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「もう本当馬鹿じゃないの」
私はそう罵倒した。罵倒というには少し静か過ぎるけど、気持ちの面では語弊ではない。だから私は罵倒した。
「何度云ったらわかんの。あんた酒に弱いくせに。ていうかオイコラ未成年」
目の前の男は背中を丸くして、唸った。「う、」と。その唸りは決して私の言葉に対してではなく、今まさに胃の内容物を吐き出す為のもので。まだ水洗トイレのタンクからは水の流れる音がしてる。水は溜まりきっていないのに、目の前の男は再び胃の中身を吐き出した。「はあ……」私はため息を吐き出した。すると男は一度咳込んで、右後ろに仁王立ちする私を睨み上げた。厠の個室特有の薄暗さと胃の内容物を吐き出した後の体力の消費があいまって、彼の睨みに怖さはあまり無かった。
「……背中、さするとか、ねェのかィ」
「はあ?何、さすって欲しいわけ。だいたいね、もしもこの事態が例えばお上との付き合いで仕方なくだったらさすったりなんだりしてるよ。でもね、これはあんたがあんたで引き起こしたもんでしょ。しかも、何回目だと思ってんの。あとね、此処屯所。しかもね、明日私早番。おわかり?」
「……スパロウか。」
「あぁそうハイハイさすりましょうかぁあああ?」
「ッで!」
仕方がないので足の裏で彼の背中を押してやった。日頃なら、ここまでしない。日頃の彼はもっと、あの万事屋の旦那さんが云っていたように『サディスティック星の王子』だののオーラのせいでこんな足蹴になんて出来ない。今のこの胃の中身を吐き出して心身ともに弱ってるオウジサマに。ぐいぐい背骨の右側を押していたらまた彼は「うっぐ、!」と便器の上に両手を付けた。あぁ、また。まだ出るのか、と顔はほぼ正面のまま視線だけ成り行きを見守っていたら、私の足の下で背中を丸めていたオウジサマはひとつ頼りない咳をしてから、己の肘で私のスネを、打った。弱々しく上半身を横に回して。はずみで私の足は彼の背中からずれ落ちた。同時にこちらはにやりと笑う。
「あら、元気になりました?」
「、うっせ……黙ってろ。」
「はいはい御免ね!仕方がないから吐いたものだけ流してあげるよ」
「……見んな。自分でそれくらい、出来、っう……」
「…………あぁ、もう……」
ふん、と鼻で息をはいてから、また便器に手をついたオウジサマの背中に手を添えて。私はその場に一緒にしゃがみこんだ。ツンとする独特のにおいに実は少し私も、喉の奥がきている。でも厠の窓は既に全開にしたし換気扇もまわした。なにより目の前のこの人を放って行く気は端からないのだ。彼はきっと知らないけれど。ゆっくり、上から下へ、下から上へ。少し力を込めて背中をさすった。そのままぽつりぽつり、私は呟く。絶賛嘔吐中のオウジサマから返事が来るとは思えないので、背中をさする方へとほとんど気は向けていた。
「ねえ、知ってる?こういうとき、あんまり背中さすらない方が良いって人も、いるんだよ。君は、どっちだか、知らないけど。あとね、ひとりになりたいって人も、いるんだよ。君はそうじゃないみたい、だけどね。」
背中をさすりながら、視線を彼の後頭部にやる。俯いているからいつもより見える蜂蜜色の面積は少ない。この人の髪はなんで腹の中の色と同期が取れてないのだろう。
ぼう、とそんなことを考えても手は休まず彼の背中をさすっていたら。
「なんで。」
前から、あるとは思わなかった返事が返ってきた。私の意識は完全に彼へと向けられたけど、返事というより質問だったので手を止めて問うてみる。何だか、彼の声はとても震えていた。そろそろ本当に体力の限界なのだろうか。
「……なにが?」
「なんで、お前は、そんな……げっほ」
「……ちょっと、無理しないでよ」
「お前、なんで、此処に居るんでィ」
え、やっぱりいけないの?ひとりになりたい人?そう思って蜂蜜色の面積が多くなった瞬間彼の背中から手を離した。
「御免、じゃあ、えーっと私行くわ」
「……なんで」
「、え、なんで、って」
「お前、なんでそうやって、ふらふら、どっかでじっと、出来ねぇのか」
「……え」
「なんで、俺のとこに、居るんでさァ、ほっときゃ、良いじゃねぇか」
「はあ?人が心配してんのに、なにそれ。どんな我が儘よ」
言葉を選んでいるのか体力の限界なのか、ゆっくり紡がれた彼の言葉にカチンと来てしまって、こちらは少し恩着せがましい云い方になってしまった。だけども何だか苛々してしまう。この人の発言今日は特に掴み所がない。云いたいことの真意がわからない。苛々した。いつもはハッキリと厭味やら何やら云うくせに。私は眉間にシワをつくる。本当の云いたいことを云えない、素直じゃない人だってことはわかるけど、今日はそういうのとは何か違う、この人自身持て余してる嫌な気持ちを当てつけられてる気がした。所謂、やつあたり。私はすくりと立ち上がる。また、顔はほぼ正面のまま視線だけを彼に向ける。
「やつあたりは御免だわ。腹の虫がおさまってから、云いたいことあるなら云って。」
「…………」
「……はあ。じゃあね」
ため息をついてから、私はくるりと回れ左してその場から立ち去る。心身ともに結構きてる相手に対して少し冷たい気がするけど、私はそれを彼の吐瀉物よろしく、水に流せるほど大人じゃなかった。
でも。
厠から出て隊士達の自室がある廊下をツカツカ歩いていた脚を止める。視線は少し俯いて、床。横からの月明かりで少しきらきら光る床。このきらきらは、あの人の髪に似ている。
「……冷た、すぎた、か、な。」
呟いて着流しの合わせの胸部分をぎゅう、と握る。あんな彼は、沖田は、本当ははじめて見た気がしたから。
何をしてるんだろうと思う。自分でも。情けない。情けない。
げっほ、とひとつ咳をして喉が痛かった。口の中の気持ち悪いものをすべて吐き出して、ぼんやり眺める。
「……なっさけねえで、やんの」
はは、と笑って、水を流す取っ手に手を持って行った。ガチャンとそれを下ろして、ぐるぐると俺の胃の中身だったものは回って流されて最後は綺麗な水になる。もうすっかり胃の中は空っぽ。自棄になって食い物引っ切り無しに何でもかんでも腹に入れて山崎から掻っ払った酒をスピードも考えずに飲んだから、こんな。こんな。こんな。
あーーーーーーー、なっっっさけねえ。
ガタン、と個室の壁に勢いまかせて寄り掛かった。肩が、痛い。そのまま、ずるずる厠の床タイルに尻を付けた。男所帯の真選組屯所だから、掃除はせども細かく綺麗に〜なんてやるような神経質なやつはあのほくろ野郎くらいだろうから、あまり綺麗ではない。でも、どうでもいい、今は。どうでも。
「……云えば、良いのは、わかってら」
本当は、傍に居てほしい。とか。ふらふら他の野郎のところ行かないで。とか。恥ずかしいけど、恥ずかしいなんて云ってられるのは今のうちだけで、いつか、例えば他の、万事屋の旦那とかのところに、行ってしまう前に。こんな自棄になって情けない姿を見せてる場合ではないのに。ないのだけど。
「へ……、必死過ぎて、」
自身、笑うしかねえのです。
吐き出したいものが違う。
終。
(2010.8.2)