ひものやといぬ
紙舞理由子は自分の名前が嫌いだった。
りゆこ、という響きは悪くない。『子』がつく名前は少々時代遅れにも感じたが最後の一文字に関してはこの際目を瞑る。問題はどう見ても『りゆうこ』としか読めない漢字だ。
せめてひらがなだったら良かったのにと思う。両親が市役所に提出した書類に書いた彼女の名前は、見事に彼女のコンプレックスになった。小中高と、理由子のあだ名は『ワケコ』だった。そのうち短縮されて『ワケ』や『ケコ』と呼ぶ者もあったが、どれも理由子にとっては嫌な呼び名であったことに変わりはない。
名前は彼女の地雷になった。だから彼女の大学の友人には最初から名字で呼んでねと釘を指しているし、バイト先のたった一人の上司にも絶対に何があっても名字で呼ぶようにと、半ば脅迫のような形で了解させていた。
紙舞理由子は自分の名前が嫌いだ。けれどそれ以外の生まれ持った容姿や性格に、特に大きな不満もない。両親との関係は(名前の件を除けば)良好だし、弟ともそれなりにうまくやっている。休日に集まって騒ぐ友人も、深夜に相談事をして一緒に泣くような親友もいる。ゼミは少々変人も多いが学業は楽しい。名前以外に不満があるとすれば、週に四回のバイト先の雇い主くらいのものだ。
「桧物谷さん、大変申し訳ないんですがそこはソファーであってあなたのベッドではないんです。どいてください私の仕事が進みません」
ノックもせずに事務所に入るなり鋭利なナイフのような言葉を飛ばす。理由子の言葉程度の切れ味では、ソファーに横になっただらしない大人の髪の毛すら切れない事を知っている。不躾に、かつ容赦なく睨みつける年下の女学生に対し、今しがたまで確実に夢の中にいたと思われる男は、至極嫌そうにあくびをした。
「あー……ふぁー、うっそもう四時……え、三時? まだ三時じゃないのーカミマイちゃん早くない?」
「今日は火曜日なので十五時出勤のシフトで間違いないはずです。ていうかシフト私が作ってるんで間違いないです。間違いあるはずがないです。……バイト始まって以来のとんでも体たらくに見えますけど、桧物谷さんお酒飲む人でしたっけ……?」
「飲まないし飲めないし飲んでないけど、まーそうねぇ、疲労具合は貫徹オールの二日酔いって感じではあるわなぁ……うー朝日がまぶしいですねカミマイちゃん珈琲飲みたいです……」
「午後三時の日差しが朝日のわけないでしょう。まずそこどいてください」
「ふはは。きびしー……今日もきびしいねー目が覚めるわ……」
ふわ、ともう一度気の抜けたあくびを残して、桧物谷はのっそりと立ち上がる。視線の位置は同じほど。桧物谷が小さいわけではなく、単に理由子の身長が高い上に五センチのヒールを履いているからだ。ヒール込で百七十六センチもあれば、大体の成人男性と同じ目線になる。
初めて顔を合わせた時は思わず一歩引いた。バイトを始めて一週間程はつい横目で見とれてしまう事もあった。けれど今はただ『あんなでかいあくびをしても美形は美形だから世の中は理不尽だな』と無駄な怒りを募らせるだけだ。
桧物谷類は顔が良い。ふわりとウェーブした猫っ毛を鬱陶しそうに払いのけてあくびをする様すら芸術的だ。
理由子が出会ったどんな男よりも、圧倒的に顔が良い。テレビの中の芸能人と比べても遜色ない。ただ桧物谷の漂う独特の『だめな大人』っぽさが、いまいち美形で格好いいと言い切りたくない理由になる。その駄目そうな隙が良いという人もいるんだろう、と理由子は分析する。なんにしても男性全般を毛嫌いする理由子にとって、桧物谷の顔の良さなど正直ファミレスの壁にかかっている絵程度にどうでもいいことだ。
桧物谷類は顔が良い。そして彼は理由子のバイト先である『便利業ひもの屋』のたったひとりの従業員であり、所謂所長と言われるような立場の人物だった。
「てーか、雇い主を真っ先に追いたてるバイトちゃんってどうなのよ」
手狭すぎる事務所にたった一つ置かれているデスクに戻り、ぐったりと椅子に腰かけ桧物谷は顔を顰める。勿論理由子は、頬を赤らめたり見とれたりはしない。赤いフレームの眼鏡を取り出し、髪の毛を無造作に結んで机の上の紙の束をまず適当に重ねて避ける。いるものといらないもの、経理に必要なものとそうでないものに分類するのは珈琲を淹れた後だ。
「大学生バイトに怒られる三十歳事業主がどうかしてるんですよ。別に、どこで寝ようが桧物谷さんの御勝手ですけど、このソファーとテーブルを寝室代わりにするのなら事務用の机と椅子買ってください」
「えー。えー……うーんそうだねぇ、いやーそれは、カミマイちゃんが大学卒業してウチに就職してくれるんなら就職祝いで買おうかな……」
「そんな就職祝いいりませんし今のところちゃんと有給つけれくれそうな企業に勤めるつもりなんで、一生この事務所には事務用机は実装されませんね」
「はぁーすっぱり。すっぱり切れるよなぁ、ほんと、カミマイちゃんの言葉のナイフ……」
「お言葉ですけど。別にそんなに傷ついてもないでしょう、桧物谷さん」
