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彼の深爪


「あ」
 バチン、という軽快な音と供に耳に届いたのは、思わず口から洩れたであろう小さな声だった。
 平日、午後二時。
 通常の企業であれば就業時間中だが、通常の企業とは言い難いネッサローズのオフィスには人影は少ない。というか二人しかいない。
 昨日やっと脱稿したばかりだという雑誌社の人々は、力尽きてほとんどが有休を取っているという。結局出勤しているのはサイラスと大学生バイトのトリクシーのみだ。
 幸いなことに一日オフだった私は、食事と休養という概念が根本的にない彼らを勝手に心配し、適当な差し入れと供にふらりとオフィスに顔を出していた。
 私のノックに応えてくれたトリクシー嬢は、ようこそと優雅に微笑んだ。『持ち前の運動神経で迫りくる電車から身を護った』『幼少から誘拐されまくったせいで護身術をたたきこまれた』『得意な競技はシステマ』という事前情報を忘れてしまいそうになる、完璧で上品な佇まいだ。映画の中のか弱いヒロインのような彼女だが、正直システマは、うん。おそらく私でも勝てない。というか挑みたくない。
 差し入れの飲み物と軽食を渡し、ひとしきり感謝されたあとにオフィスの隅の机に目を馳せる。ボスだというのに、サイラスの机はウィズメディア社の時と同じように、何故か隅に置いてある。
 バチン、という音と小さな悲鳴が聞こえて来たのは、声をかけようとした時だった。
「……大丈夫ですか、サイラス」
 サイラス・シモンズは淡泊だ、と誤解されがちだ。実際の彼は非常に情熱的で、そして感情豊かだ。しかし口から出る言葉のテンションが一定で、悲しい時も楽しい時も同じような口調に聞こえてしまうらしい……のだが、さすがに恋人ともなれば、彼のテンションくらいは容易に把握できる。
 いまの『あ』は確実に何か困った時の声だった。
 またあなたは一体何をやらかしたのだ……と、呆れ半分愛しさ半分で手元をのぞき込めば、見慣れない爪切りを片手に呆然としているサイラスがそこにいた。
「あれ、シャオフー、どうしたの今日洗濯掃除するって張り切って朝から筋トレしてたじゃない……? 筋トレと洗濯と掃除終わったの……? それともおれの顔見に来てくれた、なんてそんなおれに優しい用事なわけないかぁ」
「あなたに優しい用事で相違ないですよ、すべてこなして暇になったので、あなたの顔を見に来ました。いえ、それはどうでもいいんです、なにかトラブルがありましたか? 随分と悲しげな声が聞こえましたが」
「あ。あー……いや、ちょっと、爪切ろうーと思ったらね、うん……がっつり切りすぎちゃったっていうか……」
「ああ……」
 そしてこれは誤解でもなんでもないのだが、サイラス・シモンズは異常なほど不器用だった。
 仕事はできる。そこに関しては誰もが認めている筈だ。
 ウィズメディア社からネッサローズへと会社が変わり、より一層社畜になるかと思いきや思いの外残業も少ない。会社に泊まり込むことも減ったという。上に立つ勇気がない、と喚いていたが、今のところ円滑に仕事を進めている様子だ。
 残業が少ないことに関しては『だってきみが家で待っているんだもの』とどろりとした甘い声を零してもいたがまあそこは割愛する。
 やればできる、というのが彼の口癖だ。
 確かにサイラス・シモンズはやればできる男だ。ただし、仕事以外の事柄に関しては何故か徹底的に『やろうとする心意気はあるのになぜかうまくこなせない』のだ。
 ……とはいえ、爪を切ることすらできない、というのは流石に、なんというか……。
 ……いや、可愛いな? うん。悪くない。
「…………シャオフーまたおれに甘いこと考えてるでしょー」
 そんな私の盲目すぎる思考はすっかりばれていて、苦笑と供に彼の額にキスを落として誤魔化した。
「私はいつだってあなたには甘いですからね。傷を見せて。……ああ、まあ、この程度ならば自然に治るでしょう。少々痛みはあるかもしれませんが」
