耳から入って口から出る
己の事を不幸だとか可哀そうだとか惨めだとか微塵も思っていなかったけども、流石にこの日は煮詰めた赤ワインのえぐみだけ食らったみたいなお気持ちだった。
気が付いたら不景気で、それでもそれなりに普通に育って夢とか見ちゃって適度にチヤホヤされた後、まぁそれなりの覚悟と供に上京したおれを待っていたのはありふれた現実だ。幻滅もしていない。打ちひしがれることもない。
強がりではなく想定内の未来、現実、財布の中身。
まあまあ、そらそうだろうねバンドなんてきっつい趣味を仕事にしようなんて思ったらね、才能だけじゃ無理だし運だけでも無理だろうよって思うから、売れなくたって金がなくたって泣くほど悲しいこともない。都度反省はしても、後悔することはない。
情報なんてそこら中に転がっている。ちょっと指を動かせば、世界中の不幸を画面越しにチラ見できる。どこにでもある最悪の中では、おれの人生なんてものはそこそこ、まあまあ、若干花がない程度のものに思えてくる。
親が唐突に事故で死んだりしていない。
恋人に騙されて多額の借金を抱えたりしていない。
明日死ぬかもしれない病気を患ったりしていない。
ほら、そうでもないだろ。それなりに息をしているんだから、マシじゃないの。どん底って程じゃないよ。悲劇のヒロインぶるような歌詞の一つにもなりゃしないよ。……そう、思っていたんだけどさ、本当に。
「…………ってぇー……」
一歩、足を踏み出す度に内蔵がぐらつくような痛みがのしかかる。
貧困には慣れている。水と調味料しかない生活もなんとかやり過ごせる。バイト先の暴言も客のクレームもオンナノコ達の容赦ない批判もまあ、別に大丈夫そこまで精神弱かないし。
それでも流石に、ダイレクトな強姦はちょっと、笑えない程度のダメージだ。実際にはケツに突っ込まれたわけじゃないけど、首絞められて殴られてその上フェラチオを強要されたんだから、立派な強姦だろう。
アバラ折れてない? 大丈夫かよ? ねぇこれさ、事務所とかに入ってたら勤務中の事故扱いでお金もらえたりしない? 無理? 流石にトイレの中は管轄外かなっつーかおれ事務所に入ってないけどね。
油断していた。暫く気心知れたメンツに囲まれていたから、バンドマンって奴が相当なクズだってことを失念していた。
3Bなんてよくぞ言ってくれたものだ。
美容師、バーテンダー、バンドマン。この三種類には気をつけろ、まさにその言葉の通りだと、この教訓を最初に口にした勇者に拍手を送りたい。
バンドマンはクズで馬鹿で糞やろうだ。自分もそうだとは思いたくないが、自分は違うと声高々に言えるかどうかと言えば微妙だしそこは棚上げしておくけれど、とにかく先週からおれのバンドのフロントを務める男は絵に描いたようなクズやろうだった。
何が悪かったのか辿っていく経緯も面倒だが、たぶん、最初はドラマーが実家手伝うとかで田舎に帰った事だろう。
その次にギターが辞めて、もう一回ドラムが変わって、ついにはボーカルが別のバンドに行くとか言い出して、結局がらりとメンツが変わった。
別に売れているわけでもないし、ファンが一定数いるわけでもないし、CDを定期的にリリースしているわけでもない。メンバーが何人変わろうが、特別なショックもなく『まあ仕方ないよな熟れてないバンドだし』くらいに思っていた。
ギリギリコピーバンドじゃない程度の、底辺の上澄みであっぷあっぷと空気を吸っては沈むような、貧弱グループ。それでも毎日音楽に関わっていないと、すぐに名前もろとも消えてしまう。そう思って無心でベースを弾く毎日だったのに。
……いや、もめるならせめて『音楽性の違い』ってやつでもめたかったと心底思う。
