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きみの憤慨



 珍しく――そう、本当に、びっくりするくらい珍しく、その日の彼は怒っていた。
「横暴です……! 人権の、侵害ですよ!」
 帰ってくるなり叫ぶものだから、びっくりしてよくわからないけど立ち上がってしまった。いやぁ、別に、本読んでただけだから、いいんだけどさ……。
「え。どうし……な、なにか、あったのシャオフー……」
 おれは相変わらず表情筋が仕事してなくて、ハリケーンが来ても仕事してそうとか車がつっこんできても寝てそうとか言われるけど、正直なところめちゃくちゃ小心者だしすぐに慌ててしまう。単に顔に出ないだけで、いつだってビビりなのだ。
 ていうかハリケーンが来たら流石に逃げるし、車がつっこんできたら寝ている所の話じゃないよ。うん。みんなおれのことなんだと思っているのかって話だ。
 よくわかんないけどパニックになり始めているおれを一瞥したシャオフーは、なんかこう大変お怒りって感じの表情をほんのすこしだけ緩める。
「ああ、すいません、あなたをびっくりさせるつもりは毛頭なかったのに……座って、サイラス。私が悪――くはないんですが、あなたが慌ててしまったのは私のせいですね」
「いや、謝んなくて、いいけどほんとどうしたの珍しいねシャオフーがそんな、目に見えてお怒りなの……」
 言われた通りゆっくりと座り直し、読んでいたページにしおりを挟む。二人掛けのゆったりとしたソファーにシャオフーを招けば、硬い表情のままだけれどとりあえずおれの横に座ってくれた。
 とりあえず手を握る。ぎゅっと握りしめると、シャオフーは少しだけ泣きそうな感じに顔を歪めた。ふーっと硬い息を吐く。少しは落ち着いたみたいだけど、やっぱりお怒りの様子だ。
 シャオフーはいつも通り泊まり込みの仕事で、おれは珍しく暇を持て余して一日読書に励んでいた。特に変わったニュースはなかったはずだし、彼を怒らせるようなアクシデントも思い浮かばない。
 おれはたぶんなんもやってないし……あーいや、もしかしたら昔の恋人が彼にちょっかいを、とかそういうの、なくはないかもしれないけどおれ基本フラれる側だし、どうかなぁ。やっぱないかも。彼に接触しそうな家族は皆無だし、五人しかいない友人たちは全員シャオフーのファンだ(ダニエルはちょっと怪しいけどまあ嫌われてはいないはず)。
 いつもどおりの日常。いつも通りの夜。それなのにシャオフーはため息をつく。
「……どうしたの、ほんとに。きみがそんなふうに怒ってるの、おれ初めて見たかも」
「ああ……そうですね、うん、そういえばあまり口に出して苛立ちを発散するタイプではないです。そもそも怒らない、かもしれない。腹立たしいことがあっても、なんとなく耐えてしまうというか……」
「あーうん、わかるー。怒るのって、疲れるしねぇ。でも、今日は耐えられなかったレベルの何かがあったの?」
「耐えられません。無理ですね。久しぶりにこんな会社辞めてやると思いました」
「え。なにそれ、まずいじゃないの。てか仕事でもめたの……? ひどいクライアントに当たった、とか?」
「ひどい、といえばひどいですね。何からお話したらいいのか、ええと、すいません怒りが先に来てしまって言葉が出てこない。まず前提としてうちの会社はアクセサリーを禁止していません」
「……うん? うん、はい」
「勿論過度なタトゥーや宝石等の高価な装飾品は控えるように言われますが、指輪程度ならばよしとされています。実際ケントは結婚指輪をしていますし、誰からも文句を言われたことはない。それなのに。それなのにですよ……!」
「あー……リング、怒られたの……?」
 話が見えてきて、なんだかちょっと申し訳なくなってきた。
 実は先日、おれは指輪を購入した。安物ってわけでもないけど、高級品って感じでもない、普通のシンプルなやつ。
 プロポーズとか記念日とか、そんなたいそうな奴じゃなくて、なんていうか肌につけるものっていいよねーって思ったっていうか、おれがケントと何故かプレゼント交換合戦やってるのをシャオフーが羨ましいとよく言ってるから、そんじゃ何かシャオフーにも買おうかなって思っただけで……まあでも喜ぶでしょ、みたいなよくわからない自信はあった。
 シャオフーは思いの外がっつり嫉妬する人だ。
 べつに嫌味言ったりしないし、『あなたは魅力的だから近づく人間すべてが捕食者に見える』なんて可愛いんだか怖いんだかわからないことを言ったりするくらいなんだけど、もし少しでも不安ならお揃いの何か身につけるものとかあれば、なんかこう、いいかなぁー恋人の印ってわけでもないけど、うん、いいよねーと思った。
 シンプルなペアリングをこう、サラッと差し出した時のシャオフーは、それはもうすごく良かった。
 喜ぶだろうなとは思ったしちょっと泣いちゃったりするかなくらいは予想してたけど、ペアリングを受け取ったシャオフーは動揺しすぎて机に脚の脛ぶつけて蹲ったら頭ぶつけて額にたんこぶ作ってた。……ほんとそういうとこがかわいいよね、と思う。
 結婚してくださるならぜひ、なんて言ってるのに、いざとなると動揺しちゃうの、可愛いからよくないと思う。恰好いいのに可愛いからずるいんだよねシャオフーは。いや、まあ、シャオフーの魅力については語りだすと時間かかっちゃうから割愛するとして、えーと何の話だっけ……リング?
