耳からとろけるフレンチトースト
全てが偶然だった。
シフトに入る人間の移店と退職と交代で、僕の出勤時間が夕方になってしまったこと。
それに伴い休憩時間が二十二時過ぎまでずれてしまい、いままでお世話になっていたコーヒーショップの開店時間内に間に合わなくなってしまったこと。
一番近いコンビニは駅の裏で、ちょっとした散歩を終えると食べている時間が限りなく少なくなること。
家から職場までの数百メートルの間にあったスーパーは先月潰れてしまったこと。
それと、その日の僕は少し心が疲れていて、ご飯なんていらないから一人になれる場所を探してぼんやりと散策していたこと。
どれもこれもが、すべて偶然で、どれか一つでも欠けていたら僕はその店にたどり着くことはなかった、筈だ。
寒いのにマフラーを忘れてきた僕は、下ばかりを見て歩いていた。使い捨てのマスクをしているし、こんな時間に徘徊している人も少ないけれど、癖はどうしても抜けない。
人にぶつからないように。ただそれだけに注意して歩いていたので、最初はその人を迂回した。
避けて歩いて数歩で立ち止まり、ふと振り返る。
寒空の下、煌々とオレンジの明かりが灯る。この時間に営業していることが珍しく、マジマジと眺めた看板にはスペイン語らしき店名が記されていた。
アムールアムール。……と読めた。愛情だったか、愛するだったか、そんな言葉じゃなかったかな?
大層な名前ではあるけれど、この国に溢れている外国語は大概わかりやすく大層なものだったので、あまり気にはならない。ロシアにだって『サカナヤ』という寿司屋があったりする。雰囲気が出せれば、それでいいのだ。
こんなところに、こんな店があった事を、僕はついぞ知らなかった。赤い外見は派手で、日本の路地よりも地中海の坂道の方が似合いそうだと思う。
ぼんやり、まだ開いているのだろうかと見上げていると、先程僕が避けた人物と目があった。
「あれ、お客さん? お客さんです?」
お洒落なウェイターの格好をした若い男の子だった。彼は黒と白のかっちりとした服にとても似合う金髪碧眼の白人に見えたが、口から飛び出したのはネイティヴな日本語だ。若者が使うイントネーションに、思わず緊張が解ける。
僕はきっちりした日本語よりも、少し崩したスラングまじりの日本語の方が馴染み深い。
「……ラストオーダーは、まだですか?」
僕も、同じく日本語で彼に尋ねた。どう見ても外国人の僕が日本語を話しても、彼は驚くこともなく腕時計を眺めた。
「んーあー……ラストオーダーギリギリ一分前、かなぁーさすがに今から豚を焼いて米を炊いてって言われたらしんどいっすけど。いやしんどいのは俺じゃなくてコックだからまぁどうでもいいかー。よくないかー? うーん。オニーサン軽食とデザートとコーヒーくらいならオッケーっすよ」
本当だろうか。なんだか彼の物言いはあやふやで少し怪しい。それでも今から空腹で帰り、残りのシフトをこなすというのも憂鬱だ。
ウェイターの青年の言葉を信じ、ありがたく僕はその店に足を踏み入れた。
耳に届くのは陽気な音楽だ。長らく眺めていない太陽を思い出すような、明るい曲調はやはり、スペインのものらしい。それとなく彼の国を彷彿させる小物が飾られ、店内は乱雑に見えてとても統一されていた。店内には僕の他に誰もいない。本当に閉店間際なのかもしれない。
レジにいたメガネの白人男性が、ちらりと僕を見てからきっちりと礼をした。こんな時間に申し訳ないと思いつつも奥の席につき、コートを脱ぎマスクを外した僕は、恐る恐るメニューを手に取る。
どうやら居酒屋を兼ねた食事処らしい。価格は安くもなく、高くもなく、この国でよく目にする金額帯だ。元々至極腹が減っていたわけでもないので、僕は軽食のページを眺めた。