「いたーい……」
「と言っても我慢していただくしかないですからね。貸してください、他の爪は私が切ってさしあげます」
「うわぁ、そんな、いいの? ってかおれ流石に子供みたいじゃない?」
「別に、全世界に配信しているわけでもないですし、あなたが私の前では子供同然でもなんの問題もありませんよ」
「呆れない?」
「爪が切れないあなたは大変愛おしい」
「……なんか段々レイチェル見てるときのケントみたいになってきてない? だいじょうぶ?」
 大丈夫かどうかと聞かれたら駄目だという自覚はあるが、笑って誤魔化す。
 颯爽と爪切りを奪い、手にすっぽりと収まるコンパクトさに違和感を覚えた。この国の爪切りというやつは、こんなに繊細なつくりをしていない。
「……日本製ですか、これ」
「あ、うん。ケントがね、お礼にってくれてさ」
 パチン、と彼の小指の爪を切る。
 切れ味のいい爪切りは、爪を押し付けることなくキレイに切断する。アメリカ製の爪切りはなんというか……切る、というよりは押さえつけてねじ切る、というような感覚なのだ。これは確かに、うっかりしているとすっぱりと肉まで切りそうだ。
「常々思っていたんですが、ケントはあなたに物を贈りすぎでは……?」
「いやおれも常々思っているよ、それ。でも彼さぁ、律義なんだよね、さすが日本人っていうか今時そういう人種云々ってちょっとしたことで燃えるから口から出すなってシンディに言われちゃうんだけど、やっぱりさすが日本人って感じだよ。うん。貰った分だけちゃんと返すっていうか、気持の贈り合い? みたいな?」
「そもそもあなたがレイチェルに本を贈りすぎなのでは……」
「いやー、ほんとそれ。わかってる。わかってるけどつい、本屋に行っちゃうとつい見繕っちゃうんだよねー」
 六歳を過ぎた友人の子供は、まだ文字をきちんと追えない。だがサイラスが選ぶ絵のついた本を非常に喜び、順調にサイラスの洗脳が始まっているとケントは零していた。
 勿論ケントは嬉しそうだった。親としては危ない遊びにハマるよりは、本に興味を示してくれる方がいいのだろうが……ミレーヌは『このままじゃオタク一直線よ』と顔を顰めていた。自分がそうだったから、という彼女の言葉の説得力は異常だった。
 オタクが悪いわけではないし、文学は素晴らしいものだが……そればかりに偏るのはいかがなものかな、とは、思う。サイラスもレイチェルも好きなものにハマるとそればかり、という似たような性質らしい。個人的には二人とも、身体を動かす趣味にもハマっていただきたいものだ。
 というわけで、何故かレイチェルを介してサイラスとケントの間でプレゼント合戦が続いているようなのだが。日本製の爪切りだなんて私ももらったことがない。シンプルにずるいと思う。いや、自分で買えばいいだけなのだけれど。
「しかし、随分と伸びていますね」
 醜い嫉妬をさらりと隠して、誤魔化すように話題を変えた。サイラスの爪は男性としては長く伸びていて、パチン、と切る度になんとなく清々しい気持ちになる。
「いや、ほんと、髪とかもそうなんだけどさ、仕事づくめだとすっかりそういうの気にしなくなっちゃって……外でて誰かと会うような仕事じゃないし、ネッサになってからはそういうの全部マッドが引き受けてくれてるからねー」
「ああ、彼は得意そうですね。今まではあなたも営業を?」
「ボス……じゃなくて豚の人が、ほら、なんか適当に仕事を振ってくるからさ」
「あー……」
「なんか、仕事したつもりになりたいらしくって、不思議な指示出すときがあんの。いまそれ? みたいな。でも基本あの人の会社だったし、みんな逆らって面倒くさいことになるの嫌がって、直接言われたことはさっさとこなしちゃって、そのあと自分の本来の仕事に戻るみたいな感じだったなぁいやー懐かしいね」
「あなたが、無駄に忙しかったのは、そのせいもあったのか……」
「まあ、今がいそがしくないとは言わないけどね。爪切るのも忘れちゃってたし」