なんでおれが同じバンドのボーカルにライブ後のトイレで強姦されなきゃいけなかったのか、さっぱりわからない。推奨はしないけどファンの女の子とやってほしい。顔だけはいい男だ。歌は叫んでばかりで聴くに堪えないけど、ファンはそれなりに居るらしい。
なんでおれなんだと途切れ途切れに訴える声に、顔だけは良い糞野郎は『そこに居たから』と笑ったものだ。あー。すごい。いっそ清々しい程のクズ。いや、惚れたとか言われても普通に嫌だから良いけど。
それなりに身長もあって、声も低い。ビジュアル系なんてくくりで毎日化粧してそれっぽくすかしてベース弾いてるけど、ドレスやボンテージの女形じゃないし、露出は少ない方だ。髪も前髪以外は長くない。
どう見てもおれは男だったから、なんとなく油断していたところはある。しかしながらこのところの不摂生で驚くほど体力が落ちていた。金がないのだから仕方ない。普通に生活してバイトしてライブをやるくらいなら問題ない程度の体力はある。トイレで強姦なんてイベント、もとより想定していない。
あー、と息を吐く、ついでに声が出る。
別に、気持ち悪いとか、ショックだとか、男なのにマジかよとか、そういう感情はなかった。
ファッションとか音楽とか、そういう業界はなんでかゲイが多い……ような気がする。夜の街をふらつけば、そういう人たちとわりとさらっと遭遇する。偏見はない。普段化粧して性別不明みたいな状態の人間に混ざっているせいかもしれない。
ただ、まあ、殺したいなぁ、とは思っているよ。
しんどいというよりは殺したい。悲しいというよりは殺したい。そんな感じだ。
おれがトイレで犯行に及ばなかったのはただ、そのタイミングがなかったからだ。服を整え出て行こうとする糞野郎と入れ違いにトイレに入って来た男。アレが居なけりゃ、たぶん今頃糞野郎の後頭部はミンチになっていた、と思う。
見覚えがあるようなないような、化粧を落とした後のバンドマンって大体その顔だよなって感じの赤と黒の髪の男は、おれをちらっと見てからタオルを差し出してきた。にこりとも笑わずに、けれど眉も寄せずに『きゅーきゅーしゃ呼ぶ?』と言った。おれはたぶん結構ですと答えた筈だ。若干殺意であいまいだけど。ただ、お礼は言ったと思う。差し出されたタオルはたぶん、この数週間で唯一心に残る親切だった。
笑わない赤黒男は、特に何も言わずに普通に用を足して普通に出て行った。後に残ったのはバンドマンとバンギャ大好き、マフラータオルだけだ。
重い身体を引きずって、もうろうとしたままベースひっつかんで、ぐらぐらしながらどうにかライブハウスを出た。
痛いし、殺したいし、もう訳が分からない。けれど電車に乗って帰って寝てバイト行かなきゃと思うから、余計に訳がわからなくなって、笑いそうになって、いやちょっと笑っちゃってたみたいで自分の声が聞こえてからやばいと思って息を吸った。
立ち止まって深呼吸。
いや大丈夫。だって生きてるし。大丈夫。不幸じゃないし、大丈夫。そう思う。そう思いながら震える息を長く吐いてから、やっとおれはその人に気が付いた。
顔面五十センチ向こうに、腰をかがめておれをのぞき込む人がいた。
「……っ、ひ……!」
「あ。……普通に生きてる人だな、良かった良かった」
びっくりしすぎて変な声が出たし、なんならちょっとだけ咽た。いきなりおれの目の前に出現してきた男は、曲げていた腰をすくっと伸ばしてへらりと笑う。
「いやぁ、おにーさんいきなり立ち止まって急にくつくつ笑いだして、そのあとぐずぐず泣いちゃうもんだから、えーやばい人か人間じゃないなにか? って思ってさぁ。生きてたわー良かったわー」
「……え。え? いや、泣いては、ない……っすけど」
「いやいや泣いてる。ほっぺた濡れてるでしょうがよ。てーかもうちょっと店側に寄らないとここ、たまに車通るから、はい寄って寄って」