ことん、とテーブルに水が置かれる。ふと視線をあげると、先程表で招いてくれた金髪碧眼の青年がいた。
背はそれ程高くない。ハーフなのかもしれないが、それにしては瞳の色が明るい。僕の妹もハーフだけれど、瞳がブルーだったのは子供の頃だけだ。遺伝の優劣のせいで、どうしても髪や目の濃淡は日本人寄りになるらしい。
「オニーサン、メニュー読めます?」
眠そうな目の青年は、僕の手元を覗き込み親切に声をかけてくれた。
僕は彼の親切に、素直に笑顔で応じることにした。
「ありがとう。日本の字は得意じゃないけど、下に振ってある英語は読めます」
「あ、ほんと? 珍しいっすね、っつったらアレかもしんないけど。ロシア系っしょ?」
「……よくわかったね」
「うちの学部人種のルツボだから。ロシア人もわりといるし。ロシアの人ってマジで美男美女っすよねー眼福。あ、軽く食うならオススメはフレンチトーストっすよ。土日は昼で全部はけちゃうんだけど、なんと今日はまだパンが余ってる。これは食うしかないでしょ。レアですよ、レア」
「じゃあ、それとコーヒーを」
「あざっす。マルちゃーんオーダー入りまーす! ミミトロいっちょー!」
彼が声を張り上げると、オープンになっているキッチンの奥から、軽やかなスペイン語が返ってきた。
しかし僕は、軽やかなスペイン語よりも目の前の青年が口にした言葉の方が気になった。
「ミミトロ?」
聞きつけない言葉だ。スペインではフレンチトーストの事を、そんな風に呼ぶのだろうか。生憎とスペインの言葉には堪能ではない。耳に馴染まぬ言葉を繰り返し声に乗せたところで、ウェイターの青年がにやりと笑う。眠そうな瞳が悪戯を思いついた子供のように細められ、僕は不思議と、彼から目が離せなくなった。
「ウチのメニュー、ちょっと頭が悪い名前がついてんですよ。八割オーナーの趣味で残りの二割はコックのおっさんのむさくるしい愛情。そんで、この店のフレンチトーストの正式名称は、『耳からとろけるフレンチトースト』」
「……耳から? 舌じゃなくて?」
「ねーそう思いますよーねー俺もそう思う。でも暑苦しいコック曰く、食べ物の名前ってイメージがアルデショ? って話で」
「ああ……ええと、辛そうとか、暖かい、とか?」
「そうそう」
彼の言葉は不思議と心地よく耳に残る。あまり抑揚なくすらすらと綺麗に並べるように言葉を放つ子だ、と思う。いつも一緒に居る妹も、割合淡々とけれど高速で言葉を並べ立てるので、やはり僕は彼の喋り方に妙な安心感を覚えた。
でも妹よりも声は低い。あと少し、ざらついている感じがして、それが妙に耳に残る。好きな声だな、と思う。
明るく陽気な音楽が霞む程、僕は真剣に彼の言葉に耳を傾けた。
「シチューとかってあったかーいみたいなイメージだし、スンドゥブとかは辛い! うまい! みたいな。はい、そんじゃぁ想像してみてください。ちょっと固いバケットを、臭くない牛乳と甘い卵液にたっぷり浸してやわらかーくしたやつを、バターたっぷりの熱々のフライパンで表面だけじゅっと焼くんすよ。まあ、国によって差はあるだろうけど、ウチの店のフレンチトーストはこんな感じ。……想像できました?」
「……お腹が鳴りそうです」
「んー。オニーサン素直でいいっすね。フレンチトーストのイメージ、固まってきました?」
「イメージ……イメージか。……ふわふわで、甘くて幸せそう?」
「大正解。ウチのはマジで、とろけるみたいな最高のフレンチトーストっすよ。もう次からアムールアムールのフレンチトーストって聞いただけで、とろける味を思い出して笑顔になっちゃうくらいにね」