「仕事が落ち着いて、爪のことを思い出した?」
「あーうん。まあ、そういう、うん」
 ……歯切れが悪い。
 ふと不思議に思って顔を上げると、何故か妙に照れた顔をしたサイラスが視線を逸らしている。何故そんな可愛い顔をしているのだろう……と首を捻り、数秒後にやっと『爪を切る』という言葉のあまり褒められない隠れた意味に思い当たった。
「サイラス、あの……まさか、あなたがいきなり爪を切りだしたのは、……セックスの為……?」
「ええと、いや、ほんとにキーボード打ちにくいなぁって思ってたの。ほんと。ほんとに。そりゃ、この一週間本気で仕事ばっかりで帰っても食べて寝るだけできみもしばらく家に居なくって、今晩やっとゆっくり二人で過ごせるなぁなんてことに気がついちゃったってのも、あるっちゃ、ある、けど……えー、だってほら、爪長いとよくない……」
「まあ、よくはないですね。よくはないです」
「……シャオフー、呆れてる? 怒ってる? なんか、グッとした感じの顔してるけど」
「あなたにキスをしたい気持ちを必死に我慢している顔ですので気にしないでください」
「……してもいいけど」
「しません。トリクシーがいますからしません。よくない。席を外すのもあからさまでよくないし、気を遣わせてしまいます。大人ですからね、我慢します。家に帰ったら覚悟してください」
「うっわぁ……いいねぇ、その顔カッコいいね、雄って感じでぞくぞくするね。え、でもトリクシー買い物行ったんじゃなかった?」
「そうだとしても彼女が帰ってくる合間にキスはしませんよ。帰ってから存分にできるのに、今ここであなたを誘惑する必要はありません。我慢します大人なので」
「二回言ったね、それ。うへへ、シャオフーかわいいね」
「誑し込むのはよしてください。手元が狂って深く切りそうだ」
「んー……そしたら痛いからセックスできないかも」
「…………慎重にがんばります」
「シャオフーあれだよねぇ、おれとすんのわりと好きっぽくてなんか、いいねー。えへへって思っちゃうな」
 昼間からなんて話をしているんだオフィスで、と思わなくはないが、そんな可愛いことばかり言うあなたが悪い、と責任転嫁する。
 あなたが悪い。久しぶりの逢瀬の前に、爪を切ろうと思ってしまう優しくて誠実で不器用なあなたが悪い。
 大人なので、と三回目の自制の言葉を胸の中で繰り返し、きれいに切り終えた爪をにこにこと眺めるサイラスに爪切りをお返しした。……この爪切り、いいな、後でケントにどこで買ったか聞いておこう。
「ありがとう。すっきりしたしちゃんと全部の指が無事で嬉しい。だめなんだよねほんと、こういう作業苦手でさ、いつもどっかしら切っちゃうんだよね」
「ニンニクをスライスするだけで指を切りますからね、あなた……」
「うーん、生きるってことにスキルが振られてないんだよな、おれ。でも流石に自分でもどうかな爪くらい切れないと呆れられちゃうなって自覚はあるから、ちょっとずつ、こう、精進していきたいというか……」
「別にそのままでも問題ないですよ。私がやればいい。あなたの隣にはこの先もずっと、私がいますからね」
「……………シャオフーはあの……ほんと、息をするようにプロポーズしてくるよね……?」
「結婚してくださるんですか?」
「すごい結婚迫ってくる……いや、あの、してもいいっちゃいいけど、なんかほら、せめてあと数年同棲した後じゃないともし駄目だったときにほら、アレだし……仕事もまだ軌道乗ってないし……」
「冗談ですよ、いますぐ結婚してくれないと別れる、なんて迫る気は毛頭ないのでご安心ください。してくださるならしますが」
「ほんっと腹の括り方が武士だよねシャオフー……ほんとは日本人なんじゃないの?」
「どうでしょう。家族や故郷という概念が希薄なので、何人、というような自覚はあまりありませんが、とりあえずあなたのことは誰よりも愛している自信はありますよ」
「シャオフー甘ぁい……」
 私のいささか強引な愛の言葉に、赤くなって照れてしまうあなたの方こそ甘いのだけれど。