確かに触った目元は少し濡れていたけれど、夜道で声を上げて泣きじゃくっていたわけじゃないんだからどうでもいいだろうと思う。どうでもいいだろう、と言って走って振り切らなかったのは、単純にそんな体力も気力も残っていなかったからだ。
というか。……人間じゃないかも、と思ったものに軽率に近づいて、軽率にのぞき込むってのは、どうなんだろう。普通じゃないような気がしないでもない。なんというか、バンドマンのおれに言われたくはないだろうが……変な人だ。
変な人が『寄って』と手招きしたのは、半分明かりを落とした個人商品店に見えた。かろうじて読める店名は『わかたけサンド』。
……サンド、という言葉から商品がまったく想像できず、思わず眉を寄せてしまう。そこそこ怖いと言われるおれの顔面は、三割増しで凶悪になったことだろうが……変な人ことわかたけサンドの店員らしき男は全く動じる気配がない。
よく見れば古風な三角巾に年季の入ったエプロンを引っかけている。食道の店員のような恰好なのに妙に似合っているのは、少し長めの明るい色をした前髪のせいかもしれない。なんとなく、ファッションだと言われても納得しそうな、妙な雰囲気がある男だった。
もう少しきりっとしていればドラマの撮影か? と疑うところだ。ぽやぽやとした顔のパーツは個性派俳優と言われたら納得してしまうけれど、なんとも親しみやすい『本物の下町のおにーさん』感が漂う。
あのライブハウスにはよく通っていたし、この道も割合よく通る。それなのにおれは『わかたけサンド』という店に、まったく覚えがない。
ただ店内の様子をうかがうに、どうやら食品を売っているのだろうな、ということくらいは想像がついた。
ごうん、と風の音を響かせて身体のすぐ横を車が走り抜けた。こんな時間でも、昼間と同じく車は走るらしい。
「わりと通るからね、車。ほんと歩道ちゃんと作ってほしいわ。朝は通学路だってーのに、バンバン車通んだもんよ。……あ、ごめんねおにーさん、なんか引き留めちゃって。時間大丈夫? ていうかお腹すいてない?」
「……情報量多くないっすかね。今ちょっと脳みそがうまく動かないんでシンプルに会話してほしいんですけど」
「あーお疲れって顔してんもんなぁ。いやさぁ、実は今日はうち店じまいなんだけど予約してたお客さんが結局取りに来なくってキャンセルでーなんて連絡が今さっき入ってさ。ばっちり商品が売れ残っちゃってるわけよ。あ、うちね、弁当屋なんだけど。サンドって名前なのは、最初は隣のパン屋で作ってるパンでサンドイッチ作るだけだったのが今はなんつーか総菜バンバン作っちゃってるから、なんかこうその時の名残で、まあ普通に弁当屋、うん」
「……シンプルに言って」
「ユー、百円で残り物お弁当買って俺とディナーしない?」
……駄目だ。シンプルにされても情報量が多い。
いくら売れ残りだからって見ず知らずの通りがかりの人間に対して弁当百円は安すぎないかとか。そういうの売りつけちゃっていいのかとか。弁当売るのは良いしこっちは買うのも良いけどなんでアンタと一緒に食わなきゃいけないんだとか。
情報量が多すぎてなんだか本当にどうでもよくなってきて、面倒くささも相まってほとんど考えもせずにおれは財布から百円を取り出した。
「お。……いいの、きみ、こんな怪しい男のナンパにひっかかるようじゃー人生苦労しますぜ?」
「怪しいのも人生苦労すんのも否定しないっすけど、とりあえず座りたい」
「うん? うん。まあじゃあお入りなさいな、中にベンチあるよ。あーそのギター? ベース? 重そうだもんな」
へら、っと顔から力が抜ける、不思議な笑い方をする。
にっこりと笑うわけでもないし、がっつりと笑顔を振りまくわけでもない。それなのになんでかこっちの肩の力も抜けるような、少し空気が抜けた浮き輪のような、不思議な柔らかさだ。
