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かみさまのいえ



人間は疲労するとありとあらゆる情報を遮断するらしい。

脳の処理が追い付かないのだろう。心と脳を守るためには、無駄な情報など取り込まない方がいい。情報というものはつまり、視覚や嗅覚や触覚や、とにかく食って寝る以外の全てだ。

飯を食って寝るだけの生活をしていた頃を思い返せば、確かに目に入り感じ取れる情報など部屋の明るさくらいのものだった。
そのうち耳の奥まで雨の音や鳥の囀りが届くようになり、風が肌を撫でる感触が戻り、思考能力が回復すると共に文字や音の意味を思い出した。

米の味がやっと戻ったから、きっと俺は油断していた。もうぎりぎり人間を装えるくらいに回復したと思い込んでいたのだ。

「やぁ、きみがあれか、ええと……なんだっけ、すごくキラキラした名前のアレだ、うん、そう、新人教師! キラキラした新人教師だな! うわぁ、すごい、こういうの何て言うのか知ってるぞ、イケメンってやつだな」

人間は疲労するとありとあらゆる情報を遮断するし、パニックに陥ると漫画のように固まってしまう。
玄関先で迎えてくれた部屋着の男に対し、この時の俺も見事に言葉もなく固まっていた。

頭がうまく働かない。
あんた誰だ? の一言が喉の奥からやっと這い出てきそうになった時にはもうすでに、にこやかな男は俺の手を勝手に握りしめてぶんぶんと振っていた。それはやたらと盛大で微妙に痛い握手だ。現代日本でこんなに派手な握手をする事は稀だろう。そもそも、名刺を交換した記憶はあれど、手を握られた記憶はあまりない。

初めての経験は、俺のパニックを助長させる。

落ち着くためには息を大きく吸った方がいい、という事を思い出し、どうにか口を開けて天井を仰いだ。
古臭い木目が目に入り、土と木と少し湿った匂いが肺に満ちる。林間学校や部活の合宿でしか知らない匂いだ。俺が生まれ育ち生きた二十八年間に、ほとんど馴染みなど無いものだ。

「ああ、そこ気を付けなさいよ、きみの右側。三和土がちょっとへこんでるから、うっかりすると転ぶし、うっかり転ぶ人間が多いもんだからそこらへんだけちょっと床が剥げちゃってるんだ。子供なら平気だろうが、きみは私よりでかいからなぁ……でかいということはつまり重い。踏み込んで床が抜けたら大ごとだ」
「…………あの、……」
「やー、きみ、声もかっこいいなー。硬くて低くて気持ちいい。さぞちやほやされ疲れただろう。ここはいいぞ、なんといってもじーさんとばーさんと既婚者と子供が大半だ。顔の美醜なんざちょっとした装飾品程度の扱いだよ。そっちが風呂、突き当りが厠、台所は南側だ。荷物はそこの部屋に積んでおいたが、後で確認してくんな」
「あの、あー……いや、そんなことより」
「うん?」
「あんた、誰ですか」

やっと言えた。
やっと言えたと言うのに、よく喋る男はくるりと振り返り首を傾げると、頬にかかる長めの髪など気にした様子もなくにやりと笑った。

笑いなれている顔だった。自分の顔がどういう作りで、どういう風に唇を釣り上げれば効果的か、きちんと計算で来ている顔だ。俺のように、面倒くさくて敢えて仏頂面を貫く男とはきっと別の生き物だ。

「誰って、きみ、不動産屋の書類にはちゃんと書いてあるだろう?」
「……書類……、え?」
「本来きみは、教職員の寮に入る筈だったものの、たまたま改装工事と重なって仕方なく、勝俣不動産の紹介でこの一軒家を紹介された筈だね。さあその地図を眺めて、きみはバス停から歩いてきた筈だ。その手に持っているのは勝俣じーさんの家のぼろいコピー機で何度も複製されて最早古代文字みたいになり果てたぼやけた間取りのファックスだろう?」

確かに、男の言う通りだ。
どこもアパートが空いておらず申し訳ない、と平謝りする校長の声は電話越しでも哀れになるほどで、正直家など多少のプライバシーが守れて眠ることができればどこでもいいと思っていた俺は、本当にそのままの事を告げた。……記憶がある。
きちんと対応したつもりでいた。しかし、まだ俺は人間としてきちんと機能していなかったのかもしれない。

日当たりの悪い廊下に佇み、手元に握りしめたままだったクリアファイルに目を落とす。
何度も複製されたせいで、間取り図は確かに線もボロボロだ。不格好なミミズのような図の横に、蚊を潰したような文字が並ぶ。

