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「おや、匪口くん。どうしたの」
「別に。あんたがちゃんとやってるか見に来ただけ」
「あ……そう……」
こう小生意気なこと云われるのには随分と慣れたので、もうイラッと来ることはなくなりました。私が警視庁近くの喫茶店でアルバイトをはじめてからしばらくして、この少年が昼食だか何だかを食べに来たのがキッカケで話すようになって早半年。こんな風に云われるようになったのは本当その半年の最初の方だった気がする。彼の得意技なのか、こちらは一応年上なのに、その年上が思わず閉口するくらい痛いところを的確に突いてくる。絶対得意技なんだ。だってこちらは最初本当に「え?」と訊きかえしてしまったのだから。
私はカウンターをふきんで拭いて「ご注文は?」と彼に尋ねた。「珈琲と、これ。」匪口くんはレアチーズタルトを指差す。
「珈琲はブラックですよね」
「お。わかってんじゃん。えらいえらい」
「……5000円おあずかりします」
多分彼は私をちいさい子と同等の扱いをしている。相手にバレないようにちいさくふう、と息をはいてからおつりを渡しつつ「ちょっと待っててね」と云ってせかせか動き出した。はじめから切り分けられているタルトをちいさいお皿に移す。うん、今回はうまく移せました。思わずにんまり、頬の肉があがる。はじめのころはタルトの生地がぼろぼろになって匪口くんに「へたくそ」と罵られましたからね。成長しましたよ、どうよ!と思いつつ彼の前にプラスチックのトレイを置いてその上にスッとタルトの乗ったお皿を置く。ナプキンとちいさいフォークも忘れずに。
「…………」
「……珈琲忘れてね?」
わかってるよ!!そうじゃないよ!と思いながら珈琲を白いカップに注いで少しへこみながら再度プラスチックのトレイの上にソーサー共々そっと置いた。「お待たせしました、どぞ。」
「……何ちょっとへこんでんの」
「へ、こんでないよ。あ、今なら君の特等席空いてるよ、角の奥。」
「お、サンキュ。」
少しへこんでいるのがバレないように早口でまくし立てたら、匪口くんはトレイを持ってニッと笑って、彼の特等席、この店のいちばん奥の角の席にゆっくり歩いて行った。そうやって笑えば可愛いのに。と思って、ふう、息をはく。そういえば今日は20時あがりだからあと2時間弱。天井にやけに近い壁かけの時計を見てあがりまでの時間を眼で数える。今日は帰ってから何をしようかなぁ、とぼんやり考えたところでお客様が来てしまったので「いらっしゃいませー」と挨拶をしながら頭をきりかえた。
「名前さん、何時あがり?」
「……え?」
40分くらいして匪口くんがレアチーズタルトと珈琲が綺麗さっぱりになったトレイを持って来てそんなことを口にした。めずらしく長居してるなぁと思ったら彼はポケットに入るサイズのノートパソコンを持参していたようです。何故かトレイの上にお皿たちと一緒に横になっています。というか。それよりも。私は彼から綺麗さっぱりなトレイを受け取りつつ(ポケットサイズのノートパソコンは返しました。)、疑問を口にする。
「ん、えーと。御免、なんで?」
「え」
彼は質問を質問で返されるとは思ってなかったようで、今度は彼が一度固まった。質問を質問で返されるのを嫌う人もいるから彼はその部類なのかもしれない。受け取ったトレイを一度カウンターのこちら側に置いて匪口くんを見た。
「あ、えっと御免ね。20時あがりだよ今日は。」
「、あぁなんだ、良かったー。びっくりしたじゃん」
「え、びっくり、え、御免質問に質問で返されるのやっぱり嫌いだよね。」
「、は?」
「……え?」
あれ?と私は首を傾げて愛想笑いを浮かべた。駄目だ。こうなったらもう私はわからない。いぶかしげな表情の少年が痺れを切らして説明をしてくれるまで。私は愛想笑いを顔に固定して黙ってみる。
「…………」
「……あー……」
「…………」
「……とりあえず、待ってるから」
「え!悪いよ!」
愛想笑いを崩して驚いた私は少し大きめな声で云ってしまった。きょろりと周りを見渡して、他のお客様がこちらには意識を向けていないことを確認して胸を撫で下ろす。良かった、クレームの対象になってしまったらとヒヤヒヤした。すると匪口くんは「はあ」とため息をついて頭をかいた。あれ、何か、してしまったのかとまたヒヤヒヤ。
「いいから!俺が待つってんだから待つの!OK!?」
「うぉう、おーけー!!!」
痺れをきらした彼は何と説明はせずに無理矢理私を納得させるという方法を取った。あまり見たことない匪口くんの剣幕に少しびびった。思わず「おーけー」と云った際に右手の親指と人差し指でOKサインを作ってしまった。それを見て満足したのか匪口くんは鼻からふん、と息をはいて「じゃあ20時にまた。」と踵を返して店を出ていく。いやぁ、珍しいものを見た。感情的な匪口くん。私はすう、と鼻から息を吸うと20時までの時間を例の天井に近すぎる壁かけ時計を見て目で残りの時間を数える。あと、1時間と少し。
カツンカツンとパンプスの踵が鳴る。もう長く履いているから踵が擦り減って中の芯が出てきてるのかもしれない。あまりまじまじと見ていなかった。修復屋さん行こうかなぁ。このパンプスはお気に入りなのだ。