確かに怪しい。怪しいけれど、でも、これは今日二度目の他人からの明確な親切だ。あのマフラータオルと同じ、おれにとっての忘れがたい親切だと思ったから、素直にありがとうございますと礼を述べて弁当のケースを受け取った。
「いやぁ、こちらこそありがとう。こんな事言うとね、どこそこの国は毎日食べることに困ってるんですーって怒られそうで怖いんだけど、それ、きみが食べてくれなきゃ結局ゴミ箱行きだったしさ。いやこれから食ってくれる人に向かってそれはゴミなんですって言うのもアレなんだけど。あ、時間マジで大丈夫? さっきはノリでナンパしちゃったけど、無理ならそれ持って帰って食ってもらってもいいけど」
「終電まであと一時間あるんで平気です」
「あ、そう? なら良かったーじゃあお茶淹れるわ。加賀のねー棒茶があるんですよーへへへ。棒茶、飲んだことある? ほうじ茶なんだけど」
「……ない、と思います。たぶん」
「うまいよーなんなら俺の弁当よりお茶の方がインパクトに残っちまうかも。食ってていいよ、箸中に入ってるから」
俺の弁当、という言葉に少しだけ関心する。誰かが作っている弁当をただ売っているだけではないらしい。ていうか、もしかしなくても店員はこの変人だけなのだろうか。
店内は個人店らしく非常に狭く、客も三人入れば手狭になりそうな程だ。
言われたとおりにベンチに腰を下ろし、ほんの少し胸のあたりに走った痛みを無理矢理押し込め、息を吐く。
膝の上に乗せた弁当の蓋を開けると、懐かしいような爽やかな匂いがふわりと立ち上がった。なんだっけ、と首を捻る。疲れた脳みそはほどほどに馬鹿で、いつものように動いてくれない。
ああ、これ、筍のにおいだ。そう気が付いた時に、マグカップを持った男が店の奥から出て来た。
ベンチの目の前に椅子を出して、ストンと腰を下ろす。香ばしいお茶の匂いがするマグカップは、ベンチの上に置かれた。
「わかたけサンド特製、春のわかたけ弁当。ドヤ顔で作ったはいいけど、キャンセルされちゃった可哀そうな弁当だったんだけど、優しいイケメンが救済してくれたからそいつらもハッピーだろうよ。あ、食えないもんあったら容赦なく残してくれていいから、俺に気にせず好きなモンだけ食っちゃって」
「そういうの、ちゃんと食えってタイプじゃないんですね」
「いや食えるなら食ったほうがいいだろうし、作った方としては食ってほしいけど。お客さんが何食って何食わないかなんて、俺はそんなん口出しできねーですし、なんならおいしいねーって思うもんだけ食っておいしかったねーって気持ちだけほっこり胸に仕舞ってほしいわなーって思ってますからね。うん。暴言吐いて捨てるとかじゃなけりゃあね、別にいいよ。そんなんね、個人の自由だし」
相変わらず情報量というか、質量の多い言葉を聞き流しながら箸をとる。
基本的に好き嫌いはあまりない。あまりない、というか、うまい飯を食おうという気力もない。だから毎日同じメニューでも特に気にしないし、なんならこのところ栄養ブロックとゼリーとドリンクで生きていた。
筍の炊き込みご飯。白身魚とレンコンの蒸し物のあんかけ。茄子は白みそで田楽に。こんにゃくと鶏肉の甘辛い煮つけの隣には、さっぱりしたゆず風味の白菜浅漬けが並ぶ。食にマジで興味がないおれが何故ズバッと食材をご紹介できたかというと、まあ、迎いに座る情報量の多い男が一々解説してきたからだ。
素直に煩いと思う。それでも嫌だとか黙ってほしいとか思わないのは、テンションというか声の質があまりはきはきとしていないからかもしれない。
絶妙に滑舌が悪く、絶妙にトーンが低い。それなのに山ほど喋るから、なんというか気持ちのいい音楽を聴いているようだ。
どれもこれも、歯触りが良くて驚く。弁当なんてだいたいどれも柔らかすぎるくらいに火が通ってぐにゃっとしているイメージだった。
