最近の本の貸出は手早い。本の裏表紙のバーコードをピッと読み込むだけで良いのだから。小中学校のときみたいに貸出カードの細い小さい隙間みたいなマスに名前と貸出日と返却日を書かなくて良いのです。でも何だか、私的にはバーコードをピッとするより、あのマスからはみ出さないように書く感じの方が好きで、少し淋しい。図書室のカウンターにある、そろそろ鉛筆削りを使おうよ!という感が満々の先が潰れた鉛筆とか、わくわくして好きだった。最近は見かけない。自分のシャーペンないしボールペンで間に合ってしまうから。
この高校の司書になったのは去年からで、でももうだいぶこの学校の空気には馴染めた気がする。図書室によく来る生徒さん達とは仲良くなれた気がする。「名前ちゃん」と気軽に呼ばれるようになった。先生方はせめて「さん」を付けろとおっしゃっていたけど、別に気にしてはいない。なにしろ私はこの学校の『先生』ではなく『司書』なのですから。本の扱いと図書室での行動さえ気をつけてくれれば文句はないのである。

「名前ちゃん名前ちゃん」
「はあい、今日は何を借りますか?」
「今日は本は借りないよ。ちょっと話をしたいんだよね」
「閻魔くんは素直だね。普通ダミーでも本借りるでしょ」
「俺素直さが売りだからさぁ」
「(普通の高校生とは違う“適当”さだよ本当)」

目の前でカウンターに腕をついて前屈みにこちらに寄る生徒さんにこっそりと感心した。閻魔くん。本名なのかわからないけど大層な名前を彼は名乗って、毎週本を借りに来てくれる。ジャンルはバラバラで、ちゃんと読んで感想までくれるんだから本当感心する。「あのミステリーはちょっと先が読めちゃって、でもそのあとの犯人の行動は結構好き」とか「神話物苦手だけど挿絵は好きだったから借りたんだよね」とか「あの虫のこどもの色味は自然の成せる技だねー」とか。小説からエッセイから図鑑から。なんでも彼は借りて行ってちゃんと読んで何かを感じて此処へと返す。最近本離れだとか本は売れないとか世間では訊くから、それが嘘みたいに感じてしまう。こんな狭い(図書室だけの)世間だけど。
私はかけていた眼鏡を外して目頭を少し押さえた。目の前のパソコンからブーンと低い機械音がする。図書室のパソコンはだいぶ古くて、ディスプレイが白い箱型。画面の端も少しブレていて、いつ固まるかわかったもんじゃなかった。まぁまだ動くし、データのバックアップは小まめにおこなってあるから心配はしていない。学校のお財布事情もなかなかシビアです。

「名前ちゃん目ぇ疲れたの?」
「あぁ、うんまぁね。最近目がしょぼしょぼしやすくて……駄目だね長い時間PCの画面と仲良しでいられない」
「ふーん……あ、ねぇ良い目のツボ知ってるんだけど、やってあげよっか」
「お?本当?お願いお願い」

思わずへらりと笑ってしまった。持っていた眼鏡をたたんでカウンターにそっと置いた。カチリと音が図書室に響く。この部屋には閻魔くんと司書の私しか居ないのがやけに浮き立った。「目ぇ瞑って」と云われたので素直に従う。そろりと瞼を下ろす。静かだ。耳に届くのは、間近にある古いパソコンの機械音と、外からの部活動に励んでる生徒さんの声。そういえば今は放課後だった。時間の感覚を、此処にいるとうっかり忘れてしまう。

「ねぇ名前ちゃんはさ」

先程から変わらない距離からの閻魔くんの声がきこえた瞬間に、ふわ、と空気が動いたのがわかった。何か、私の顔の横に、存在感。
少しそれから顔を遠ざけようとして、驚いた。耳から脳みそに直接吹き込まれたような、声がする。

「無用心だよね」

カッと目を見開いたときには、閻魔くんの襟足から跳ねた、半紙に墨をひいたみたいな髪の先と太陽の光みたいな白いワイシャツの襟と肩の先が見えて、え?

