有害性ファタルに関するレポートA&B
■ 有害性ファタルに関するレポートA
八十二日ぶりの自殺だった。
このところの仕事はすっかり順調だった為、ソレが元々は人間であったものだと気が付くまでに少々時間がかかってしまった。人間の脳みそは慣れる。その上すぐに忘れる。そういう風にできている。
自殺者が出た際の手順すら頭の隅に追いやっていたらしく、久方ぶりにマニュアルを呼び出す体たらくだった。外部視覚補助器に張りつくように示される電子文字に従い、一つずつ確実に処理を進め各機関に連絡を入れる。赤い液体と麗しいピンク色の内蔵で彩られた彼女の部屋は、あと二時間もすればすっかり元通りになるだろうし、次の《住人》がすぐに入る事だろう。この星は、この街は、この施設は、そういう風にできているのだ。
余計な仕事が降って湧いてしまった為に、ルーチンワークが崩れてしまった。いつもならばその男が入室してくるまでに終わらせておくべきレポートの二項目目を記入しているとき、背後の扉が音もなく開いた。
「あっるえー? この時間にせんぱいがお仕事中だなんて、めっずらしいですねぇ。いつも午後には悠々と大赤斑ライビュ決め込んでるのに」
それはとにかく癪に障る声だった。反射で殴りたくなる衝動を、どうにかやり過ごさないといけない程に。
たぶんこの男がどんなに道徳的で感動的なおとぎ話を朗読したとしても、九割程度の人間は五分も聞いていられないだろう。耳障りな高音が混じる上に、口の中に混じり込んだ砂のようにざらついた質感が耳に残る。
均整の取れた体格も、バランスのいい目鼻立ちも、愛嬌のある笑い方も、すべてその声が台無しにしていた。どう見ても優良遺伝子素材向きだというのに、木星周辺区画に飛ばされている理由は、この癪に障る声のせいかもしれない。
正式番号はR124・66だが、どうせこの区画にはおれとこいつしかいないので、認識番号は省略してRと呼んでいた。
同じように、Rもおれの事を『せんぱい』または『F』と呼ぶ。旧式の文字列式認識コードを名乗る事が出来るような奴は、地球と火星以外には今のところいないだろう。
Rはいつも通り癪に障る声をまき散らしながら笑い、首を傾げる。低重力のせいでふわりと舞うプラチナブロンドが酷く邪魔そうだ。それでもこいつは首を傾げる事を止めないので、恐らく癖なのだろう、と思う。
「何か問題でもあったんですー? あ、ついにE5のばあちゃん死んじゃった?」
「……そっちは健在。G17の女性が自殺」
「わぁ。あの美人さんかーそっか死んじゃったのかー。ファタルの投与からええと、一年ちょっとか。結構粘りましたね女性にしては。大体半年くらいで精神ぶっこわれちゃうのにね。つか赤ッ! え、ナニコレ!? どうやったらこんなぐちゃどろ自殺できんの!?」
「ミキサーに四肢つっこんで出血死」
「おえっ……なにそれこっわー……いやー感情死んでる人って本当になんでもできちゃうんですねぇ。てか、コレも有害性ファタルの有害な部分なのかな」
耳障りな声は、赤い画面を前にしても平気で笑う。
「この区画に振り当てられたファタルってあれでしょ。《対嫌悪浸食タイプ》っしょ?」
「ああ、うん。……そうだけど」
「ってことはこの人たちの世界には《嫌悪》も《憎悪》もないんですよね?」
理屈ではそういうことになっている。
ファタルプロジェクトについておれが知る事は少ない。政府というか、人間世界全体でのプロジェクトだったし、おれは所詮《優良》外の作業員でしかない。それはつまり、人間として認められていないと言う事だ。
二千何年なのかもう確認するのも面倒であまり明確に断定できないが、二一五〇年あたりから人間は寿命という概念を捨てた、らしい。その辺の事はもうおとぎ話のようなものだ。《優良》な人間が住む地球や火星では歴史の教育なんてものも残っているのかもしれないが、おれたち作業員に必要なのはマニュアルを操作出来るだけの読解力と報告書の入力ができるだけの言語力だけだ。故におれは、人間がどうやって宇宙に進出したのか、人間がいつ火星を第二の母星にしたのか、いつメインベルトに植民地を築いたのか、いつファタルを開発したのか、知る由もない。
ただ毎日観察する中で、ファタルというものが『人の感情を食うなにか』だという事をぼんやりと理解した。
