雨の檻。鍵を開けるのは、

 冬の雨は至極痛い。ましてや今、風が吹いている。制服のスカートとハイソックスの間、露出した部分は冷えすぎてもう真っ赤になっていた。じわじわとした感覚が膝の上を襲っていて、そこから骨までがべろりと剥がれ落ちる想像をした。でも私は、そんな光景を実際見たことは無いから、きっと本物はもっと、もっと、おぞましいんだろう。このカーディガンの袖から出てる指先も真っ赤だ。ぼわぼわと腫れて中身がぐるぐると回るような感覚がずっとあって、気持ちが悪かった。そして、この冬の雨の下、傘を持っているのに差しもせず、渡り廊下の端っこから向こうの空を眺める私も、きっと気持ちが悪かっただろう。

「お前、なに、して」

 ざあざあざあざあざあという雨粒が出す音に紛れて細いけどしっかりした声がきこえた。いつもならもっと張りがあるのに、雨音のせいで穴ぼこだらけのようだった。すっかり濡れて額や耳や首に張り付いてぺったりとした髪の毛の煩わしさを感じながら声のした右の方へ振り向けば、透明のビニール傘を差した倉間が少し驚いた表情で立っていた。3メートルほど先まで近づいていたことにまるで気づかなかった。それはきっとこの五月蝿い雨音のせい、だ。
 倉間は驚いていた右目を少し、細めた。眉間にシワを寄せ、口は横に引いて奥歯を噛んだような形になった。じわりとそうやって変わっていった表情を、私はなんとなく見届けて、彼から視線を外す。渡り廊下の白い床を、意味も無くぼんやり眺めた。多量の雨水のせいで水捌けが追いつかず、ほんのり浸水状態の渡り廊下の床。打ち付ける雨粒に表面は整わない。荒れている。落ち着かない。

「その傘、壊れてんのか」

 倉間は質問の割りには訊いていると云うよりチェックシートを確認するようにこちらに尋ねた。

「壊れてない」
「馬鹿じゃねぇの?さっさと差せよ」
「要らない」
「要らないわけねーだろ!自分の状態鏡で見てみろよ!そうでなくてもわかんだろ寒いだろ!?」
「寒くない」
「はぁ!?そんなわけ、」
「寒くないの、さむく、ないよ」

 私の声は倉間の声より小さいのに、倉間はそれきり黙ってしまった。わけのわからない女だと認識されただろうか。それでも今はそれで良かった。今は、このまま怒って帰って欲しかった。いつもみたいに舌打ちして「つき合ってらんねー」って云ってそのまま自分の家に帰っちゃって欲しかった。それなのに、どんどん雨脚は強まっても倉間はその場から動かない。倉間の足元を何気なしに見てみたら、当たり前だけれど雨の跳ね返りで制服のズボンの裾の色が変わっていた。その変化を見た瞬間、急に責任を感じる。勝手な自己嫌悪。まったくもって、自分勝手な。私は倉間の目を見た。倉間はまだこちらを見ていて、少し眼光を強めた。私は口をゆっくり開いた。のに。

「くらま、あし、が、ぬれて、」
「何云ってんのかわかんねえ。もっとちゃんと喋ってくれませんかねぇ」
「…………」

 躰が冷えすぎて、口が上手くまわらなくなっていた。多分、私のくちびるの色は悪いだろう。確認する術はないし、倉間に訊くつもりもないからそれはどうでも良かった。まずは、倉間が挑発的に返した要望に応えようと、一度口を引き結んで目をぎゅ、と閉じて顔の筋肉を少しほぐしてから、再び口を開く。こんなのではさほど効果は無いけれど、やらないよりはマシな筈で。私は持っているだけだった傘を、渡り廊下の欄干にかけた。今見ると目が醒めるような黄色い傘。小学生よりも、月を思い出すような黄色の。