 そう、リングだ。指輪。おれが贈った指輪を、勿論シャオフーは最高に感動し感激し感涙して大事にしますと最高にかわいい顔で宣言し、勿論翌日からうきうきと指に通して出勤した……のは知ってるけれど。
「え、怒られたの? リングしてるだけで?」
 それは確かに横暴じゃないの、と思ってびっくりして手をぎゅっぎゅ握ると、眉間に皺を寄せたシャオフーが至極嫌そうに口を開いた。
「怒られた、わけではないんです。ケントはにやにやとからかってきましたが、彼は私とあなたの関係を知っている友人ですし祝福してくれているのでノーカウントとします。問題は同僚ではなくクライアントでした。お客様で、定期的に来米し、観光を楽しむ令嬢がいらっしゃるのですが……彼女がその、私の指輪を見て、泣き出してしまって……」
「うわぁ」
「……大変な騒ぎでした。私は上司に呼ばれ理由を問いただされるし、彼女は結局予定を切り上げ帰国してしまうし……私は素直に恋人から頂いた指輪であることを告白しましたが、仕事の邪魔になるようならば職場では指輪は控えてほしいと言われてしまいました」
「……うわぁ」
 何と言ったらいいのか……うまく言葉が出てこなくてばかみたいな声しか出ない。
 うわー、えーと、それはなんていうか……いや、シャオフーは悪くないし別に指輪も悪くない。泣きだした人も悪くないんだろうけど、なんていうか、本当に好きだったのかなと思うとちょっと悲しい気持ちになる。おれが悲しんでも仕方ないし、ほしいから頂戴と言われても絶対手放さないけどさ。
「……別に、全人類に祝福されたい、とは思っていません。幸いなことに私の友人も、あなたの友人も歓迎してくれている。それがとても幸福な環境であることは理解しています。ですが私は職場であなたのどこが素晴らしいかを切々と演説したわけじゃない。ただ指輪をしていただけです」
「うん、あの、ごもっともです。それは、怒っていいんじゃないかな……ていうか、シャオフーは悲しくなっちゃうよね。指輪、すごく大切にしてくれているの、知ってるし」
「だって嬉しかったんです……! あなたは、その、いつでも言葉で甘やかしてくださるけれど、そういうものに興味はなさそうだったから……」
「そういうもの……? ああ、ペアリングとかお揃いの品とか? え、普通にかわいいし素敵だなーと思うよそういうの」
「……買ってきても、いいんです……? お揃いのマグカップとか……」
「え、いいけど。マグカップはしぬほどあるからちょっとアレだけど、生活用品ペアでそろえるのとかちょっとグッとくるよね」
「知らなかった……今度思う存分ペアで買いそろえます」
「うん、いや、構わないけどほどほどにね? きみわりと思う存分お金つぎ込んじゃうからこわい……あーでも、そっかぁ、指輪禁止されちゃったのは、うーん、それは悲しい」
 おれてきにも、シャオフーって人気ものだからなぁ指輪してたらちょっとくらいは遠慮してくれる人も増えるかなぁそっちのほうがありがたいなぁくらいの気持ちだった。
 シャオフーは格好いいし、可愛いから、やっぱり仕事中だって人気者なんだろう。おれだって一発で惚れちゃったわけだし。
「ケントはいいのに、私は駄目だと言うのがわかりません。解せない。横暴です」
「仕事に支障をきたすレベルでガチ恋されちゃってんだねぇシャオフー……うーん、ボディガードは俳優でもモデルでもないし、そうやって顔を売るようなのはどうかなぁとは思うけど人様の商売だしなぁー……」
「まったく仰る通りですよ。私の指にリングが無くても、私の心はあなたのものなのに」