適度に硬く、適度に柔らかい食材は、舌が馬鹿なおれにも十分うまいと感じられる。
このところろくな飯を食っていなかった事も相まって、後半はほとんど掻っ込むように胃の中に押し込んでしまった。ほんの少し舌先に苦くて甘い、香ばしいお茶も素直にうまい。
ふ、はぁ。と、息が零れる。
今度は泣かなかった。けれど、今日二度目の他人の親切に、結構本気で感謝をしていた。
「いやー食べたねぇおにーさん。さっきはあんな『好きに残せよ』とか言っといてなんだけど、やっぱり全部食ってもらえりゃ嬉しいわ。ありがとさん。……ほんとは駄目だしできれば今日中に食ってもらわないと責任取れないんだけど、あと一個くらい持って帰る? 御夜食か朝飯かご家族へのお土産とかに」
「夜食ってもう日付変わりますけど。一人暮らしだし」
「じゃあゴミ箱に――」
「でももらいます。つかこのすり身の奴異常にうまいんですけど何。昼間来たら売ってんですかこれ」
「え、うん。日によってメニューは変わるけど、お惣菜パックも最近は増やしてるからまあ、大概単品でも食えるよ。勿論弁当もサンドイッチもやってる。おにーさんはこの辺に住んでるわけじゃないんだよな? そこのライブハウスの帰り?」
「……まあ、はい」
「たまーに来るかんじ?」
「そう、ですね。月に二回くらいは、まあ」
「ほうほう。なるほど。じゃあまあ、たまに思い出した時に寄ってよ。いやーこんなにガツガツ俺の飯食う人、なかなかいないもんよ。ちょっと初心に返っちゃったわ。最近ほんとろくなことなくってさぁ、なんか毎日おんなじ事やってて、俺なんでこの仕事してんだっけー? なんておもっちゃってたんだけど、やっぱうまいって飯食ってくれる人見ると、きゅーんと来ちゃうわー」
「うまい、って、口から出てました……?」
「いや、聞いてないけど、まずかった?」
「……うまかった」
「ふふふ。知ってた。おにーさんね、無表情だって思ってるかもしんないけど、結構出てるよ。いやーいい人材に出会ったなぁ。たまには深夜営業もしてみるもんだねーいや無理矢理どうにか在庫売り切ろうとして粘ってただけなんだけどねー」
お茶を飲み干した後、特に居座る理由も見当たらずに腰を上げた。身体の痛みは相変わらずだが、なんとなく気持ちは軽くなっていた……気が、する。食事のせいなのか、親切のせいなのか、他人と話したせいなのか。どれが理由かはわからない。
また来ますと言ってもいいものか、わからずになんとなく適当に頭を下げる。またね、と手を振られて、また来ますと言ったらよかったのかと少しだけ後悔しながらベースのケースを担ぎなおした、その時、後ろから先ほどの間延びした声が追いかけて来た。
「おにー、さん! ちょ、足はえー! 待っ……」
ぜえはあと息を乱しながら追いかけて来たわかたけサンドの変人は、ひらひらと何か布のようなものを掲げていた。
「あ」
……マフラータオル。今日、おれが食らった一個目の、他人の親切。
「落とし物。いやー今度来た時でもよかったけど、大事なモノだったらまずいし、つか君足はえーなほんと……いや俺が歳なのか……?」
「そんな歳変わんないでしょ。いや、でも、ありがとうございます。たぶん、大事なものです」
「たぶん? ……てかそれ、面白い柄だねぇ」
言われて初めて、おれはマフラータオルを広げた。本当にお決まりのサイズの、お決まりの黒いタオル。バンギャがわーわー言いながら、最高の笑顔で振り回すソレは、大概は各バンドでデザインが決まっている。
デカいバンドになればツアー毎にデザイン変えて刷れるけど、ちっさいバンドはバンド名が入ってるタオル一枚作る程度が精いっぱいだ。それなのにこのタオルは、確かに不思議な柄をしていた。
端にそっと追いやられているロゴがバンド名なんだろう。そういえば、今日のOAがそんな名前の一人バンドだったなーと思い出す。一人でやってる奴は大概ネタか、変人か、どっちかだ。