「……くらま。」
「……何。」
「せいふくの、すそ、ぬれてる」
「……あぁそうだな」
「……かえったら?」

 帰宅を薦めた瞬間、彼は更に眼光を強めて眉尻を上げて眉間にシワを寄せて、とうとう“怒っている”顔をした。倉間はもともとそんなに気の長い方ではないけれど、それでもこんなに静かに怒る人、だっただろうか。いつもなら大きな声で文句のひとつやふたつ、口にしていた筈なのに。不思議だ。
 さらに雨脚は強まって、まさしくバケツをひっくり返したような天候になった。これじゃあ傘差したって意味がない。それでも倉間は傘を差し続け、私は倉間を見つめ続けて、倉間も私を見つめ続けた。無言の時間。ざあああああああああああという揺るがない雨音と、自分の呼吸音と、倉間が一歩、こちらに歩み寄った靴の音。見つめていた筈なのに私は少し驚いて、思わず一歩後ずさった。それでも倉間は口を開く。

「お前、自分が可哀相なんだろ。だからそうやって誰かに声かけて欲しくて、こんなひらけた所に居たんだろ」
「……は、なに、云って、」
「だったら何で。屋上でも良かったじゃねえか。あそこなら殆ど人来ねぇだろうし。こんな、サッカー部なら絶対通る渡り廊下に傘も差さねぇで」
「…………」
「サッカー部の誰かさんに甘えたいだけだろ。だけど残念だったな。部室にはもう誰も居ない。俺が最後だ。此処で待ってても、もう誰も来ねぇよ」
「……そう。」
「……あぁ。」

 空を見上げた。目に、落下速度の速い雨粒が当たりそうで怖いけど、それでも見上げた。くすんだ重い灰色がどこまでも続く空。

「誰を、待ってたんだよ」

 欄干にかけた黄色い傘を再び手に取った。それをバッと開く。開いた勢いで、表面についた水滴があちこちに飛んでいく。内側も少し濡れてしまっているけど、気にしない。傘を真っ直ぐ持って、雨よけをした。今更過ぎて、小さな笑いが込み上げた。

「云い訳がましい、けど、べつに誰かを、待ってたつもり、なかった。でも、そうだね。ほんとは、誰かを、待ってたのかも、ね。」
「……そうかよ。」
「うん」
「……なぁ」

 なあに。未だにうまくまわらない口を叱咤して倉間に返事をしたら、彼は私から視線を外して少し俯いた。見えていた右目も見えなくなって、おもむろに彼の方へ躰ごと向いてみる。そうしたら、五月蝿い雨音に紛れて声がした。でもきこえない。雨音が五月蝿過ぎて、倉間が俯いていることもあって、まったく訊き取れなかった。ぺったり耳に張り付いた髪を耳にかけて、私は尋ねる。「御免、訊き取れなかった。なんて云ったの?」でも倉間は黙ったまま、顔を上げてこちらを見る。大きいのに鋭い目。蛇のような光。さながらこちらは、睨まれた蛙。
 一瞬だった。一瞬、音が消えた。雨は引っ切り無しに降り続いているのに、渡り廊下の床の表面は荒れたままなのに、一瞬すべての音が消えて、倉間の声だけが私に届く。そんなことが、本当にあるのだ。

「なんでもねえよ、馬鹿。」




雨の檻。
鍵を開けるのは、





 彼女の躰が冷えすぎて、口がうまくまわらなくて、でも俺は優しく尋ねるなんてこと柄じゃないから出来る筈もなく、いつもみたいに突っぱねて挑発的に返した要望に、口を引き結んで目を強く閉じたりするから、泣くのかと思った。その時はギョッとして内心慌てたけど、今考えたら泣けば良かったんだ。あの時彼女が泣いていたら、この“素直”なんて言葉知らない俺の傘の中に招き入れたり、鞄の中のタオルで濡れ鼠を申し訳程度でも乾かす手伝いが出来た筈だ。なんて、他力本願も良いところだ。最後俺が零した呟きに彼女が訊き返したとき、なんでもないと返してしまった自分はつくづく馬鹿だと思った。いつか、痛い目を見る。いつか、後悔する。
 要するに、自分が可哀相なのは、彼女ではなく俺なんだ。




終。
(2011.12.24)
クリスマスイヴになんて仄暗いお話を。
サッカー部の誰を待っていたのかは一応決めてはいるのですが、皆様のお好きな方で良いと思います。
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