なるほど。
それで、『耳からとろけるフレンチトースト』なのか。
彼の一連の講釈にとても感動した僕は、素直に手を叩いて称賛した。深夜のスペインバルに、僕の間の抜けた拍手が響く。少々恥ずかしそうにしていた青年は、苦笑いを零してから、受け売りなんですけどね、と言った。
「でも、とても臨場感があって、聞き入ってしまいました。貴方は、お話が上手です」
「いやーよう言われます口から生まれた詐欺師みたいなもんだなお前はって。褒めてもらえたのはうれしーし、感動してもらえたのもしてやったりっすけど、本物の感動はここからなんで。はいはい、しがない口先ウエイターの受け売り演説はここまで。本日のメインはこちら」
さっとカウンターに向かった彼は、流れるような動作で珈琲と甘い匂いの皿をテーブルの上に置いた。
白い皿の中心に、香ばしい焼き目のついた黄色いフレンチトーストが二切れ、重なるように盛り付けられている。添えられているのは目に鮮やかなミントで、皿の余白にはチョコレートソースでにこにことした顔のようなマークが描かれていた。可愛らしい演出に、思わず笑みが漏れてしまう。客は僕しかいないのだから、確実に注文したのは子供とは言い難い年齢のロシア人男だというのに。この店のシェフはとてもかわいい人なのかもしれない。
妹と同じように手を合わせ、いただきますと礼をしてからナイフを手に取った。
さっくりと、表面を割ったナイフはすぐにふわりとした中身を切る。口に入れなくてもとろけそうなほど柔らかい事がわかる。ウェイターの彼は他のテーブル席の片づけを初めていたが、ちらちらとこちらを窺っているのがわかった。
一口食べて、僕はそのフレンチトーストの名前に納得した。
ふんわりと甘い。とろけるように柔らかい。けれど表面の砂糖はぱりっと香ばしく、甘ったるいようなしつこい甘さではない。口の中に残るのは卵の優しい味だ。
頼んでおいて何なのだが、実は僕はあまり甘いものが好きではない。たまに食べたくなることもあるので、苦手という程ではないのだけれど。たぶん、甘すぎるものを好まない性質なのだろうと思っている。
今晩は少し心が疲れていた。言葉の強いお客さんばかりで、その上苦手なお嬢さんに一時間ばかり付きまとわれ、結局休憩中のバイヤーを呼び出す羽目になった。特別誰が悪いとか、とても辛い何かがあったとか、そういうわけではない。それでも心は疲れるし冷えて落ち込んでいく。
そんな冷えた心が、本当に、見事に一瞬でほぐれて溶けてしまった。青年の素敵な話を聞いていたせいもあるだろう。ただ口にしただけでは、きっとちょっとだけおいしいだけのフレンチトーストでしかなかった筈だ。
「……エト、フクースナ?」
懐かしい祖国の言葉は、テーブルを拭く青年から発せられた。
おいしいですか? という問いかけに、僕はちょっとだけ噎せそうになってから、とても美味しいですとロシア語で答えた。
オーチンフクースナ。久しぶりに使った言葉だ。
そういえば僕は最近、何かを食べておいしいと感動したことなんて、ほとんどなかったなと思い出す。家での料理担当は僕だけど、大して美味い料理を作れるわけでもないし、外食はいつも珈琲ショップの軽食だった。まずいことはないが、誰かに感動を伝えたい程の味ではない。
そうだ僕は、この味を妹にも教えたい、と思った。だからきっと、とても感動しているのだろう。
ウェイターの青年はキッチンと、そしてレジで作業をする白人男性に向かって親指を立てる。楽しそうな笑顔だ。レジの男性も厳めしい顔で親指を立てているのを、僕は見逃さなかった。
「ユージン、新しい出会いに浮かれる気持ちはわからないでもないが、そろそろ看板を仕舞ってもらわないと私たちは残業することになるぞ」