「いつかぺろっと喰われちゃうよ、そんなんじゃ」
「……誰に?」
「そうだなぁ。んー、俺?」
「……閻魔くんに?」
「そうそう!俺ー」

そう、閻魔くんに。
そう云ったら、躰の位置はそのままに、私の耳に唇が当たるか当たらないかの近さで多分彼は首をかしげた。「恥ずかしくない?」「何が?」私はすぐに返事をする。閻魔くんの髪の先が少し揺れた。

「この格好」
「あぁ。ははは、年上なめないでよね」
「うっわ。そういうときに年上面!」
「いやいや年上面っていうか実際君よりいくつ年上よ」

ふふ、と笑ったら、何が美味しそうだったのか閻魔くんは私の耳を小さく食んだ。さずかに「うわ。」驚いた。それを機に彼は調子に乗ったようで、先程よりもカウンターに身を乗り出してこちらを体重をかけてくる。両肩に手を置かれたときにやっと、少しまずいぞ、と思いはじめた。此処は放課後の図書室なんだから、誰かに見られてもおかしくない。私は閻魔くんの手を掴んだ。躰を少し遠ざける。

「閻魔くんさすがにちょっと調子乗りすぎだよ」
「俺調子乗りすぎるのが売りだからさぁ」
「んなわけない。離れようか、ってうわなにしてんの!」
「なにって舐めただけ」

背中と肌がぞわりとした。耳の縁に沿って中心に向けて舌先で撫でられてしまった。もう駄目だこれは。私は渾身の力と勇気を込めて閻魔くんの手を掴んでいた自分の手の爪を立て、ようとしてそれは出来なかった。だって、その相手が瞬時に消えたから。ばすん。調子に乗りすぎるのが売りの彼は、私から見て右へすっ飛んで窓の下にある背の低い本棚に顔から激突。ばすん、という間抜けな音だけど凄い衝撃を見た。しかしまぁあまりに痛そうだったので思わず固まっていた躰を無理矢理動かして今まで座っていた丸椅子から立ち上がろうとして、また固まった。

「ほんっとーに貴女って人は!!!」

目の前で、目を三角にして片眉を吊り上げて調子に乗りすぎるのが売りの人を殴り飛ばした男の子が私を怒鳴ったから。鬼男くん。また大層な名前。褐色肌で、綺麗な外国の月色の髪の少年。八重歯が可愛いとこっそりひっそり思っている。なんてぼんやり考えていたらガッシリと両肩を掴まれた。おっと、少し痛い。だって爪が食い込ん、で。

「うぇ、うあいたたたたた痛いかな少しいたたた痛い痛い少しじゃないかもしれないいったあああああ!!?」
「あぁそうですね痛いかもしれませんねだって痛くしてますからね」
「なななななんで!?なんで!?ていうか何で私が怒られてるの!?いったああああああ!!!」
「は。貴女がそうやってぼんやりしてっからですよまったくもう」
「まったくもうとか可愛いこと云いながら手の甲とおでこに血管浮かせるのってギャップを狙って、嘘だよ御免ねマジで痛い御免なさいすみません私がぼんやりしてましたすみません」
「…………はぁ。もう。わかりゃ良いんですよ。わかりゃあ」

「でも本当にわかってますか?」そう少し訝し気に訊いてくる先程まで鬼のようだった彼は、鬼の所業(肩に爪を男の力で思い切り食い込ませるといういとも簡単に行われるえげつない行為)の痕を何故か少し申し訳なさそうに撫でた。自分でやっといて。たまに、極たまに鬼男くんがわからない。勿論、私は彼のクラスメイトだとかではないから日頃の彼なんて知らないのだけど。私は多分真顔のまま、少し首をかしげる。

「鬼男くんが優しいってことはわかってます。ところで君は今日本は借りる?」
「…………あ、あんたなぁ!」
「あ、本当ならもっと声抑えてね。今日は仮があるから流すけど。ていうか私さっきだいぶ五月蝿かったな。反省反省」
「…………」
「あはは、鬼男くんて苛々が顔に出るよね」
「この……っ覚えてろよ……。」
「口悪いなぁ」

「最近そこのイカに似てきてますよ」と云われて私はそのイカの人を見遣った。ぐったり、分厚いでかい辞書にほお擦りさながらの体勢でのびている。(あとでその本棚掃除してもらわないとイカくんに。)今日は一段と力を込めたパンチを喰らったらしい。喰らう。喰らう。あ。

「そうか。閻魔くん喰われちゃったのか」
「……は?」

ぺろっとね。喰われちゃうらしいから。
あんた何が云いたいんですか。

へらりと私が笑って眼鏡をかけたら、鬼男くんは片眉を下げながらも少し笑ってくれた。





食べちゃうぞ。



(2010.11.29)
ヒロイン司書の意味があまり無かった。
しかも鬼男くんを中心にしたかったのに閻魔さんが喋りまくってた。何故だ……。

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