「うん、まあねえ。カミマイちゃんの言葉はすっぱりしてるけど、さっぱりしてるし、何といっても事実なんでしゃーないし」
あははと笑う声がする。普通ならば苛立ちそうな気の抜けた笑い声だというのに、どうしてか彼の笑い声は柔らかく、ささくれ立った気持ちに刺さる事はない。それこそとてもさっぱりしているのは桧物谷の方なのだ、と言うことを理由子は知っているので、ため息一つ飲み込みさっさと珈琲を淹れることにした。
ここで初めて、理由子は違和感を覚えた。
当たり前のように朝起きた。いつものように朝食を食べて身支度を整えて登校し、授業を受けてランチを取った。当たり前のように、いつものように、何も変わりなく『便利業ひもの屋』の扉をノックもせずに開けた。そこにはいつものように桧物谷だけがいた。基本一人で運営している店舗故に、依頼人がいれば表の『商い中』の下げ札が『取り込み中』に変わる。確かに札は『商い中』だった。事務所の中にはいつものように、桧物谷だけがいたはずだ。
それなのに、目の前に男がいた。
「………………、……え?」
理由子は珈琲を淹れようとしただけだ。書類をまとめて、テーブルから視線を上げただけだ。その一瞬で、今まで絶対にそこに居なかったものが現れた。
目の前に黒い男が立っていた。
頭の先からつま先まで黒い。肌は人形のように不気味なほど青白い。黒すぎてよくわからないが、洋服というよりは、和服のように見える。ただこの時の理由子は黒い男の服装など見ている余裕はなかった。
思わず飛び退こうとして膝の裏がソファーに当たる。その勢いで腰を抜かしたようにソファーに向かって崩れ落ちる。
「……………ひ、ものや、さん……え、あの……お客様………………?」
「ふは。いやーまさか、お客様なわけあるかよこんな怪しいのがさぁ。いや人を見た目で判断すんのはよろしくないけども。てか、カミマイちゃんはやっぱりいいねぇ、こんな怪しいのに向かってちゃんとお客様か? ってまず訊くんだからほんとえらい」
「……怪しい、ですか、やはり、ワタシは」
ぼそり、と声が聞こえた。耳に響くいやに不快な声だった。
それが目の前の黒い男の声だと認識した時にはすでに、男はそこにいなかった。
「え」
急いで顔を巡らせる。扉は閉まっている、背後には誰もいない。黒い男は、気が付けば桧物谷の目の前にいた。一体いつの間に移動したのか。というか、彼の頭に、なにか……髪の毛ではないような突起物がないか? まるで、動物の耳のような。
とっさに思い浮かんだのはアニメや漫画でよく見かける獣系人間。所謂ケモミミという奴だ。しかしそうとしか見えないものでも、実際現実で見てしまうとあまりにも禍々しいと感じてしまう。あるべきものがない、ないはずのものがある、というのは、創造の世界ではかわいらしくても、リアルでは恐怖でしかない。
ソファーの上でずるりと一歩引く理由子に向かい、いつもどおりに笑いかけるのは桧物谷だった。黒い男は、椅子に座る桧物谷に向けてかがみこむように腰を折っている。
「えーと、ごめんねカミマイちゃんびっくりしちゃったよね、わかる。俺もぶっちゃけ嘘だろマジかよって今でも思ってるし逐一びっくりしてるし、びっくりするから瞬間移動は禁止にしようと心に決めたわ。てーわけで、コレ、しばらくここに居る事になったから、まぁ置物とかペットだと思ってあんまり気にしないどいて」
「……ワタシは、置物、では……」
「いや似たようなもんだろ。いや近い近い。パーソナルスペース。パーソナルスペースってもんが現代の日本人にはあるわけですよステイステイ。ステイって意味わかるか? お座りってことよ」
「……もはや、犬でもない」
「わーってるよ。でも似たようなもんだろとりあえずそっから動くなちょっと寝たらなんか頭動くようになってきたから、珈琲ぶっこんだらいろいろ考えっから。カミマイちゃん生きてる?」
「…………その人、何、ですか」
誰ですか、と訊けなかった。理由子の動揺を察した無駄に気の利く雇い主は、しかし最悪な事にあまり性格が善良とは言えない。
善良ではない雇い主はにやり、とにこり、の中間くらいの顔で笑う。
「こいつはねぇ、うふふ。――昨日依頼人が押し付けていった壺から出てきた犬神様だってさ」
桧物谷は善良ではないし理由子をからかうことも多い。それでも彼は理由子が泣いてしまいそうな冗談は決して言わない事を知っているので、十五秒きっちり頭を働かせて深呼吸をして言葉をすべて飲み込んだ理由子は、とりあえず難しいことも面倒なことも考えることを放棄していまやるべき事をやる事にした。
馬鹿じゃないのと叫ぶのも、あほらしいと嘲笑するのも、もう少し頭を冷やしてからにしよう、と自分に言い聞かせたのはただの時間稼ぎでしかないけれど。とりあえず桧物谷の言う通り、珈琲を飲んでから考える事にする。
「……珈琲、三つでいいですか」
「わぁ。純音能力高い事務員さん最高だよ。やっぱり卒業したら俺の秘書にならない?」
「御断りします」
……横目で伺った黒い男は、ただじっと、目の前の桧物谷の顔を見つめていた。