後に僕は、厳めしい顔でスマートにベストを着こなす彼が、この店を立ち上げ、そしてこの店の少し変で愛おしい料理の名前を決定しているオーナーだという事を知った。そしてこの瞬間に、軽やかに駆けるウェイターの青年の名前を知った。
珈琲の最後の一口を飲み込み、手を合わせてから席を立った。
本当にもう閉店のようだし、うだうだとおしゃべりしている時間もないだろう。僕もシフトに戻らなければならない。日本社会の休憩時間はゆっくりとお茶まで楽しむ程長くはない。
オーナーにまた来ます、と声をかけ、深い笑顔で送り出される。温まった身体が急に冷えて息が白くなるが、不思議と満たされたような気持ちは持続していた。
カラン、とドアベルが鳴る音がする。
降り返ると、ユージンがひょっこりと顔を出していた。忘れ物でもしたかと一瞬慌てたものの、財布もコートもマスクも来た時と同じくすべて身に着けている。
首を傾げる僕に、ユージンは同じように首を傾げてからひらひらと手を振った。眠そうでけだるげな眼が、なんというか、とてもかわいい。
「お仕事がんばってくだーさい。夜十一時半閉店だけどまーまー駆け込めばもうちょいごり押しもできるんで。良かったら走ってきてください。あのー、ほら、あそこ。あのあそこ。コンビニの横の路地曲がるとまっすぐっすよたぶん」
「……え? ええと、……」
「駅の方の立花薬局の夜番の人っしょ? バイト帰りにたまに寄るんすけど、いっつもめっちゃ丁寧なレジでサイコーだなイケメンだしって思ってたんすよーねー。耳トロフレンチ以外にもおすすめいっぱいあるんで。……そういや流石に名前チェックすんのはストーカーみたいできもいかなーと思って敢えていつも見ないんですけど、名前聞いても平気系?」
本当に彼は、とても砕けた話し方をする。その声がやっぱり好きでどうにもそわそわしてしまうし、名前を訊かれただけだというのに僕は、寒さなんかどうでもいいくらいにどきどきしてしまった。
マスクをしていて良かった、と思う。今の僕は、声が震えていないか気にするだけで精一杯で、自分の顔がにやけていないかどうかまで、気を回している余裕はなかったから。
「僕は、イリヤ。正式には、もうちょっと長いけど、イリヤでいいです。ロシアの名前は面倒くさいから」
「あはは。ウチのコックのスペイン名もくっそみたいに長いわそういや。イリヤさんね、おっけー。えーと俺は」
「ユージン?」
「……せいかーい。よかったらまた来てね」
ひらひらと手を振ったユージンは、さっと扉を閉めて中に入ってしまった。本当はもう少し彼の影を追いかけていたかったが、僕は薬局のレジに立たなければならない。
日本は治安がいいせいか、二十四時間の店がとても多い。
病院ではなく薬局が二十四時間営業をしていると知った時は、とても驚いたものだけれど、いざそのレジに立っていると理不尽な人間と接する機会も多く、少なからず悲しい気持ちになる時もあった。
でも今日は、シフトを終えて家に帰るまで、きっと僕は何があっても浮足立ったような気持ちを維持できるだろう。
耳にしただけで、甘くとろけるフレンチトーストが想像できるような、そんな味だと彼は言った。確かにそれは素晴らしい一品だったけれど、僕はフレンチトーストと聞いただけで、気だるげな青年の耳に残る声を思い出してしまう気がする。
路地の先の、愛の店で久方ぶりに恋の種を見つけてしまった。
その店に辿りついたのは全て偶然のなせる業だった。
全てが偶然だったので、僕は、運命を弄ぶ神様に久しぶりに感謝をした。
2018.3.4のJ.GARDENで本にしたいお話。