 存分に言葉を吐いて、存分に彼を赤くして気分を良くした私は、何か手伝うことがないかと聞きもうすぐ終わるから大丈夫という返答を信じて、買い物をして帰ることにした。
 軽いキスだけ落としてまた夜に、と手を振る。
 いつもどおりのテンションで、最高に照れた声をだしてくれる恋人は可愛い。夜までどうにか我慢できそうだ。やはり顔を出して正解だった。そういえば私も仕事尽くめで彼とゆっくり話をするようなタイミングもなかったから――。
 と、気分よくオフィスを出たところで、細身の少女とぶつかりそうになった。
「すいません、大丈夫でしたかトリクシー。お怪我は?」
「だ、だいじょうぶです! リーシャオ、さん、お帰りですか……?」
「はい、どうやらお手伝いすることもないようなので。お邪魔ばかりしてしまって申し訳ありません。トリクシーは、今日は休まなくていいのですか? シンディもミレーヌも、他のメンバーも皆お休みのようですが」
「あ、はい、私は試験があって一昨日までお休みいただいていたので……」
「学業との掛け持ちは大変ですね。あなたの体力と精神力は、きっとこの先の人生の糧になります」
「……リーシャオさんは、そのー……本当に皆さんが仰る通りの人ですよね……尊敬します……」
 若い少女に尊敬されるようなところがあるとも思えなかったが、謙遜ばかりしていては失礼だろうと思い、素直に感謝した。ネッサローズの人々は息を吐くようにお礼の言葉を述べる。私もそれに倣い、ありがとうと彼女に笑う。
「ですが私よりもサイ……あー、いえ、マッドを見本に生きた方がいいかと思いますよ」
「みんなそう言います……」
「あはは。彼はとても気のいいひとですからね。私も見習いたい」
「リーシャオさんもとても真面目で素敵な方です……! あ、いえ、その、変な意味では、なく! サイラスとのその、あの、……素敵な関係も憧れなんです」
「素敵な関係……」
「なんていうか、すごく自然に、お互い尊敬しあって心を許してる感じが、もう、すごく格好よくて……私なんかにそんな、愛とか恋とか語るような経験ないんですけどすごくわーってなっちゃって、いいなーって……思いながら眺めるの好きだから、また、ぜひいつでも、来てくださいね……!」
 少女の真剣なまなざしに嘘はない。
 シンディも嘘をつかない人だけれど、トリクシーは更に嘘がつけない少し不器用に真面目な子のようだ。ここまで真剣にサイラスとの関係を言葉にされると、流石に照れる。
 私があまりの羞恥に口ごもっていると、先ほど出て来たばかりのオフィスの扉が開き、サイラスが顔をのぞかせた。
「……そんなとこで何してんのふたりとも……え、シャオフーどうしたの、そんなかわいい顔して何、え、浮気?」
「していると思います?」
「思わない。トリクシーお帰り、お使いありがとうね。あとシャオフーのこと気に入ってくれてありがとう。みんな優しいよね、おれの恋人が出入りしてても怒んないどころか大歓迎なんだもの」
「それは、ええと、みんな普通に歓迎しているってのも、あるとは思いますけど。リーシャオさんが来るとサイラスの仕事の速度が二倍になるからじゃないかと……」
「……まじで? おれそんなにあからさまに生産能力変わるの?」
「自覚なかったんですね……」
 やれやれと肩を落とす少女は、この先も頼もしくネッサローズをサポートしてくれる筈だと思わせた。
 気安い彼らのやりとりが心地よいが、私も夕飯を作らなければならない。疲れて帰ってくる彼の為に、今日はネットで調べた四川料理に挑戦してみるつもりだ。サイラスが辛い食べ物好きでよかった。私も辛い料理は大好きだ。
 再度お暇する挨拶を残し、私はNYの雑踏に足を向けた。
 ……忘れないうちにケントに連絡しておこう。あの爪切りはどこで売っているのか。それときみは私の恋人に気安く物を贈りすぎじゃないのか? と少し本音を混ぜることも忘れずに。
 平日、午後三時。
 彼の深爪を想い、私はしれっとした顔で心の内だけでおおいににやけた。