ファタルには有害性のものと、有益性のものがある、らしい。おれが毎日観察して報告書を提出しているファタルは、有害性ファタルの一種だ。ファタルは目には見えない。だが確実にそこに存在するし、確実に人の感情を食っていく。
木星周辺区画で飼育実験されているのは、《嫌悪》を食うファタルだった。
「俺ねぇ、最初は何でこいつが有害性なのかわっかんなかったんですよ」
有害性ファタルに関するレポートを入力する手を止め、視線を上げる。やはり首を傾げたRは、耳障りな声で言葉を羅列する。
「だって嫌悪ってさぁ、ヒトの感情の中で、ぶっちゃけ要らないっていうか邪魔な区分でしょ? 嫌いだとか憎いだとか気持ち悪いとか、そういうモノでしょ? そんなのなくなっちゃった方が、人間サマの考える『より優良で安全な社会』が出来るんじゃないのー? って思ってたんですよーねー」
「まあ、その考え方はわからなくもないけど。実際はそんな簡単なもんじゃないだろ人間の感情なんて、って事だよな」
「んん。全くもってその通りで。だって死ぬんですもんねみんな。ファタルに《嫌悪》食われただけで」
そう、すぐに死ぬ。
ファタルプロジェクトで観察されている実験体はクローンだ。という話になっているが、どうせ《優良》外の人間なのだろうと予測している。
人口衰退の危機は、延命技術と人工子宮によって食い止められ、逆に人口肥大による食糧難が深刻になった……らしい。少なくともこの観察室に唯一置いてある宇宙案内パンフレットにはそういう記載がある。もはや個々の人生などよりも、いかに人類が生き残るかの方が大事だったようだ。
故にファタルが開発されたのだ。
生憎とおれはこの区画の憎悪を食らう有害性ファタルしか知らないが、他にも様々なモノを食らうファタルが存在するに違いない。
ファタルの語源は知らない。辞書ツールには《ファムファタル》の単語が登録されていたが、それが運命の女を示すことしかわからない。知らなくてもどうでもいいことではある。
毎日ファタルに嫌悪を食われた人間が、ただ虚無を貼り付けたような顔で生活している様を見る。
嫌悪が無くなった人間は、同時に好意や愛情も無くすらしい。どうしても暇が過ぎた時にそれは何故か、とRと対話する事がある。今のところおれたちは、『光がなければ影ができないように、感情に嫌悪がなければ愛情だけがただひたすら高まるわけではない』という結論に落ち着いている。
感情というものは、思いの外ふり幅が狭いのかもしれない。
人間はすぐに逃げる。人間はすぐに命を断つ。そういうものだ。どうやら、そういう風にできている、らしい。ファタルに嫌悪を食われた人間は愛情を徐々に無くし、フラットな世界に心を蝕まれすぐに死ぬ。
最後の項目に認識番号をサイン代わりに打ち込み、送信ボタンを押す。これで今日の有害性ファタルに関するレポートは終わった。定時刻までの三時間、ひたすらに大赤斑のライブ映像を眺めて過ごせる。
「いやいやせんぱいったら。そんなーひどいー構ってくださいよ俺も暇なんですよー」
……知るか、と言う前に無理やり椅子を回転させられのしかかられる。低重力だからトン、と胸を突けばきっとこいつは天井くらいまでは飛んでいく。それをしないのは、さっさと手首が拘束されてしまったからだ。
耳障りな声とにやけた顔が同時に降りかかる。嫌だとか怖いとかは思わない。ただ単純にこの身体を蝕むのは嫌悪の他にない。
「まーたそんな顔しちゃって。わりと好きでしょ俺の顔。あとセックスは娯楽でしょ? どうせ俺とせんぱいしかいないんだから感染症やらなにやらのリスクも超低い。地球なんていう微生物とウイルスのプールとは違いますから」
「清潔だろうが何だろうが痛いもんは痛いし、辛いもんは辛いし嫌だし、そもそもお前の事が好きじゃない」
「うはは、しんらーつ。でもいいねですねー嫌悪ってねー最高の感情なんじゃない? って思ってますから俺ってば。だってそれがなくなったら、ファタルに食い散らかされた人形と一緒になっちゃう。せんぱいにはもうちょい、っていうか結構末永く、生きていてほしいと思うんで。てかなんで人間って自殺なんかするんです? 馬鹿じゃない?」
「――だから、感情なんかいらないってずっと思ってた、けど。……感情無くても自殺はするんだから自殺するバグがあちこちに潜んでるの、かも、な」
