見送りもせずに、知らない間に大人になった友人に対して知らない間に持っていた感情に、ぐらぐらと揺れている。
 少し遠くでまた、カキーンという清々しい音が、きこえた。



悲劇のヒロインには程遠い。
(2012.1.26)

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