 シャオフーの低い声が甘い言葉を吐く。あまりにもぐっと来すぎて、さらっとキスするタイミング逃してソファーに埋もれてしまった。……なにいまの、かっこいい。ずるい。すき。
「……サイラス、私に愛を囁いてくれるなら、ソファーにではなくこちらを向いてお願いします」
「ええー……むり……かっこいい……直視できない……」
「あなたたまにティーンエイジャーみたいなことをいいますよね……可愛らしくてたまらないですが私はあなたとキスがしたい」
「シャオフーはほんといつもスバっと格好よくていいよねぇ……おれとは大違い……」
「恋人からもらったリングを職場でつけられないから、と拗ねる駄目な男ですよ。……よくよく考えたら、飲食店勤務の方も職業上の理由で結婚指輪は外すでしょうし、私だけじゃないのでしょうし、指輪はなくても私はサイラスの恋人であるという事実は揺るぎませんし、なんだか腹立たしい気持ちが突っ走りすぎたのかもしれません。……ケントの結婚指輪がオッケーなのは解せませんが」
「ケントねぇ、格好いいけどね、真面目な顔してるときりっとしてて。でも結構前から結婚してたんでしょ? やっぱり『もともと結婚してる人』と『未婚だったけど結婚した人』って、違うのかもね。おれだって最初はきみの薬指を確認して、いけるかなぁ結婚してないっぽいしなぁ、なんて思ったもの」
「……その話は初耳です。というか、本当に私はいつどこでなぜあなたに恋をしてもらえたのか、よくわからない……」
「初めて会った時にウィズメディアのオフィスで直感的にああ好きだなぁって恋しちゃってたけど」
「…………耳から溶けそう」
「溶けるならごはんたべてシャワー浴びてからどろどろになっちゃえばいいと思うよ。なにか食べる元気はでた?」
「若干。なんだか、あなたと話していたら上司に対する殺意は多少薄れました。多少ですが。多少です」
「三回言ったね……おれはシャオフーが誰かを殺しちゃったりしたら嫌だから、その殺意はぜひともゼロにしてほしいなぁ。……キスしたら減る?」
「減ります」
「……即答だねぇ。シャオフーおれのこと好きすぎない?」
「好きすぎますよ。毎日ずっとキスをしても足りないですからね」
 やっと少し笑ったシャオフーにキスをして、ぎゅっとして髪の毛撫でるとくすぐったそうな息が肩に触れた。
 指輪の件はなんていうか、残念というか可哀そうだけど。彼の指にリングがあろうがなかろうがおれとシャオフーはキスするしセックスするしなんなら真剣に好きだし愛しているし、まあ、うん。……恋人であることには変わりない。
 貪欲に求めてくるシャオフーのキスに笑いながら応じて、いやでも夕飯食べようって押しとどめて、まだ足りなそうなシャオフーに『若いってすごいなぁ』なんておっさんみたいな感想抱きながら立ち上がる。
 シャオフーは一回手をつなぐと離してくれない。なんかその、見た目とか普段の性格からは想像もつかないくらい独占欲強くて熱烈なところ、もうほんとグッとくるんだけどさ。
「元気になった? まだ悲しい? 一緒にバスルーム入る?」
「……悲しいのでバスルームに行きます」
「うはは。きみ、本当におれのことがすきだよね。うれしい、かわいい、幸せ」
「こちらこそ、すべてお返ししますよ。あなたと一緒だと毎日うれしいし、かわいいし、幸せです」
 キスをひとつ、額に落として、ああ今日も結局ハッピーだねと自分たちのお手軽さにちょっとだけ苦笑した。
 きみが、おれの恋人である証をつけられないって怒っているのがかわいいだなんて、ちょっと意地の悪いことかもしれないけど。でもやっぱりうれしいしかわいいし幸せだ。