「あー。カミサマってやつの構築ミスってやつですかね。じゃあせんぱいは構築ミスで異性繁殖できないのかな」
「己の性的嗜好まで神様のせいにはしないけどそのせいでおれが優良外になってこんなところでファタルの報告書書きながら知らん男に犯されるのは不運だな、くらいは思ってるよ」
「知らん仲でもないでしょってばー。ねぇねぇ俺ね、ほんとに愛しちゃったかもしんないんです。これってすごいことなんですよたぶん。……聞いてます?」
「聞きたくないおまえの声嫌いだから」
「あはは。それってアレですね、嫌悪って奴ですね!」
ファタルに食べられないようにしてくださいね大事なあなたの感情です、なんて声が聞こえた気がしたが、面倒くさくて口を開く事さえやめた。
人工子宮と優良な精子があっても、何故か正常生殖活動ができない人間は《優良》外となる。そうなったら地球及び火星からは追い出される。そして優良な人々の安全な社会を構築するために作業員として貢献するしかない。
さて幸せかと問われれば即答はできない。けれど、生憎と暇ではない。耳障りな声の男が、特にその要因だった。
嫌悪がなくなれば、好意もなくなるのなら。いっそファタルに食われたいと、思わなくもない。
この気持ちの悪い好意が無くなるのならば。
□ 有害性ファタルに関するレポートB
八十二時間ぶりの性的接触だった。
本当は二時間ごとにあの身体に触れたいと思う。けれどそんな事をしてしまうとFの感情の振れ幅がどんどんと狭くなっていってしまうだろう。
私は彼に求められたい。私は彼に愛されたい。私は彼に嫌悪されたい。深く、深く、彼の感情を掻き立てたい。
そのような願望が己にある事を自覚し、特に葛藤もなく受け入れてから私は約七十二時間おきに彼に接触することを心掛けた。どうも地球という惑星の自転は二十四時間で、かつ恒星に近く明るい時間と暗い時間が存在していたらしい。なるほどそれは確かに、時間というモノに厳しいルールが出来上がる事だろう。
なぜこんなにも中途半端な時間(一秒とか一分とか一時間とかの長さだ)が単位になっているのか訝しんだものだが、自転の周期に合わせていたのならば仕方ない。
大変満足した気持ちを持て余したまま、私はFの部屋を後にする。
性的な接触を求めると、Fは必ず難色を示す。けれどそれが本当の嫌悪ではない事を私は肌で感じる事ができるし、言葉の後ろに見え隠れている好意すら筒抜けだ。何故ならば私達は『そういういきものだから』だ。
軽い足取りで床を蹴る歩き方にも随分と慣れた。有害性ファタルの観察を任命された当初、まさか己までこのような四肢を持つ無様な身体になるとは思ってもいなかった。ああ、確かに、私達の体は酷くシンプルで、哺乳類というものとは根本的に何もかもが違いすぎる。コミュニケーションの手段も違う。だとしたら私が彼の側に寄り添う方が、確かに簡単だ。最初の百時間ほどは大いに戸惑ったが、今となっては人間という生き物のデザインも悪くはないと思っている。首という脳の支えを揺らすと視界が揺らぐのがとてもいい。
どうも声というものに慣れないし、未だに巧く発声できないので半分くらいは直接聴覚にたたきつけているのだけれど。そのせいで私の声は、人間の耳にはひどく不快に聞こえるらしい。こればかりはどうしようもない。彼の生理的な《嫌悪》が、個人的な《好意》を上回らないように祈る他ない。
二本の足を優雅に操る私の前に、ふと巨大なぶるぶるとした壁が現れた。
通路の床から壁、そして天井までみっしりと埋まりぎっしりと塞ぐその物体は、私に対し緩やかに報告を求めてきた。
声はしない。文字も出ない。そんなもので我々はコミュニケーションを取らない。ただ感情そのものがダイレクトに伝わる。私はそれを肌で感じ、なるべく冷静になるように努めながら、ゆっくりと返答を送る。
私達には言語がない。物に名前を付けるような無駄なリソースは割かない。言語化も文字化もハードを圧迫するだけだ。
思考通信に距離は関係ない。ダイレクトにほとんどすべての思考が伝わる。人間的に言うと『共感』という感覚が近いのかもしれない。もしくは感染。そう、私達は常にお互いの思考に感染し、一個の思考を持ちながら行動する。
だから私達には表面的な『言語』はない。そして、『嘘』がない。感情がストレートに感染するのだから、隠すことなどないのだ。
