だらりと沈んだきみの隣で僕はぐらぐら春を煮る
風呂釜が壊れた。
と、サクラちゃんから連絡があったのは一昨日の事だ。
「いやー予想外だった。予想外っつーか予定外っつーかまさかスワンハイツより先にうちの風呂がバーンするなんて思ってもみなかったっつーか」
なんて、割とひどい言葉をたらたらと口から垂れ流すサクラちゃんは、今は僕の部屋(そう、サクラちゃんがいつもボロいとか早く引っ越せとか何度配線直させんだと文句をぶつける例のスワンハイツだ)のローテーブルに夏場の犬のようにだらっと沈み込んでいる。ゲルとかスライムみたいだなーと思いながら、僕は酢と味噌と砂糖を混ぜる。加熱しないからみりんは入れない。ていうかそういえばみりん切らしていたけど、最近あんまり煮物つくらないからまあいいやと思ったままだ。
最後にからしを入れて、からし酢味噌の完成。ラップをかけて冷蔵庫に入れて、次は何をするんだっけとしばし思考を止めつつ、ゲルみたいになっている恋人に笑いかけた。
「まあ、サクラちゃんのお部屋の方がきれいだし、広いし、コンロも二つあるし、瞬間湯沸かし器が不思議な音をたてたりはしないけどね。でもお風呂は若干こう……怪しい音してなかった? なんていうか、ゴッゴッってかんじの……」
「あー。してた、かなぁ。してたかもなぁ……」
「サクラちゃん、そういうのは直せたりしないの?」
「ばっか、無茶言うなーっつの。電器。電器工務店なのよ俺ァさ。もーこのへんのじじばば様は里倉さんに電話しとけばなんでも直してもらえるのよねーくらいの軽い気持ちでなんでもかんでも押し付けてくるけど電器工務店だっつの。配線とかは俺もなんとかできるけど、風呂釜と給湯器のあれこれは水回りのトラブル業者にお電話っすよ」
「うちのお風呂何度も直してるのに」
「ここんちの風呂は配線がクソなの。電源入れるボタンがおんぼろなの。釜とかガスとかの方が駄目なら有賀さんが相手でも容赦なくお水のトラブル業者の番号投げますよっての」
うだうだ、ゲルのままのサクラちゃんの後頭部を眺めながら、そうかサクラちゃんにも直せないモノなんてあるんだなーなんて、ちょっと不思議な気分になる。
僕のわかりやすい思考回路なんて、聡い恋人にはすぐにばれてしまうものだ。恨めしそうな視線をよこしたゲルの人は(でも僕わりとスライムとかゲルとか好きだからこれは結構好意的な言い回しなんだよ)、万能じゃねーの、と呟く。
あ、ちょっと、拗ねてるのかもしれない。
……サクラちゃんはプライド高い人じゃないけど、ちょっとだけ見栄っ張りだったり、格好つけたがりだったりすることを、知っている。
例えばバイクに乗れることを自慢したりはしないけれど、サクラちゃんはバイクが似合って格好いいねって言うとちょっと得意そうに笑う。そういう感じだ。
なんでも直せる僕のヒーローは、自宅の風呂釜は直せなかったらしい。
「まあ、僕的には、サクラちゃんにも苦手なものとか、できない事があるんだなって安心するし、かわいいなーって思うけどね」
ちょっと拗ねているらしい可愛い人のつむじから視線を外して、菜の花を流水で洗う。一つしかないスワンハイツのコンロの上では、小さな雪平鍋にお湯がぐらぐらと沸いている。
「……俺なんてさ、できねーことだらけでしょ」
「え。珍しいね、ほんと。……サクラちゃんが、そんなにだらってしちゃうの」
「あーえー……そう、か? いや俺わりとそんな絶賛ポジティブ野郎じゃねえよ? 他人のケツ叩くのは結構得意な自覚はあっけど、自分の事となるとてんでダメだよ。飯も大して作れないし。趣味っつったって胸張って言えるようなもんもないし。特技もちょっと電化製品に強いですくらいのもんだし」
「十分じゃないの。僕だってちょっとデザインできるだけの人だよ」
「有賀さんは飯作れんじゃんー」
「でも、サクラちゃんがいないと僕は毎日自分で作って食べようなんて思えないよ。面倒くさがりで、仕事が一番だったからね。サクラちゃんに会うまでは」
ぐらぐらと煮立ったお湯に、しっかり洗った菜の花をぎゅうぎゅうと沈める。ぼんやりとした黄緑色は、すぐに瑞々しい緑に色を変える。お湯の匂いに青臭い春の香りが混じって、なんとなく気分がいい。
別に春も夏も冬も秋も、どれがどうとか、好きとか嫌いとかないはずだったんだけど。どうも僕は春先の空気が好きらしく、それは最初にサクラちゃんに会ったのが春先だったからじゃないかなぁという疑惑がぬぐえない。ちゃんと料理するようになったせいもあるかも。春はやっぱり、瑞々しくて香りの強い食材が多くて楽しい。
「春にお花見をして、夏にスイカを割って、秋にお祭りで綿菓子を食べて、冬に初もうでに行って鍋をつつくなんて、サクラちゃんに会う前の僕なら面倒で嫌だなってスルーしていた事だろうね」
「……その心は?」
「サクラちゃんと出会って僕は随分と豊かになりましたありがとう」
「大袈裟だろーもー……あーでも、全肯定有賀さんがへこんだ心にダイレクトにしみるわ……あー。すき。つか今日の飯なんなの」
「ん? うん。えっと、菜の花のからし酢味噌和えと、鶏肉と大根の煮物と、新玉ねぎのサラダ。あとツナの炊き込みご飯かな」
「えええ豪勢……つか嫁じゃん……良妻……俺風呂釜も直せねえのにこんな良妻に飯作ってもらう権利あんの……?」
「風呂釜直せなくてもサクラちゃんは格好いいって言ってるでしょうに」
ふは、と思わず声が出る。
たまにごねごねとネガティブな言葉を吐き連ねるときがある。僕もそういう時はあるし、いつも前を見据えてきっちりと足を踏み出すようなサクラちゃんでも、そういう時はあるらしい。
あとで一緒にお風呂に入ろうか、と笑う。ちょっとだけ上機嫌なのがばれて、有賀さんはちょっと駄目な俺が好みなのかと絡まれる。そういうわけではないけれど、ちょっと駄目なサクラちゃんも好きだよと笑えばゲルのような人はもう一度机に沈んだ。耳が赤くてかわいい。とてもかわいい。
菜の花を水にとって、ぎゅっと絞る。
うっすらと緑色が移ったお湯を捨てながら、春が好きだなと今更ながらに自覚した。
キミと出会った春が好きだし、キミと過ごす春が好きだし、ゲルみたいにだらっと沈むキミの横で菜の花を煮る春が好きだよ。
End