3DK、庭付き一戸建て平屋、バストイレ別、インターネット回線工事済み、クーラーなし。
納屋、駐車場二台、かみさま付き。

「――かみさま付き?」

なんだこれは。という疑問に答えるように、目の前の男がさらににやりと笑みを深めた。

イラっとする顔だというのに、どうしてか殴りたいとまでは思わない。それはたぶんこの男の顔がやたらと整っているせいだと気が付くのはもう少し後の事で、この時の俺はとにかく現状をかみ砕く事にせいいっぱいだった。

そうだ、俺は暫く屍だった。ありとあらゆる情報を遮断してただ食って寝て生きていた。どうにか音を拾い、文字を理解し、言葉を追い、味を思い出したが、それでもまだ今まで通りの判断力と理解力を持ち合わせていなかったのかもしれない。
いやそれとも、単に馬鹿馬鹿しすぎて目が滑っていたのかもしれない。

「かみさまって」
「勿論私の事だ。ちゃんと書いてあるだろう」

確かに書いてはあるがちょっと意味が分からな過ぎて笑ってしまった。

ふ、と鼻から漏れるような乾いた笑いだったがしかし、そういえば、馬鹿馬鹿しくて笑い声を洩らすなんて久しぶりすぎて、なんだか一気にどうでもよくなった。ほら、あれだ。人間はパニックになって訳がわからなくなると最終的にたぶん、どうでもよくなるんだ。

「……カミサマってステテコ履くのか……」
「もうすぐ夏だからなぁ。普段はもう少しまともな部屋着なんだ。今日はほら、急に暑くなったから仕方なく……」
「カミサマって言い訳もすんのか……」
「失礼だな、言い訳じゃないぞ、キララくん!」
「変な名前つけるのやめろ小学生か。つけるならもっとマシでまともなあだ名にしてくれ」

元来教師なんてもんは、生徒に好き勝手に呼ばれる。
若造、セラセン、セッター、ワカセン。まあ、そのあたりが妥当なあだ名だったが、俺も知らない似ている俳優だとかどこが由来なのかわからない虫の名前だとか、そういう訳のわからないあだ名も無くはなかった。

自称『かみさま』は二度ほど瞬きをした後に、かわいいのにと笑う。

「きみの名前を初めて見たときに、すごくきらきらしていて眩しそうな名前だなぁと思ったんだよ。きらきらしていて、なんというかお日様のような……ああ、思い出した! せら。――せら、よーへいくんだ」

思い出したなんていうのは絶対嘘で、たぶん俺が先に送っておいた荷物の送り状が目に入っただけだろうと思うがしかし、久しぶりにフルネームで呼ばれたむず痒さの違和感の方が先に立ち、些細な嘘などどうでもよくなる。
軽い声は明るいというよりは平坦だ。それなのに、どうも柔らかく響く。

世良陽平、なんて漢字で書けばごく普通の字面なのに、どうにもこの男が口にするだけで何かの呪文のように思えた。

「なんだその顔、不服そうだな……合ってるだろう?」
「……合ってはいる……が、あれだ、君付けされんの久しぶりすぎてちょっと尻の座りが悪い」
「じゃあやっぱりあだ名でいいじゃないか、キララくん」
「それ、うっかり学校で流行ったら責任とれよカミサマ……」

こいつが何なのかとか、神様ってどういうことだとか、案内人なのか同居人なのかどういう扱いなのかとか。
もう、考える事が面倒くさい。
諸々の問題や疑問全てどうでもよくなって、まあ、いきなり妙齢の女性と同居とかそういう少女漫画な展開じゃなくて良かったと、適当すぎる結論を勝手につけた。

開け放たれた和室の向こうに庭が見える。
春の終わりの湿気じみた風に、吊られた風鈴が軽い音を立てた。

風流だ、とは思わないが、音が情報として頭に入ってくるのでマシだと思えた。



冬の終わりに職を失い、春の終わりに再就職して引っ越した。
電車を乗り継ぎ一時間に一本のバスを捕まえ、寂れたバス停から徒歩十五分。新しい職場が用意してくれた、俺の新しい家だ。

その家は古めかしい3DKの庭付き一戸建て平屋で、バストイレは別で、インターネット回線工事済みで、クーラーは無くて、そして納屋と駐車場二台とかみさまが付いていた。




書きたいなーと思って触りだけとりあえず。