そんなことを考えはじめて早5分。バイトが終わって着替えてお店を出たところで、匪口くんが待っているのを見つけた。何だかやや怒っているような雰囲気をかもしだしていたので「御免ねお待たせしました」と早口で云ったら「別に。」と呟いて眼を合わせないまま彼はつかつかと歩きだしてしまった。……怒っていらっしゃいますよね。私はひょこひょこ匪口くんについていく。
大通りの脇の道だから、車が通る度ゴォォと大きなエンジン音と風の音が鼓膜を揺らす。ライトも次々と流れるように当たって、前を歩く匪口くんの背中が明るくなったり暗くなったりを繰り返した。道路側に等間隔で植わっている紅葉した木を横目に、少し速足の彼を追いかける。よく考えたら、初めてだ。一緒に帰るなんて。普通に歩いたら少しずつ匪口くんとの間が空いてしまうので、歩いては小走り、歩いては小走りをする。だんだんと気まずくなってきた私は少し息のあがった声を口から放つ。格好悪いなぁ。
「ひぐちくん、あの!」
カツンカツンカツンカツン。かつかつかつかつ……。カツンカツンカツンカツン。かつかつかつかつ……。
パンプスの踵が五月蝿く響く。
「っひぐち、くん?」
かつかつかつかつ、かつかつかつかつ。あれ、途中から私はずっと小走りになっていた。匪口くんは黙ったまま。たぶん怒ったまま。返事はない。お店を出てから彼の少し猫背気味な背中しか見ていない、気がする。私は何をしたのだろうか。あの質問に質問で返したのがいけなかったのかな。それとも待ってくれると云った彼を止めようとしたのがいけなかったのかな。それとも、それとも、それとも?そんなことで腹を立てる人だった?でも今日は虫の居所が悪かったのかもしれない、とか、考えていたのがいけなかった。
「ねえ!!」
ハッとしていつの間にか俯いていた顔を上げたら、約20メートル先の不機嫌顔の少年は半身こちらに振り返って大きな声で私を呼んだ。しまった。匪口くんとの間は20メートルも離れていた。慌てて五月蝿い音を立てて不機嫌顔の少年の元に走る。もう私はへとへとになっていた。げほげほ、咳が出た。
「ごめ、御免なさい」
「……なんで名前さんが、謝んの」
「え、だってぼーっとしちゃって、追いつけてなかったし」
「…………普通さ、そっちが呼び止めたり、するんじゃないの?」
「…………」
「……もしかして、もう実践済み?」
「……えへへ」
笑って返事をしてみたら、匪口くんの眉間にはシワが寄った。もう笑って誤魔化すことはしない方が良いかもしれない。私は少し俯いた。ゴォォ、ゴォォ。何台も何台も、私たちが歩みを止めても車は通ってく。匪口くんの足元が明るくなったり、暗くなったりを繰り返す。
「……御免ね。私、何かしたか考えてみたんだけど、なんもわからなかった。折角待ってくれたのにあんまり楽しくない、ですよね」
じゃり。コンクリートの剥がれた石を踏む音がした。匪口くんのスニーカーが動いたから。その音に後押しされたかのように私は失礼なことを訊こうと重い重い口を開く。
「えっとねだから、っていうかあの、その、あれ、非常に失礼な話、だけど、匪口くんが怒ってる理由、を、教え、」
「俺今日誕生日でさぁ。」
「……え?」
重い重い口から素っ頓狂な軽さの声が転がり出た。だって、匪口くん、誕生日?ぐいんと俯いていた顔を持ち上げる。匪口くんは右下を見ていた視線をこちらに向ける。目が、合った。ばちん。
「た、誕生日?」
「……うん。」
「……君の?」
「……俺の。」
「え…………あっ、御免何も、用意してない……」
「知ってる。てかたった今知ったんでしょ」
「……御免ね。」
「……だからと云っては何だけどさぁ」
また匪口くんは私から視線を外して、今度は左上を見上げた。私も彼の視線に習ってみたけど真っ黒よりくすんで明るいすすっぽい色の空があるだけで。
「…………」
「……?」
「……あのー、さ。」
「…………?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
ゴォォ、ゴォォ……
「???」
「……いや、やっぱ、いいや……」
「ええ!!?」
「なに!そんな驚くこと!?」
「あ、いや……」
「…………別に、今はちょっと卑怯かなって思ったからやめただけで、いつかちゃんと云うよ。」
はああぁ。匪口くんはため息を深くついて眼鏡を少し上げて左手で目頭をぐいぐい押す。何だか少しだけ泣いているみたいに見えたから、私は慌てて、今日だからこそ云うべき言葉を云うことにした。
「匪口くん!」
「えっ、なに」
「もう時間少ないけど、」
誤魔化す為じゃない笑顔で。
「誕生日、おめでとう!!」
今日という日に乾杯しよう。
おめでとうの気持ちをもう少し伝えたくて、目頭をぐいぐいしていた匪口くんの手を取って握ったら、彼は口を真一文字にして真顔になって動かなくなった。私はおめでとうの気持ちをもう少し伝えるつもりが何も云えなくなってしまう。ゴォォゴォォと車が何台か通り過ぎて、匪口くんの眼鏡が少しずり下がったままの顔が明るくなったり暗くなったりを何回か繰り返したら、急に彼の表情が真顔から溶けて笑っているわけではないのに目尻が少しだけ下がったものになった瞬間、彼は云った。
「名前さんは、あぁ、もう……」
「??」
「ははっ、もう、あーーーーーあああーーー」
「!???」
匪口くんは首をがっくんと下げて、片手で頭を抱えている。今日は初めて見る彼ばっかりです。
終。
やや振り回される匪口くん。の筈。
誕生日にお話をあげたかっ、た。
(2010.10.14)