バンド名を押しのけてドン、と印字された白文字は明朝体。どでかいインパクトのある文字は、確かに妙な文言だった。
「『耳から入って口から出る』……?」
耳から入って口から出る。確かに、そう書いてある。
面白ネタ系バンドも山ほどいるし、ネタグッズを出しているところもある。そういう類のものか、それともそういう曲とかアルバムとか決め台詞があるのかもしれない。生憎とおれは今日のOAを見ていないのでよくわからないのだけれど。
わかたけサンドの変人は、おや、と眉を上げておれを見る。
「え、きみもその意味知らないの? おもしろそうだからその心は? って聞こうと思ったのに」
「はあ。いや、これ、借り物……なんで」
「おん。じゃあわっかんねーか。いやーとんちかなーと思ってちょっと考えちゃって、そしたら追いかけるの遅くなっちまったんだけどさ。耳から入って口から出るものって何だろうなぁーあ、ごめん電車の時間あるんだっけ、じゃあまた――」
「何だと思いますか、お兄さんは」
「お兄さんって歳かは怪しいけど俺は若竹崇嗣ね。そうね、うーん、正解かどうかはわっかんねーけど……『言葉』、かな? と」
「――言葉」
「うん、ね、耳から入ってさ、口から出るっしょ? 言葉」
まあ、確かに。言われてみればその通りだ。耳から入って、口から出る。
「てーか逆に考えたら、言葉って耳からしか入らねえし、口からしか出ないんだなぁって、ちょっとこう、高尚なお気持ちになっちゃったわ。耳塞いじまったら何も伝わらんし、口閉じたらそこでおしまいなんだもんなぁって。いや正解か知らんけど。借り物ってことはさ、これの持ち主ってやつがいるわけっしょ? その人が知ってるかは知らんけど、もし素敵な見解あったら教えてよ。耳から入って口から出るもの、他にも考えとくからさ」
「はあ。覚えておきます、一応。……あの、若竹さん」
「はい、なんでしょう、ベースのおにーさん」
「さっき言い損ねました。また来ます。弁当買いに。あとおれは藤乃です。今はちょっと解散濃厚なんでバンドの宣伝できないんですけど、まあ、次のバンド決まったらもう少し正々堂々自己紹介します」
耳から入って口から出る。言葉は、耳からしか入らないし、口からしか出ない。そんな当たり前の事に、なんというか初めて気が付いた気がして非常にイラっとしたりしたわけだが、まあそれは目の前の若竹さんには微塵も関係のないことだ。
なぞなぞのような言葉の正解はわからない。わからないので、腹立たしい気持ちと感謝と供に、あの赤黒髪の男にぶつけようと思う。感謝の気持ちも、おれの口から出さなければあいつの耳にも届かない。
バンドを抜けると言おう。
新しい居場所を探して、一緒に音楽をしてくれる仲間にちゃんと言おう。おれは音楽が好きだ。初心に戻って、何がしたいのか、ちゃんと言葉にしようと思う。
その為にはまず、この腹立たしいタオルの持ち主に会うべきだと知っていた。
「you&pure(ゆーとぴあ)……名前は、見た事あんな……」
名前しか知らんけど。まあ、どうにかなるだろう。
この後秒でゆーとぴあのフロントというか唯一のメンバーであるピンクパンサーゆずるに気に入られたおれは、大変遺憾というかありがたいというか迷惑と言うかなんというか、あー……まあ、運命と言ってもいいのかもしれない、そんな流れでゆーとぴあのメンバーに組み込まれ、それなりに楽しく普通に苦しいバンド生活を送ることになる。あと崇嗣さんともなんかこうごねごねすることになるけどその話は別に今しなくてもいいと思うからしない。
大事なことは、この日おれは二つの親切と、一つの言葉に出会ったということだ。
耳から入って口から出る。この不思議な腹立たし言葉は、以来おれの信条となるのだから。