そもそも喜怒哀楽などという感情もなかった。そんな無駄なものを得て、それを隠す為に思考通信の偽装を覚えた私は、異端というか……存在している事すら罪なのかもしれない。
私は感情を覚えた。私は言語を覚えた。私は文字を覚えた。私は嘘を覚えた。人間とはすばらしい生き物だ。あんなにも様々な感情を一度に、そして複雑に持ち合わせ、かつ言語まで操る。もっと単純な生き物だったら、もっと永く発展し、ゆっくりとしかし確実に宇宙に進出しただろうに。
今のところ私達が確認できている人間は、一体のみだ。
彼は身体がすっぽり入る程の有機物のポットで宇宙を漂っていた。私達が彼を見つけた時、全てが止まっている状態だった。今ならばそれは『仮死状態』であったとわかるが、当時の我々にわかる術もない。何故ならば水とタンパク質で出来ている生物など私達は知らなかったからだ。
随分と長い間研究し、ようやくポットに添えられていた文章の断片が解読できた。そもそも私達には言語がない。そのせいで翻訳には長い時間がかかった。それでも細部までは翻訳しきれなかった。
わかったのはこの生物はまだ再生が可能であり、そのためには水と酸素と有機物が必要な事。そしてこの生物ははるか彼方の太陽系惑星から射出されたという事。果たして彼がなにかしらの実験の被害者なのか、それとも生のチャンスを託された幸運な人間なのか、実際のところはわからない。
私達は彼らの言語を細部まで理解していなかったし、整えられた環境で仮死状態から目覚めた彼は、母星の歴史に関しての知識があやふやであった。その上パニックを起こし、彼らの言う時間で計算して三日目に自殺しようとした。
個の喜怒哀楽というものがほとんどない私達は、なぜ己から死を選ぶのかわからなかった。そして彼を隔離し、観察することにした。
私達は随分と長い事宇宙をさまよっている。その為、様々なモノを拾い、観察する。資材になればそれでよしとする。食材になればそれでよしとする。脅威となるのならば捨て去り、同じ脅威に対して対抗できるようにする。
糧になるものを有益性。害になるものを有害性としている。
今のところFは有害性だ。あのような強い感情は、私達を混乱させる。しかしこの移動惑星の推進力は私達の感情だ。もし『人間』の強い感情をうまく利用できるなら、私達は今までにない移動能力を手に入れる事が出来るのではないか。
移動速度が上がれば、もっと様々なモノに触れる事が出来る。有益なものと、有害なものを確保できる。そうやって確保し観察し分類し糧として、私達は発展したきたのだから。
何度か自殺を繰り返し結局死ねなかったFは、どういうわけか妄想を語り始めた。どうやら『仕事』という作業を繰り返していた方が安定するらしい。私達はFの妄想の通りに環境を整え、巨大な視覚ディスプレイに架空の人間が暮らす映像を映した。
言語の無い私達は、観察対象に名前を付けることもない。しかしFが築き上げた妄想の中で、彼は『ファタル』という何かを観察していた。これに倣い、私も観察するべき対象――つまるところ彼そのものを『ファタル』と名付けることにした。
彼は今、《嫌悪》を食らう《有害性ファタル》を観察している。
そして私はその彼を観察し、《人間(有害性ファタル)》に関するレポートを目の前の弾力性のある壁に提出する。
トン、とかかとで後ろに撥ねる。どうも最近、このぷるぷるした肉の壁に対する感情が制御できない。湧きあがるような、抵抗できないこの生理的な感情を、私は知っている。
「うふふ」
人の声で笑う。
その後私はくるりと回る。銀色に近い髪が視界に映る。皮膚というものにも、髪にも爪にもやっと慣れた。私はこの偽りの身体がとても気に入っている。似せる事が出来たのは外見だけで、結局中身はぶよぶよとした肉塊なのだけれど、そんなことは些細なことだ。
もう一度可愛い彼に会うための口実を思いついた。お休みのキスをしよう。そうだ、そういうものがあると三十時間前の彼が言っていた。私は日々学習する。有害性ファタルについて学習する。
後ろの肉の壁がぷるぷると震え、私に対する懐疑的な感情を送ってくる。私は振り返らずに大丈夫だよと嘘の感情を送り返した。
ああ、あの肉の壁に対するこの感情こそが、まさしく、嫌悪なのだろう。
終
日乃崎みら様の創作嫌悪アンソロジーに寄稿させていただいた原稿です。